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よろこびの声音


 ヨツツジの森に入る為の魔法許可証を翳すと、薄膜のような鏡が消えてなくなる。祝祭が終わっても新聞の紙面を飾るのはルカやラゼルのことばかりで、ルカは久々に来た森の中に入ると溜息を吐き出した。喜ぶべきことなのだろうけど、報道された内容をみるとあまりにも釣り合っていなくて、笑えてくるほどだ。

 両親は結印式のことは「お前が望むなら」と送り出してくれた。心配性なのに愛情深く心の広い両親。そんな両親からですら「ルカ、あなたもっと王太子様に釣り合うよう、努力なさい!」との声が飛んできた。結印式の様子は喜んでくれたのに、現実はこうである。


「釣り合い……かぁ……」


 ラゼルと釣り合えるようなものが何かあるだろうか。考えつつ、森の中を探索する。

 今日は少し違うほうに行ってみよう、と足を向けた途端、全く違う方向へと風が走り抜ける。緑の粒子を含んだその風から、何か心地よい音が聞こえた気がして、その緑の風に魅せられたルカは誘われるように進む。


 草木が茂る狭い道をかき分け進んだ夜光虫のいない桜色の風景のその先に神秘的な湖が広がっているのが見えた。ここだけ翠色の光が湖全体を照らしていて、見たことのない草花が咲いていた。


 だが、何より注目すべきなのは、湖の中心にある鉱石だった。


 ルカは息も忘れて、その大きな鉱石を見上げていた。

 セレン鉱石よりも一回り大きなそれは、まるで遠浅の海を閉じ込めたような色彩を揺らめかせている。鉱石の中は翠と蒼がゆったりと波打ち、固いクリスタルのような外側とは裏腹に、中は澄んだ水で満ちているようだった。

 

 ルカは迷ったあと、湖の水を採取し、検査キットで湖の中に入っても問題ないか確かめる。

 検査の結果、不思議な数値を出していたものの、入っても人体に問題はなさそうだった。

 ごくりと喉を鳴らして、ルカはそっとつま先から湖の中へと入った。湖はひんやりと冷たく、ルカが動く度に光が跳ねた。鉱石の前に立つとルカは何故か手袋をはめるのを忘れて、手を伸ばし、触れてしまう。

 すると鉱石は歌うような音色を鳴らしていた。

 まるで、喜んでいるかのように。心地の良い音だった。

 歌っているみたい、とルカはくすりと笑う。


「……綺麗」

 

