第二章 23 〇別れ
善は急げ。
その言葉に引っ張られるように、次の日には茜が馬車を出してくれた。それも普通の駆竜ではなく、品種改良された細身のイケメンだった。同じ種とは思えないほどスマートで馬のように走る。
アルトの乗っていた駆竜の比ではないほど早かった。
「まだ聞いておらんかったな」
魔の山を駆け上る馬車の中で茜が問いかける。
「なにを?」
「魔の山に来たがる理由じゃ」
「そんなに深い理由はないよ。単純に森神に会いに行くだけ」
「森神は死んでおるはずじゃが?」
「それは知ってる。でもそうじゃないんだよ。少しは供養してやらないとなって」
急に馬車が停止する。
「なんかあった?」
「検問じゃ。魔の山を迂回するか直通するかどうするかの分かれ道じゃ。霊装で判別しておる最中じゃな」
気になった風月は扉を開けて、外を確認する。そこにはおなじみの魔獣たちがしっぽを振りながら待ち構えていた。そして、風月を見つけた瞬間、懐いた犬のように飛びついてきた。大型犬より巨大な体躯に押しつぶされて、馬車の中で倒れこむ。
「随分と懐かれておるの」
「獣臭い……」
魔獣は当然歯磨きなどしない。ゆえに口が臭いからべろべろとなめる尾はやめてほしかった。何とか押しのける。
「魔獣たち、森神の所へ案内してくれ」
「ヴォウ!」
直後、魔獣に体当たりされてひっくり返る。再び馬車のなかで転がる寸前に魔獣が滑り込み、ベランダにかけられた布団のような体制で、魔獣の背中に乗ることになる。
「まって、いやな予感がする。案内、案内だから!」
「ヴォウヴォウ!」
「そんなわかってます見たいな反応しても絶対わかってないだろ! なぜなら俺がこの体制だか――」
直後、ギュン! と。身体が引っ張られた。魔獣の四肢が地面を駆る度に腹へ衝撃が駆け抜ける。必死に魔獣の毛につかまり振り落とされないようにする。こうなるとなぜ馬に鞍がついているのかよくわかる。
衝撃を吸収し、振り落とされないようにするためだ。
このままでは過労死一直線だ。とにかく空気抵抗を減らすために魔獣にしがみつく。とにかく態勢が悪い。
またがるのならまだしも、こんな風に引っかかっているだけでは空気抵抗にされていつ吹き飛ばされてもおかしくない。車よりも早く駆ける魔獣から転がり落ちればおろし金と大根の関係のように、肉が骨から削り落とされる可能性すらある。
そんな想像を働かせた風月には恐怖しかなった。振り落とされないことだけを目的に、風月は魔獣の毛をひっつかんで跨るように体を直す。少しでも体が浮けば空気抵抗によってめくられそうだった。目もうまく開けられず、魔獣の毛に顔をうずめる。
すると、風が凪いだ。恐る恐る目を開けて、前を見る。魔獣の毛が空気を流してくれて、顔に直接風が吹きかかることはなかった。
そして、光も差し込まないほど鬱蒼とした森の中をノンストップで駆けていく。
木のシルエットどころか色しかとらえられないほどの速さで景色は流れていった。その途中、葉か枝か。風月の頬を何かがかすめて切り傷ができる。そこからあふれる血液が後ろに流れていくがそれすらも風月は気づかない。
「すっげ」
仄暗い木陰に目が慣れてくると、余裕ができた。
身体の表面を撫でる風が心地よく、どこまでも駆けていきたくなる。膝と腿で尾根のような魔獣の背中を左右から挟み込み、腰を浮かせる。騎手が馬に乗る時の姿勢だ。
風月はこの姿勢が空気抵抗を減らし、体に直接襲い来る衝撃を和らげると知っている。
しっかりと毛をつかみ、魔獣の耳の間から鼻先を映し、その延長線上の世界を見つめた。
「来る」
