裏
0
声を聞いた。
苦しくてたまらなかったとき、もう楽になりたいと思ったときに、たしかに。
たぶん、あれは神様の声だった。
医者から不治の病だと言われた。
体質が原因であり、現代医学をもってしても治療不可能だと。
この全身を苛む苦しさは「自然」なことなのだそうだ。
苦しみに彩られた命の形が当然だとされた。
なら、自然とは、きっと自分にとっての敵だ――
ベッドの上で、そう確信した。
この白い髪も、赤い目も、自然とやらが自分を憎んでいる証だった。
それを恨まなかったときはない。
だが、ある日ある時、突如として痛みは全てなくなった。
いつの間にか健康体になっていた。
「おにいちゃん、なんか、治ってる……」
ベッドから出て、リビングで俯いていた兄にそう告げたときの、あんぐりとした顔を覚えている。
起き上がることすら難しかったのに、ごく普通に呼吸し、ジャンプまで出来た。
兄の表情はすぐに歓喜へと変わった。
それからしばらくの間、普通のありがたさをこれ以上ないほど体感した。
外を歩くことができる素晴らしさ。
吐かずに、好きにものを食べれる嬉しさ。
生きるということを、ようやく実感した。
きっとその内に、学校にも通えるようになる。
コツコツと勉強はしていた。
学年よりも先まで進めていた。
けっこう頭はいい。
いじめられてしまうのかもしれない。
それですら、楽しみだった。
今までできなかったことが、体験できる。
すぐに、崩落した。
意識が途切れ途切れになった。
やけに力が強い。
どうしてこの食器、こんなに簡単に砕けるんだろう?
クッキーみたいに噛み砕ける。
けど、噛みたいのは、これじゃない。
本当に噛みつきたいのは、これじゃない。
凍える――
なくなってしまった、失われてしまった、冷たい。
なにが?
わからない。
ただ、寒い。
凍死しててしまう。
ああ、周りの人達は、あんなにも暖かいのに――
なんて、ズルい。
「お前……それ……」
兄がそう呼びかけたことは、覚えている。
顔を上げたとき、気づけば口の周りが血で染まっていた。
意識が、途切れる。
断片的にしか記憶していない。
兄の決死の顔。
他の人の、悲鳴を上げる様子。
閉じられた扉。
もともとは音楽のための部屋だった。
防音で、しっかりとした設備。
咆哮する、放浪する、寂しくて悲しくて――欲しくて仕方ない。
人間の血肉を。
――ああ、でも……
ふと思うことがあった。
――口に、兄の味がしていない……
それについて残念に思っているのか安心したのか、それすらもう憶えていないけれど。
3―2
意識を取り戻したときには世界は崩壊していた。
ゾンビだらけの世界になっていた。
憶えていたのより、ずいぶん年を取った兄が事情を説明してくれた。
ゾンビが溢れて、世界を覆ったのだそうだ。
「それでも、なんとかしてみせる」
「どうやって……?」
話を聞く限り、絶望的だ。
ここから復興する手段なんてありはしない。
「これだ」
薬瓶だった。
なんでもない、ごく普通のものに見えた。
「これを一錠飲ませれば、ゾンビを人間に戻せる。効くまで十年かかるが、それでも、戻せるんだ」
瓶の中に入っているのは500錠だった。
助けることができる数は、たったの500人。
だけど、その500という数が、何もかもを変えた。
「おにいちゃん、これ……」
「それは――」
身体を覆う、未知の力があった。
魔力とか、気とかの名前の、触れずに色々できる力だ。
ゾンビから人へと戻ってから、それが可能になっていた。
人以上の力だ。
兄と共にそれについて学び、徐々に上達した。
他のゾンビが人へと戻る10年間、その期間内に圧倒的かつ絶対的な力を身につけた。
空を飛び、濁流を逆しまに戻し、銃弾の雨の中を気軽に歩く。
不可能なことなど、なにもない。
寿命ですらも克服した。
500錠を使い果たし、同じような力を得た者たちを傘下に収め、ひとつの集団を形成する頃には、もう「神」を自称するようになっていた。
