プロローグ
山村あずかは、ある日突然姿を消した。
最後に目撃されたのは、少女がいつも散歩する林だった。
あずかはまだ十四歳。
真面目で可愛らしく、友達も多かった。
家族仲も良く、学校では成績も良かった。
将来は医者になりたいという夢を持ち、生物の勉強が好きな少女だった。
そんな子が、
何の前触れもなく消えた。
…………
……
…
だが、この少女は後に、熊に抱きついていた。
少女——
リーマは森から帰ってくるなり、興奮した様子でクレスおじいちゃんのもとへ駆け寄った。
「おじいちゃん!こっちに来て!」
「どうした?」
「この熊ちゃん、すごく大きいよ!今、外で待ってもらっているの!」
「熊?」
クレスおじいちゃんは目を丸くした。
「熊が来たのか!?危ないだろう!」
そこまで言って、ふと首を傾げた。
「……待ってもらっているって何だ?」
「ほら、今外にいるよ!」
リーマはクレスおじいちゃんの手を引っ張り、そのまま村の裏へ向かった。
そして、
「…………」
クレスおじいちゃんは固まった。
そこにいたのは巨大な黒い熊だった。
「こ、これ……ブラックベア……」
顔から血の気が引いていく。
「り、リーマ!早く逃げろ!そいつは危ないぞ!」
しかし当のリーマはきょとんとしていた。
「危ない?」
そう言いながら、ブラックベアに近づいた。
「こんなに可愛いのに?」
そして躊躇なく抱きついた。
「熊ちゃん、可愛い~。どうしてこんなに大きいの~?」
リーマが熊のお腹をなでなでした。
すると、ブラックベアは鼻を鳴らし、まるで甘えるように顔を寄せてきた。
「ふふふ~、くすぐったい~」
熊ちゃんはさらに大きな前足を回し、リーマを抱きしめた。
どう見ても仲良しだった。
「ほらね、おじいちゃん」
リーマは嬉しそうに振り返った。
「すごくおとなしくて可愛いでしょう?」
「…………」
クレスおじいちゃんは言葉を失い、ぼんやりとリーマとブラックベアのじゃれ合いを眺めた。
ブラックベアは森でも特に危険な魔獣だ。大人の男ですら襲われれば命はない。
それなのに。
「……な、なぜブラックベアが……おまえに……?」
もちろん、その問いに答えられる者はいなかった。
…………
……
時を遡り——
ある日突然、この少女は目覚めた。
何度も体を起こそうとしたが、力がまったく入らなかった。
諦めた少女は不安を抱きながら、きょろきょろと周囲を見回した。
ここは家かな?
見たことのない木造の部屋だった。
……だ、誰の家なの?
私はどうしてここで寝ているの?
少女は逃げようと思って再び体を起こそうとした。しかし、やはりまったく力が入らない。
「……ひくっ……」
不安はどんどん大きくなり、ついに涙があふれた。
しばらくすると扉が開き、一人の年老いた男が入ってきた。
少女はさらに泣いた。
……怖いよ。
「起きたか。大丈夫か?起きられるか?」
「……シクシク……」
「よしよし。泣くな。もう大丈夫だ」
年老いた男は微笑みながら少女の頭を何度も撫でた。
「おまえはどうしてあの崖にいたのか、覚えているか?」
「が、崖って?」
「そうだ。わしはおまえを崖の下で見つけて、この小屋まで運んできたんだ」
「わ、わからない……シクッ」
少女は目に涙を浮かべながら、また顔を横に振った。
「そうか。名前は?どこから来たか覚えているか?」
少女は小さく首を横に振った。
「……あ、ず……」
だが、続きが出てこない。
少女は困ったように、もう一度首を振った。
「そうか。まだショックが大きいのかもしれんな。
ここで休んでいれば、そのうち何か思い出すかもしれん。
今はゆっくりしていなさい」
年老いた男は少女の頭を優しく撫でると、小屋を出ていった。
少女はしばらく、その男が出ていった扉をじっと見つめていた。
やがて重くなった瞼が閉じ、再び眠りへと落ちていった。
小屋を出た老人は小さく扉を開け、じっと少女を見つめた。
黒髪。
黒目。
この辺りでは見かけない色だ。
それに、記憶がない。
老人は小さく首を振った。
「……考えすぎか」
少女は再び目を覚ました。
体を起こそうとしてみる。今度は何とか上半身を起こすことができた。
しばらくベッドの上でぼんやり座っていると、扉が開き、さっき会った年老いた男が入ってきた。
「もう起きられたのか。よかった。ほら、水だ。飲んどけ」
少女は言われるがままにコップを受け取り、水を一気に飲み干した。
「何か思い出したか?」
男に聞かれたが、少女は首を横に振った。
「そうか。わしの名はクレスだ。
おまえはとりあえずこの小屋に泊まれ。
立てるか?
少し外を歩いた方がいいかもしれん。
おまえは三日間も眠っていたんだからな」
「み、三日!?三日間もなの、クレスおじいちゃん?」
「そうだ。どうだ?立てるか?」
少女はベッドから足を下ろし、何とか立ち上がった。
しかし足元がおぼつかず、ぐらりと体が揺れる。
慌ててクレスおじいちゃんの腕を掴み、そのまま支えてもらいながら小屋の外へ出た。
ところどころ小さな木造の小屋が何軒か並んでいるのが見えた。
近くに森があって、山が見える。
……どこ?
二人は小屋の周りをゆっくり歩いた。
少女はふらつきながらも懸命に足を動かし、何周か歩いたところで、すっかり疲れてしまった。
再び小屋へ戻ると、クレスおじいちゃんは少女をベッドに座らせた。
「今日はこれぐらいにしよう。お腹は空いたか?何か作ってやるよ」
「お腹……ペコペコ……」
少女がそう答えると、クレスおじいちゃんは小さく笑った。
「分かった。ちょっと待ってな」
そう言って台所へ向かった。
その日以来、少女はクレスおじいちゃんと暮らすことになった。
三日が経っても、少女の記憶は戻らなかった。
自分の名前も、どこから来たのかも、何ひとつ思い出せない。
そんなある日、クレスおじいちゃんが少女に言った。
「名前がないと不便だからな。おまえを『リーマ』と呼ぶことにしよう」
「リーマ?」
少女は小首を傾げた。
「そうだ。わしの娘の名前だったんだがな。四十年前に亡くなった」
クレスおじいちゃんはどこか懐かしむような、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「おまえにとっては気味の悪い名前かもしれんが……」
「そ、そんなことないよ!」
少女は慌てて首を振った。
「すごく可愛い名前だよ!この名前をくれてありがとう、おじいちゃん!私は今日からリーマだね!」
そして満面の笑みを浮かべた。
「嬉しいよ!」
その笑顔を見て、クレスおじいちゃんも少しだけ目を細め、少女の頭を撫でた。
孫ができた気分だった。
こうして少女は、『リーマ』という名前を手に入れた。
何日が経っても、リーマの記憶は戻ることはなかった。
こうして、リーマの平和な村暮らしは続いていった。
優しい村人たちに囲まれ、
クレスおじいちゃんに育てられ、
時々泣いて、
時々騒いで、
時々森で問題を起こした。
毎日は穏やかに過ぎていった。
――「村を出たらどうだ?」
クレスが、その言葉を口にした日までは。