 思わずそう呟くと、ぽろり、と鉱石の欠片がルカの手に落ちた。澄んだ水が僅かに流れ、湖へと落ちる。

 手のひらほどのそれと、鉱石とを交互に見て、ルカはつい顔を綻ばせて笑う。


「もしかして、くれるの?」


 尋ねてみると、優しい音色が鉱石から聞こえてきた。

 こんな事は初めてだ。呼応してくれる物質など世界でも稀だと世界薬術辞典にはあった。

 ルカはもらった鉱石の欠片を採集箱に保管すると、念の為湖の水や草花を採集して、鉱石へと頭を下げた。


「いっぱい取っちゃってごめんね。でも、ありがとう。すごく助かりました。もしかしたらまた来るかも」


 そう告げると鉱石が穏やかな音色で鳴く。ずっと聞いていたくなる音だ。

 そろそろ帰ろうと思うと、翠色の風が帰り道を示すようにさらさらと流れていった。


 ルカはもう一度振り返ると、ありがとう、と言ってから風の導くままにヨツツジの森を後にした。






 薬術室に戻ってリオンに今日得た物質を手渡していくと、リオンは目を丸くして「どれも見たことがないなぁ」と言った。


「だよねぇ。この鉱石とか、私が削ったんじゃ無くて貰ったんだよ?」

「貰った?」


 益々目を丸くするリオンにルカは頷く。


「そうそう。まるでプレゼントするみたいに、ほろりと崩れて欠片をくれたの」

「うーん、不思議ですねぇ。採集するなら分かりますがくれたとなると……そんな奇妙な物質、見たことありません」


 ちらりと時計を見て、もう12時だということに気づきルカはリオンへと言う。


「ごめん、リオン。悪いんだけどこの鉱石とかの成分を抽出しておいてもらえないかな?」

「勿論。お安いご用で。パパッとやっておきますよ。王太子殿下とのランチですか? 王太子妃様?」

「……その言い方やめてよ。嬉しいけど、リオンはいつも通りでいいんだから」

「はは、そうですか。それじゃルカ様、いってらっしゃい」


 そう言われてリオンに送り出されると、ルカは白衣を纏ったまま真っ直ぐに執務室へと向かった。今日も扉には数人の列ができていて、ランチは難しそうだ。一旦引き返して食堂で軽食を買うと、再び執務室へと戻る。さっきより人数が減った為、ここで待とうかと軽食が入った紙袋を手に、列の最後尾に並ぶ。

 途端に、気付いた文部科学部の中年の副部長が目をいっぱいに見開いた。


「おおお王太子妃様ッ!? 申し訳ございません……! どうぞ最前列に!」


 その声に反応して他の部署の人たちも振り返り、驚愕の表情を浮かべ譲ろうとする。こうして列に加わるのは「婚約者」であったころもなかったことだが、「王太子妃様! どうぞ!」と呼ばれると急に自分が偉そうな奴になってしまったような気がして、ルカは落ち着かない。


「皆さんはお仕事でしょう? 私は大した用でもないのでお気遣いなく。それに王太子妃というのは王宮内では使わないで良いですよ。今まで通り呼んで下さい」

「は、はい! ありがとうございます!」


 何だか申し訳ない気分になった。軽率な行動だったかもしれない。確かにルカだって、目上の人が自分の後ろに並んでいたら恐れ多い。ルカは反省した上で、今度からは部屋に列が出来ていたらその時点で退散しようと思った。

 それにしても、今日ヨツツジの森で採取した鉱物の成分は一体、どのようなものなのだろうか。今まで新しい物質を手に入れ、その成分を調べてみては落胆の連続だったので期待が高まる。そして、またあの翠の湖にある鉱石に会いたいと思った。

 あそこにいると不思議な心地よさがあるのだ。

 ぼんやりとそんな事を思い返していると、目の前の列がいつの間にかなくなっていた。時刻は2時をまわっていたからか、おなかが空いていた。しかしよくもまぁ、ラゼルはこんな空腹でも仕事ができるものだ。もしかしたら、頭が仕事ばかりで、空腹を感じないのかもしれない。

 

 そんなことを考えていると、不意に文部科学部の副部長が申し訳なさそうに扉から顔を出して「ルカ様、ラゼル様が呼んでおります」と言った。まだ文部科学部との仕事は続いているのに、どうしてだろうと思いつつ執務室へと入る。

 見慣れた黒衣に身を包んだラゼルは結印式とは違っていて、けれどやっぱり格好良かった。つい口元が緩みそうになるのを押さえて、ルカはラゼルへと問う。


「どうしたの?」

「お前に相談がある」

「相談」


 相談と言われても自分が役立ちそうなことはない。

 けれど文部科学部の副学長も困り顔で、ルカに縋り付くように言った。


「その……孤児の問題で……色々と殿下にご相談したところルカ様にもご相談しようということになりまして……」

「なるほど」


 先日の孤児の増加で一時的に輔助はできているものの、この輔助もいつまでできるか分からない、ということだった。

 ラゼルは厳しい表情で言う。


「他国への留学費用、編入費用、そして急増した孤児の分増えた院への輔助等……ルカが以前提案した、孤児の実地研修によって就職先が決まり、孤児院を卒院していく孤児もいるが……それも少しずつだ。寄付もあるが微々たるものだ。あとは爵位税から徴収するしかない。けれどそれを施行した場合、貴族の間で王室への不平不満が募るだろう。今は王室と良い関係を保っている貴族が牙を剥くかもしれないとなると……どう考えてもバランスが崩れるな」


 大きく溜息を吐き出すラゼルに、文部科学部の副部長もまた困り顔だ。

 ルカはうーんと顎に手をやった後、パッと閃いたことを口にする。


「お金を定期的に集めれば良いんだよね?」

「定期的に……? どうやってだ?」

「要は寄付金を引き上げれば良いって話でしょう? 寄付って侯爵以上ならぽんと出せるものかもしれないけど、それ以下の貴族は妙なプライドが邪魔したり、平民は他人事だと思って出しにくいんだよね。つまり、決して出せないものではないけれど、お金が出しにくい。その出しにくさを取っ払えば良いんだよ」