すべてを好きにできる力だった。
1−2
ドジを踏んだ。
どれだけ後悔しても足りないドジだった。
人間の悪意とやらを甘く見すぎていた。
あるいは、神という立場に――仮初でしかなかった地位に、胡座をかいて油断をしていた。
毒に、やられた。
なにをどうやったのか、すべてを自在とする「神」の力すらすり抜ける毒だった。
自分を自分自身であると認識するリンパ系への操作を行い、これを過剰に働かせることで身体にダメージを与えた。
神王を自称するようになった兄は、荒れ狂った。
「誰が人間を復興させたと思っている! 残存ゾンビどもを駆逐し、田畑にはたらきかけて実りを保証し、自然災害から防護した。その報酬がコレか! お前らすべて恩など知らぬ畜生か!」
兄にとっては、どうしても許せない裏切りだった。
連れてこられた主犯を惨殺してもなお、その怒りは収まらなかった。
あるいはそれは、恐れだった。
神であることは、十年のアドバンテージでしかなかった。
修練を重ねて寿命ですらも超越したものの、それは所詮、「人間が努力すれば到達できる地点」でしかなかったのだ。
兄はゾンビからの復活を果たしていない。
妹である自分の手助けがあったとはいえ、それは人間が頑張った結果としての「神王」だ。
いつしか人の手が届いてしまうものだ。
それは神が口にしてはならない、絶対の秘密だった。
人間に、気づかせてはならない。
気づけば全てがひっくり返る。
「また、会ったよ」
そんな崩潰の音がひしひしと聞こえる最中、珍しく兄が穏やかに言った。
この身体を起こさせ、苦しむ合間に薬を飲ませながら。
「前に言ったよな? あの薬商人に会った。向こうは、こっちのことを憶えてないみたいだったけどな」
万能薬をまた手に入れた
その効能は、誰よりも知っている。
十年という時間は、あっという間に終わるものでしかなかった。
そうして、二度目の健康を手に入れた。
もう二度と、人間を信用することはない。
同じドジは決して踏まない。
彼らは敵であり、信頼できるのは同胞だけだ。
そう骨身に沁みて理解した。
けれど、別の形で崩壊はやってきた。
喉が、乾いた。
欲しくてたまらなかった。
ゾンビ化と似ているけれど、もっと強烈な乾き。
吸血鬼と化していた。
二度目の万能薬が、おかしな形で作用したのかもしれない。
耐えることはできた、それでも時折は血を吸った。
吸血の相手は罪人か、どうしようもないクズに限っていたが、それでも神が「悪魔」として扱われるきっかけとしては十分だった。
同胞にも、同じ変化が訪れた。
500人の仲間たち。
同じく超常の力を自在に操る者たち。
彼らも、徐々に吸血鬼化していった。
まるでもう時間切れだと言うように。
あるいは――
気づいた。
ようやくだった。
「ああ、そうか、私が、ゾンビ化の大本だったんだ」
「違う!」
「私の変化が、彼らにも影響を与えている……」
もう記憶もおぼろな遥かな過去。
自然が敵だと確信していた日々の末に、人類を滅ぼしていた。
かつてのゾンビの王であり、今や吸血鬼の王だった。
ただし、なんの権力もありはしない。
配下は好き勝手に暴れるだけだ。
ただの飾りの、象徴としてのトップでしかなかった。
同胞たちは今や人を無差別に襲う鬼と化していた。
それを止める術は、何もない。
「俺が、なんとかする」
ゾンビ化を経由しない兄だけが、影響を逃れた。
剣を片手に人間たちと協力し、各地の吸血鬼たちを屠った。
そうして共に戦う内に、人間もまた強化された。
兄の戦い方を間近で学んだことで、神の領域へと足を踏み入れた。
兄は道半ばで他の吸血鬼の集団に倒されてしまったけれど、人間がその後を引き継いて、無事にすべて討伐した。
たった一人、始祖だけを例外にして。
それが、兄が人間と協力する条件だった。
もし裏切って反故にしても、きっと不可能だったけれど――
深く深く穴を掘り、兄の遺体を埋めた。
その顔は、どこか満足そうだった。