木立の隙間。或いは森の終わり。ひときわ明るい向こう側が別世界のように見えた。
遥か先に見えたその場所へわずか数秒。最後の木立の間を駆け抜ける。
ぶわっ。
明暗の差に目がいたくなる。それすら無視できるほど風月にとってその光景が素晴らしかった。
山の草原と川。
黄緑色に萌える草原を一心不乱に駆け巡る。
このまま頂上へ行くのだと感じた。森林限界を迎え、高木がなくなり、低木だけになる。やがて岩肌がむき出しになった場所を軽やかに駆け上がり、最後の岩棚へと差し掛かった。ここへたどり着くころには速度はだいぶ緩やかになっていた。
ちゃっちゃっちゃ、魔獣が岩場を踏みしめるたびに爪が岩とぶつかり音を立てる。
上下の動きがより激しくなり、呼吸が苦しくなるのを感じた。それは疲労でもあるし、急に高度を駆け上がったからでもある。
ピタリ、動きが止まる。魔獣が振り返り、風月をじっと見つめてくる。目の前には巨大な壁と称しても差し支えのない岩。
「ここを上るのか?」
「ヴォウ」
「ここまで来たのならそれも悪くないか。よし」
膝と腿の位置を直し、より深く毛につかまる。姿勢を伏せて、体重をしっかりと安定する位置へと預けた。
同時に魔獣も駆けだす。
しなやかな体を使って、わずかなとっかかりを、風月の体重をものともせずに駆け上がっていく。むしろ問題があるとすれば風月のほうだ。少しでも気を抜けばそのまま真っ逆さまに墜落する。
その恐怖があったにも関わらず、気づいたら笑顔が出てきていた。
(この山の頂上。その景色はきっと誰も見ていない)
森神が1000年もの間君臨してきたゆえに、この土地に旅人は踏み入らなかった。その最たる場所がこの先の頂上。
その景色を想像するだけで楽しかった。
見たことないものを見る。食べたことのないものを食べる。経験したことのないものを経験する。それが旅の醍醐味だ。
誰もが見なかった光景を最初に目にする栄誉に心が躍った。
やがて、岩の頂上へと魔獣が飛び上がり、ようやく頂きに立つ。
「…………」
言葉が出なかった。草、森、岩、川。そんなありふれた光景だけを詰め合わせたものなのに、壮観だった。
ここから見ると、何もかもが小さく笑えてきた。
魔獣から降りて、頂を踏みしめる。隣の山は同じくらい大きく、開発が進んだ王都だ。登ってきた方角にはドラクル領が。その横を大河が流れ、北と東を分断している。
この世界は面白すぎた。風月にとってここは宝の山でいつまでも遊んでいられる庭だった。
ここを消してしまうなんてもったいない。そう思えた。
「はは、はははっ!」
手を広げ、ほかに見上げるものがない頂で踊る。そして、足をもつれさせ、大の字に転がった。
肺に目いっぱい吸い込んだ空気を吐き出して、太陽を浴びる。
身体が痛むのは筋肉痛のせいだ。それにあっさりと駆け上がってきたのに妙な達成感があった。いまだに興奮と恐怖で膝が笑っている。
「すごいな……」
心が満たされる気がした。
「ぐるるる」
のどを鳴らしながら風月の袖を噛んで引っ張る魔獣。催促しているのはさすがに気付いた。今回の目的は森神のもとへ行くこと。
「わかったわかった。袖をよだれでべとべとにするなよ」
再び魔獣にまたがる。今度は行よりも視覚的な恐怖が襲ってくる。正面から岩が迫ってくるのだ。そして、落下の浮遊感により、腹の底にぐっと力が入る。そのあと、自分の体重を感じないほど見事に勢いを殺して、岩山を駆け降りる。
風月は絶叫マシンの類は得意ではない。にもかかわらず、魔獣に乗っての山下りはジェットコースターの何十倍も恐ろしいのに、楽しかった。
