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602号室はそこそこ広かった。奥にある扉を開けると十二畳程のリビングがあり、そのリビングを見渡せる感じで左手にキッチンがある。右手にもう一部屋あるらしかったが、そこに通じる引き戸は閉め切られていた。トイレと洗面所は玄関からここまでの間の廊下の途中にあって、更にもう一部屋あるようだった。
リビングには、二人用のソファが一つ、ダイニング用の丸テーブルに椅子が二脚あった。液晶テレビもある。
ショックから立ち直れていない僕は、ソファや椅子に座ることなくリビングの入り口付近に立ち尽くしていた。視線は窓の外に向けられていた。雨粒が水流になって窓の外側を流れている。空は依然、灰色のままだった。不吉だと感じた先程の僕の予感は見事に的中したわけだ。
一方ケイは、何事も無いかのような足取りで、涼しい面持ちでソファに腰を下ろした。掛け値無しに優雅なしぐさだったが、その優雅さに僕はなぜか腹が立った。だが嫌悪感は無かった。これは彼女があまりに美しすぎるから、と、推測できた。この女は見た目でかなり得している。
「いつまでつっ立ってんのよ。座ったら」
僕の腹立ちになどまるで気付かずに(それとも気付いていて興味が無いだけなのかも知れないが)、ケイは、丸テーブルの傍らにある椅子を、顎で指し示した。
何だよ偉そうに、とむかつきながらも、僕は言われた通り、彼女が示した椅子に腰掛けた。椅子には、ご丁寧にクッションが付けられていた。腰が冷える心配は無さそうだった。
ケイは、長い足を組み、両手をソファに立てる格好になって、僕を見た。僕もケイを見た。彼女の瞳は、常夏の島の美しい海のようで、僕は高校時代に修学旅行で行った沖縄を思い出した。
「……るのよ」
ケイのそんな瞳に吸い込まれかけていた僕は、彼女の放った何らかの言葉を聞いて驚き、我に返ることができた。危ないところだった。もう少しで心が囚われてしまうところだった。
「え?」
よく聞き取れなかった僕は、問い返した。
「だから、あんたがするのよ」
さながら刑事事件の裁判で裁判長が宣告する判決のごとく、彼女はそう言った。
何のことかわからない。さっぱりわからない。
「な、何が」
嫌な予感がして不安になりながら、僕は言葉を発した。
「家事」
「は?」
「家事よ。全部、あんたがするのよ」
組んだ足をぶーらぶーらさせながら、彼女はキャスターがニュース番組で原稿を読み上げるように冷静な口調でそう言った。
「な、何で?」
「何でもあさってもないわよ、全くとーへんぼくね」
「な、何で僕が全部するんだよ」
「当然でしょ。あんたあたしが誰だかわかってるの? 将来の大女優よ。そんなあたしが、なんでそんなことしなきゃなんないのよ」
ケイの目に宿る光に、名称を与えるとしたら、ただ一つしかなかった。「自信」だ。
「い、嫌だよ。お前もしろよ、共同生活なんだから」
僕は反対の意を述べた。
その言葉を聞くと、ケイの頬に痙攣が走った。彼女は組んだ足を元に戻し、すっくと立ち上がって、
「何よ! あたしに意見する気!」
と、怒鳴り散らした。
一瞬気圧されたが、僕はすぐに立ち直り、立ち上がってケイと向かい合った。
「な、何だよ、怒鳴ることないだろ!」
「あんたが怒鳴らせてるんでしょうが!」
「僕が何言ったっていうんだよ!」
「あんたみたいなのがあたしに意見するなんて百万年早いのよ! このとーへんぼく!」
「とーへんぼくとーへんぼくってなんだよ! このヒステリー女!」
「言ったわねえ! とーへんぼく」
「先に言ったのはそっちだろ! ヒステリー!」
「とーへんぼく!」
「ヒステリー!」
僕たちは、お互いにふうふうと荒い息遣いになって、睨み合っていた。彼女の目は、まるで炎が燃え盛っているようだった。僕の目も彼女にはそう映っているのだろうか。いや、この様子じゃ、何も見えていないのかも知れない。