望むように戦い続けた、その果ての顔だった。
「ズルいなあ……」
その顔を撫でながら、つぶやく。
「一人で、満足しないでよ」
涙は流れなかった。
「私もつれていってよ……」
地下深くに部屋を作り、そこを墓標とした。
2−2
長く長く、時間がたった。
ただ墓守をするばかりの時間だった。
人間たちは、得た神の力を活用するかと思えば、それをあっさりと捨てた。
その力がどのような結末をもたらすのかを理解していた。
賢いな、と思う。
その選択は取れなかった。
思いつくことすら出来なかった。
代わりに彼らは知恵を発達させた。
知識を蓄え、誰もが扱える技術にし、それを広めた。
個人としての力ではなく、人類という種としての力を増した。
それは、かつてゾンビが滅ぼしてしまった世界に、とてもよく似ていた。
その様子を、見ていた。
ただ観察していた。
時々、どうしようもない人間をつまみ食いはしたけれど、それ以外は地下から人間たちの様子を見上げるばかりだった。
「なにしてんだろ、私……」
考えてみれば、望みなんてものはなかった。
やりたいことなど、思いつきもしなかった。
兄のように戦うことは趣味じゃない。
かといって、なにか研究したいことがあるわけでもない。
時間はただ流れた。
思い出すらも色褪せて、時の彼方に霞むほどの果て――
出会った。
「あ、どもども」
不審な相手だった。
排除しようとしてもできなかった。
血を吸っても吸いきれないような相手だったのだ。
久々に、話をした。
思わず本音を漏らした。
「あ、それなら簡単じゃないですか」
そうして渡された魔法薬。
それでようやく、気がついた。
気づくのが遅れたのは兄から伝え聞くだけだったからだ。
直接顔を合わせるのは、これが初めてだ。
魔術薬商人が、そこにいた。
それでも、魔法薬の性能はわかった。
体内の力へと働きかけて、流れを整え、望む通りの効果を発揮させるものだ。
短時間で効果を発揮させるため、相当無茶な手順だったが、たしかにこれなら滅ぼせる。
だからこそ、飲んだ。
残り一年という寿命を手に入れた。
そこからの日々は退屈で、平穏で、輝くようだった。
すべてのものが色鮮やかに見えた。
こういう日常こそが、一番欲しいものだったと思い出す。
長く長く回り道をして、ようやく手に入れた。
喫茶店でコーヒーを飲みながら周囲の人々を見ても、彼らはもう餌ではなかった。
同じ時を生きる者だ。
ちゃんと生きている相手だと実感できた。
夕日に涙し、季節を肌で感じ、お酒を静かに傾けた。
愛を囁かれることもあったけれど、丁寧にすべて断った。
別に恋愛くらい、最後にやってもいいはずだ。
いったいなぜ断る?
自問するたびに、兄の顔しか思い浮かばなかった。
それで、ようやく気がついた。
本当に今更だった。
色々な意味で、手遅れで、察しが悪い。
「好きな相手がいるんです」
気づいてからは、そう断るのが常套句となった。
そう言えることが、幸せだった。
我ながらヘンテコだ。
こんなに長く生きたのに、今はじめて恋をしている。
終わりの日々が近づくにつれて、兄について思い出すことが多くなった。
そうやって日々を過ごすことに、罪悪感まで覚えた。
世界を滅ぼしてしまった張本人だというのに、これ以上ないほど穏やかな最期を迎えようとしている。
贖罪すべきなんだろうな、とも思う。
けれども、一体どうすれば報いることができるのか、その術がわからなかった。
一年が過ぎた。
最後にどこにいたいかと言えば、やはり兄の墓標の傍しかなかった。
地下の施設へと舞い戻り、その時を待つ。
「あ……」
ふわ、と綿のように解けた。
腕の一部だった。
肘のあたりがぼやけたかと思えば、綿毛のように拡散した。
それは次々に身体中へと広がっていく。
不可逆に、確かに、死へと近づく。
頭の一部もほどけた。
目を閉じて、兄の墓標に接吻する。
思い出が蘇る。
あるいはそれは、走馬灯と呼ばれるものだった。