恐ろしいほどの速度で山の斜面を駆け降りて森神の遺体のもとへとたどり着く。
8メートル近い巨体が横たわっているのだ。その周りには魔獣たちが寄り添っていた。
しかし、赤い瞳に光はない。その開いたままの目に両手で瞼を下ろす。
森神の横で腰を下ろした。
もうそこにはいないはずの森神を見据えて語り掛ける。
「認めてくれた時、うれしかったんだよ。俺の居場所は〝向こう〟にはないんだ。そしてここにもなかったんだ。だから、対等だと見て目てくれたことがすごくうれしかった。ありがとう。でも、ここに来たかったのはお礼ってわけでもないんだ。今までお疲れ様」
これが言いたかった。
「森神、お前は再び森になる」
立ち上がる。落ちている木を拾い上げ、地面を掘り返していく。
8メートルもの巨体だ。埋葬には非常に時間がかかる。それに魔獣たちがいるとはいえ、死肉を漁る獣に掘り返されないところまで掘り返すのは骨だ。それでもできる限りはしっかりやりたかった。
木の枝を握り、わずかに、それでも確実に掘り返していく。
魔獣たちは風月の意図を察したようだ。もともとそういう文化があるのか、あるいはこういうことをしているのを目撃したことがあるのか。風月にはわからずとも、穴を掘る手伝いをしてくれたのは確かだ。
日が傾き、空が赤みを帯びる。そしてその赤い空すらも王都の影に消え去ろうとしたその時だった。
激しい音とともに、馬車が走ってきた。見覚えがある。茜の駆竜だ。この近くには確かに一本道がある。
「ようやくついたの」
馬車の中からは当然茜が出てきた。風月の顔を見て胸を撫でおろす。
「何をやっておる。いきなり飛び出していきおって」
意図的に飛び出していったわけではないにしろ、そのくらいの叱責は覚悟していた。しかし、すぐに茜も察したようだ。
「森神……。埋葬じゃな」
「うん」
「だからスコップかの」
「武器って言って下ろされたけどね」
「魔の山に行くのじゃから当り前じゃ。まあ、少し待っておれ」
煙管を吸い、大量の煙を吐き出す。そこには煙に紛れてしっかりと魔方陣が見えた。その中に茜が右腕を突っ込むと、通過したそばから、銀のガントレットが張り付いていく。
引き抜くころにはアルトのもと細かな意匠は異なるものの、やはり細部まで見ると素晴らしい。さらに紫色の光がこぼれ始めた。剣気ではなく魔術。魔術の光がゆっくりと地面に溶けていく。
「よく見ておくのじゃ。魔術とは想像次第でさまざまに使える。剣気よりもはるかに応用が利くものじゃ」
爆発でもするのかと身構えたが、結局そんなことはなかった。今度は夕日が沈むその境を幻視した。こうもまじまじと観察することはなかった。銀のガントレットに茜色の剣気が吸い込まれていく。名は体を表すとは言うが、その光景はあまりにも美しくて見とれていた。
剣気を纏った茜は地面をつかみ、そのまま持ち上げる。一掴みの土でも救い上げるような動作だったにもかかわらず、引きずりあげられたのは巨大な土塊が持ち上げられた。できた穴は森上を埋葬するに十分なほどだ。
「そう驚いた顔をするでない。魔術で土を固めただけじゃ」
あっさりというが、アルトやリナにはできないことだ。
「四獣や森神と張り合うのなら、このくらいできるようになるのじゃな」
巨大な土塊をぽいと放り投げる。
こうなれば後は森神を埋葬するだけ。この巨体を風月は丁重に押していく。魔獣たちもか細い声をあげながらそれに追従してくれた。
その巨体が穴へと落ちた。最後に埋めるだけ。
「さようなら、森神」
森神は土の下へと消えていった。