だめだ。付き合ってられない。こんな奴と一緒に暮らしたら、おかしくなってしまう。書けるものも書けなくなってしまう。
僕はそう判断した。そして彼女の目から視線をそらすと方向転換し、廊下へと通じる扉に向かって歩き出した。
出て行こう。一分一秒、こんな所にはいたくない。こんな奴の顔は、二度と見たくない。綺麗なバラにはトゲがあるって言うけれど、こいつの場合は、トゲじゃない、カミソリだ。鋭利なカミソリだ。触れるとどんなものも傷つける。相互理解なんて望める相手じゃない。
「何よ! 逃げる気!」
背を向けている僕に向かってケイはそう叫びつけた。だが、僕は無視した。扉のノブに手をかける。
「あんた、そうやって逃げてきたのね」
声のトーンが急に変わった。怒声でなくなり、蔑むような調子になった。
その変わり様にびっくりして、僕はノブを回しかけながらつい振り返った。あからさまな軽蔑の表情を浮かべたケイの顔が目に入った。
「そうやって逃げてきたんでしょう。今まで、ずっと。目の前に立ちはだかる困難から。そしてそんな自分にこう言うんでしょう、今回は運が悪かっただけだ、でも次は違う、次こそは何とかして見せる、って。はっきり言いましょうか。あんたに、次なんか無いわ。壁を越えられない人間に次なんか無いわ。あんた、小説家を目指してるんでしょう、仮にも物書きの端くれでしょう。あんたの目指す世界がどれだけ困難を伴う世界なのか、あんた、わかってんの? わかってて小説を書いてるの? わかってるのなら、どうしてあんた今、ここから去ろうとしてるの? こんな女二度と見たくない、こんな所で小説なんか書けない、そう思ってるんでしょう。違うわよ。こんな所で書けないあんたは、どんな所でも書けないわ。あんたは自分に都合の良い理由を付けて、いいえ、勝手にありもしない理由を捏造して、それを壁から逃げる口実にして、抜け道を必死で探してるんだわ。そんなもの、どこにも存在しないわよ。抜け道なんて無い。あるのは立ちはだかる壁、困難だけよ。今目の前にある困難を、超えられないようじゃ、あんたは、永遠に、小説の世界で日の目を見ることはないわ。さっき、先生に電話で聞いたら、小説家志望だって言ってたから、どんな男かと思って興味を持ったら、まあ、なんてだらしのない、くだらない、見込みの無い男なんだろう。いい? あんたは今、逃げようとしてるのよ。逃げる人間には、誰も目をかけてくれないのよ、あんたが飛び込もうとしている世界はそういう世界なのよ。そんな初歩的なことを知りもしないで、よくもまあ、小説家になろうなんて思うわね。ちゃんちゃらおかしいわ」
まるで舞台の上でセリフを言う役者のようだった。そこまで一気に、冷酷と言える程落ち着いた声音で、所々に抑揚をつけながら言うと、ケイは、おどけたように右手を頭のそばでひらひらと振って見せた。小指にはめてある小さなシルバーリングが照明を反射してちかちかと光った。
僕は押し黙ってしまった。侮辱されてるはずなのに、何も言い返せなかった。ぐうの音も出なかった。北野の自己陶酔に浸りきった言葉とはまるで違う響きを、ケイの言葉は持っていた。
悔しいが、こいつの言っていることは正しい。小説家の世界は、そういう世界だ。誰も助けてなどくれない。ただ前進すること、それだけで自分の存在価値を知らしめなければならない世界なのだ。
負ければ終わる。
逃げれば終わる。
小説家を目指す以上、生きるか死ぬかの闘いの中で、逆境に耐えながら歯を食いしばって書き続けるより他はないのだ。
ケイの言う通りだった。僕は、甘えている。
「何とか言いなさいよ、ええ!?」
両手を腰にあてて、ケイはそう凄んだ。仁王のように立ちはだかっていた。
俯いてしばらく考えた後、僕は決心した。顔を上げて、こちらを睨み付けているケイの、狂おしい程情熱を秘めた目を見返しながら、こう言った。
「やってやろうじゃないか!」