懐かしい日々が、次から次へと想起される。
退屈で灰色の、地下から人の興廃を見上げる日々――
他人事のようにそれらを眺めた。
苦しく窮屈で、穏やかな神としての日々――
あらゆる栄華に興味を持てなかったのは、満たされていたからだ。
兄と手を繋いで歩いた、ごく普通の日常。
本当にわずかな間しかなかった、ただの人として生きた日々――
人生の中で一番輝いていた。
病魔に苦しみ、ベッドの上でただ怯えていた日々――
無力な子供。
病気の女の子。
諦めしかなかった。
苛む自然とやらを受け入れるしかなかった。
本来、あそこで死を待つしかなかったのだ。
親は子供に興味というものがなく、ただ金だけを支払っていた。
根本的な治療法がないとわかると、さらにその無関心は増した。
彼らにとって子供とは、既にいないものとして認識されていた。
果てのない苦しみの中で、声がかけられた。
それは、その人は、ぼさぼさの髪の毛と分厚い眼鏡をかけ、いつの間にか寝室にいた。
「あ、どもども」
見たこともない薬を手にしていた。
病気をすぐに治す薬だった。
ひそかな楽しみとして持っていた、体調のいい時に食べる予定だったポテトチップス一袋と交換した。
その商人は、「あれ? 会ったことあります?」などと言いながら、その薬を飲ませた。
飲んだ途端、一部記憶が吹き飛ぶほどの衝撃に見舞われた。
あのときはわからなかった。
しかし、走馬灯を見ている今であればわかる。
あれは体内の配列を整え、病気へと対抗し、健康体へと戻す薬だった。
それは死をもたらした解呪よりも更に無茶なもので、特大の副作用を引き起こした。
急激な変化が、暴走に行き着いたのだ。
治すだけでは終わらず、そのまま体内に変化を起こし続け、ゾンビとして周囲を襲わせた。
つまりは、根本の原因は――
「お前のせいかよ!!!!!!!」
叫びは綿毛のように解けて消えた。
4
たしかに命は失われた。
たしかに死亡した。
それでも残るものがあった。
それは魂と呼ばれていた。
それは力と呼ばれていた。
それは――呪詛と呼ばれていた。
残存し目的を果たすべく起動する。
――考えをまとめよう。
それは思う。
すでに物質としての形はないが、思念を凝らす。
――私の人生の節目節目には、あの魔術薬商人がいた。
最初、薬で病気を治した。
その結果、ゾンビ化し世界は滅んだ。
そのゾンビ化を、万能薬で治した。
その結果、力を操る神となった。
毒を受けたが、万能薬で再び治した。
その結果、今度は吸血鬼と化した。
吸血鬼の不死を終わらせる薬を飲んだ。
その結果、死亡した。
個人としてみれば、それほど悪くはない。
だがそれは、周囲の被害を考えなければだった。
一人を治すために、何十億もの人間が犠牲となった。
比較にならないほどの被害と引き換えだった。
贖罪のために何をすればいい?
そんな問いの答えは、決まっている。
一番最初、子供の頃。こちらからすればはじめて出会ったはずなのに、あの商人は「会ったことあります?」と聞いた。
二度目だというのに兄と初対面のような顔をしていた。
出会った時と、向こうの時間がズレていた。
あの魔法薬商人からすれば、不完全な薬を渡すのは「未来」の話だった。
まだそれをしていない可能性がある。
今という時間は、苦しむ女の子にポテトチップスと交換で薬を飲ませるよりも前だ。
止められる。
このおかしな話を根本から壊すことができる。
――やってみせる……
決意する。
――あの魔法薬商人を倒し、今度こそ私は私を殺し切る。
人が今の繁栄を選択したように、力を捨て去ってみせる。
そのために、ふたたび力を行使する。
死した後であってもまだ、ゾンビの王、あるいは吸血鬼の王だった。
彼らの主だった。
直接の命令権を持たないが、純然たる支配者だ。
彼らの命そのものを、魂を支配してた。
――行け。
この地下室は捕食のための機構だ。
血を、力をより効率的に取り込むための牙だった。
それを伸ばす、時間ですらも越えて支配下にあるものたちの力を取り込む。
時間移動そのものは不可能だが、支配下にある者の呪詛を引き抜くことはできた。
想いや魂が時空を越えた。
過去、人と戦い敗れた吸血鬼、その断末魔からもれるものを取り込む。
兄により討ち滅ぼされた吸血鬼の、その魂をすくい取る。
あるいはゾンビたちの、無数に発生しては滅びる彼らの魂を。
神とも呼ばれる力により無造作に破壊された彼らの呪詛を。
数で言えば三十億を越える魂を、力を、呪詛を糧とする。
不可能を可能とするための礎とする。
あの商人の居場所を探り、行き着き、届かせる。
人類の滅ぼした敵を、滅ぼす。
時の果て、かすかな縁の繋がる遥か先、通常であれば決して届かない地点に、それはあった。
見た目としては、分厚い壁。
悪霊であるというのに、通り抜けれない。
だから代わりに僅かな穴を開け、徐々に徐々に力を注ぎ込む。
ここへと到達するために、十億人分をすでに消費していた。
この壁を越えるのに、さらに五億が必要だった。
そこまでしてやれたことは、壁の汚れの作成程度のものだった。
どれだけの防護が張られているのか、想像もできない。
それでも――あきらめなかった、呪い続けた。
そうして、室内にまで侵入した。
仮初のそれの見た目は真っ黒な頭部であり、呪いの塊だった。
目を開き、周囲を見渡すと、商人がいた。
残存十五億の呪詛としてそれと対峙する。
ぼさぼさの髪の毛、分厚い眼鏡、野暮ったいローブは、目をまんまるにしていた。
部屋の中は狭く、とても平凡だ。
どこにも特別も、強力もない。
しかし、間違いなく、全ての主因が、そこにいた。
叫び、力を放出する。
どのような対処法があろうが関係ない、混沌の属性が濁流のように押し流した。
呪詛と力と魂魄の混合。
口内から放たれたそれは「わ」という叫びごと商人を攫い、粉々に砕いた。
人間でもゾンビでも神でも吸血鬼でも、抵抗すら許さない一撃で薙ぎ払った。
血肉が飛び散り、惨殺死体を作り上げる。
――ぐぅう……ッッ!
それだけでは飽き足らず、腕も引き抜き、魔術薬を作り出すためであろう装置を叩き壊した。
――よし……!
きっとそれは、過去の自分の病気を治すためのものだった。
あまりに急激に治したせいで、ゾンビ化させてしまう劇薬の製造機だ。
この商人の縁者が作成するかもしれない未来ですらも、今叩き壊した。
――因果は完全に断たれた……!
自分は治らなかったことになる。
多くの犠牲も発生しない。
この薬の作成から先の出来事はなくなる。
――はは……
がくりと力が抜けた。
次から次へと、力が、魂が、呪詛が抜ける。
それらは元からなかったこととなる。
半端な身体がボトリと床へと倒れた。
上半身だけが、切断されるように放置されていた。
それでも笑顔は止まらない。
床に転がりながらも、たしかな満足があった。
――これで、少しは罪の贖いになるかな……
床を水平に見ながら、そう思う。
視線の先には扉がある、わずかに開いていた。
その隙間の暗がりを見ながら、ふと、疑問が浮かんだ。
本当にかすかな、吹けば飛んでしまうような、ちいさなものだ。
――どうして、この魔術薬商人は、何度も私と関わったんだ……?
たまたま?
偶然?
見れば扉は次元を渡れる類のものだ。
それを使用したことはわかる。
しかし、そんな偶然が何度も起きるだろうか?
一度や二度ならともかく、四度だ。
確実になんらかの意図を持って行わなければ不可能だ。
それとも、そんなにも深い縁が商人と自分の間にあったのか?
一体どうして?
誰かの計画だったとしても、きっと魔術薬商人ではない。
なにせ今現在、くたばっている。
そのような用意周到を行うにしては不用心だ。
この部屋への侵入も、随分時間が必要だった。
汚れのようなものが浮き出ていたはずだ。
それを無視して、危険視せず、ただ攻撃を受けた。
主犯だとしたらあまりに間抜けだ。
だとしたら、一体誰が?
あるいは、どのような原因が?
見開く目の先の、扉がゆっくりと開く。
開き続ける。
時空の歪みが、広大な茫漠があった。
この場所に来るまでに渡ってきた空間だ。
見慣れている光景だった。
万や億を簡単に越える無数の可能性、さまざまな時と場所の風景の中で、ひときわ目立つものがあった。
自分だった。
銀髪に赤い瞳。
けれど知らない自分がそこにいた。
平凡に成長し、平凡に恋をして、けれど、それは兄で、周囲といざこざがあって、それでも諦めきれずにゴタゴタして――
笑ってしまうほどに小さな、だけど、本人からすれば世界が終わるほどに真剣な出来事。
そんな当たり前が、見えた。
――……
言葉が出ない。
なにを思えばいいのかすら、わからない。
とても幸せそうに、涙を流して微笑む顔。
苦悩と葛藤の末の、一つの結論。
それが、ほどける。
だんだんと、逆しまに戻っていく。
大人だった姿が子供に、子供から赤ん坊に、そして――
――違うッッ!!!
抜け出ようとする力をかき集めて、床をつかむ。
叶わずに滑った。
ずるずると、引きずられる、扉へと。
――私が、今の私が、あれに影響を与えれば、それは……ッ!
母親の姿があった。
そこに赤ん坊がたしかにいた。
兄が、不思議そうに膨らんだお腹を見ていた。
――呪ってしまう……身体を病弱にし、たとえ治ってもゾンビ化し、果ては吸血鬼と成り果ててしまう呪いを送ってしまう……!
身体の力は抜ける。
抜け続ける。
そして、引きずられる。
誰に?
犠牲にし続けてきたゾンビたち、吸血鬼たち、その被害にあったものたちの手によって。
30億以上の被害者たちがこの地点まで来る力となり、今や無限に繰り返されるルートに向けて引きずり込もうとしていた。
見えぬそれらが、ズルズルと、明確な意思と恨みをもって。
――これは、これはいったい何度目なんだッ!
きっと最初ではない。
きっと何度も何度も繰り返されたからこそ、あの魔術薬商人と自分との間に縁が結ばれた。
次元を渡る扉を適当に開けても、繋がるほどに。
――ああ、くそ、ああ、畜生……ッ!
後悔しかない。
悔しさしかない。
なぜなら、この繰り返しが発生しなくなるルートは、きっといくらでもあったのだ。
力を捨てればよかった。
いつまでも未練たらしく保持せずに、とっとと放り捨ててしまえばよかった。
兄と結ばれればよかった。
それだけで自分は満足し、それ以上の何かをすることはなかったはずだ。
復讐などしなければよかった。
まして、それまでの被害者たちの、死亡した彼らの力を消費しなければ、この事態には繋がらなかった。
引きずられる、引きずられる。
すべては崩壊を続ける。
呪ったものが呪われる。
大衆の呪詛が最悪へといざなう。
力が抜ける。
魂が、力が、呪いが消える。
多くの手が奪い去っていく。
そうして、ほんの一点、ちいさな種のようなものとなった。
それは扉をくぐり、時空を渡り、遥か過去の、受精卵でしかない「自分」へと行き着いた。
まるで、それこそが自然だとでも言うように――
遠く、扉が静かに閉まった。
+ + +
「お」
商人はパチパチをまばたきをした。
「うわ、寒っ!? え、なにこれ、なにが起きたのー!?」
気づけば裸だった。
ローブも下着も粉々に砕け消えていた。
「なんか、器具まで壊れてるし、えー……?」
不思議不可思議に過ぎた。
「……ひょっとして、前に飲んだ万能薬が効いたのかな……?」
効くまで十年もかかる薬、当然のことながら商人自身にも試していた。
なんの病気もしていなかったから、その効果は発揮されず、いまいち実感ができなかったが。
「よくわかんないけど、死ぬ、って状態すらも治したのかなあ」
そんな馬鹿なと思う。
それはさすがに効きすぎだろう。
「んー、んんー、まあ、いいや。とりあえず、もう一回、作ろうとしてたのを作ろう」
器具なんて、また作成すればいいだけだ。
何度だって作り直せる。
効果時間を短縮した、すぐに健康になれる薬の作成だ。
たいていの場合はちゃんとした効果を発揮するはずだった。
もし、仮に、魔王や神様なんてものを封じた魂がそれを飲めば大変なことになるが、そんなことは滅多に起きない。
「よし、やっちゃろ!」
やる気に再び火が付いた。
こんな程度ではあきらめない。
この薬で皆を救うのだ。
その背後には、扉がある。
時空を簡単に渡ることができる扉だ。
今はまだ、それは閉じている。
了