 そう言えばラゼルは頭痛をおさえるように、片肘をついた。


「簡単に言うが、寄付金を集める方法は?」

「ピアノリサイタル」

「…………?」


 不思議顔でいるラゼルと文部科学部の副部長にルカは笑顔で告げる。


「私がピアノリサイタルを開くの。平民も貴族も入れる『王太子妃様』のピアノリサイタル。入場料は自由で秘密。貴族はそれなりの額を入れるだろうし、平民だってそこそこ入れてくる。入場料が自由で秘密なら貴族たちも誰がいくら出したか分からない。月に一回。その全額を孤児院に寄付すれば良い話だし、演奏者も私だけで経費も少ない。精々、お金の管理、列整備、数名の警備。どう? 流石に調子のりすぎ?」


 ルカがそこまで言うと副部長はぽかんと口を開いていた。一方のラゼルは口元に手をやって思案に耽っているようだった。この反応を見るに、どうやら自分はお門違いなことを言ってしまったらしい。副部長が丁寧に言葉を探しながら言う。


「ルカ様、そのご提案は素晴らしいかと思うのですが……その、恐れ多いのですが、ルカ様はその」

「いや、いい」

「はい? 殿下、いい、というのは……?」


 赤い瞳が楽しげにルカを見る。


「お前は本当に、そこまで人の心を掴める演奏ができると思うのか?」

 

 なるほど、挑戦状を送られているようだ。ルカは笑顔で返す。


「私、ピアノに関してだけは天才ですから」


 これっぽっちも謙遜する気持ちにはならなかった。「小宮瑠華」がそうであったように「ルカ・フォン・ランケ」も同じく、稀代の天才ピアニストだ。何故か今は、百年ぶりの稀代の王太子妃などになっているが、これは尚更好都合だ。客寄せに丁度良い。


「あ、そうだ。心配なら副部長。宮廷音楽家の人たちと一緒に聞いてみます? 私の演奏」

「へ……? そ、そんな、王太子妃を試すような真似は……」


 ちらちらとラゼルに視線を送る副部長が憐れで笑いそうになっていると、ラゼルが微かに笑う。


「安心しろ。聴けば分かる。早速、宮廷音楽家を集め、ホールへと呼べ。ルカ、今すぐ弾けるか?」

「勿論。あ、ラゼル。これ食べておいてね」

「それなら後でお前と食べる」


 苦笑しつつ、ラゼルとルカは副部長を率いてホールへと向かう。途中、伝達装置で副部長が宮廷音楽家たちを招集していた所為か、慌てて宮廷音楽家たちはホールに各々の楽器を用意していた。それをラゼルが止める。


「用意はしなくていい。ただ王太子妃のピアノの演奏を聴いて判断して欲しい。厳しい目での評価を頼む」


 その発言に皆がざわつく。それはそうだろう。これまでルカは一度もピアノの演奏ができるなど言っていなかったのだから。状況が理解できないのだろう。宮廷ピアニストの青年が「お待ちください、殿下」と声を上げる。


「僭越ながら、王太子妃様は芸術学院をご卒業されておられないと聞いております。それが急にどうして」

「……そうだな。それでは試しに君に弾いてもらおう。王太子妃の知らぬ曲だと尚更良い」

「は、はい!」


 金髪の青年は意気込んで楽譜を持ってくると、ルカに見せた。パラパラと捲るとルカの知らない曲だった。世界の有名な曲は大体目を通してきたルカだが、この曲は始めてだ。素敵な曲だな、と頭の中で音が流れていく。


「どうでしょう? 僕が作曲したんです」

「とても良い曲ですね。森厳とした静寂を思わせながらも、途中は一転して強い風が吹き荒ぶような展開、それを表すには卓越した技術を要すると思いますが、素晴らしい一曲だと思います」


 そうルカが褒め称えれば、横に入るように宮廷楽長が青年を賛美する。


「そうでしょうそうでしょう! ここにいるメトルは僅か16歳で王室専属の天才ピアニストになったのです。学院も首席で卒業した素晴らしいピアニストなのです。是非、聴いてください!」

「はい、ありがとうございます。メトル……は今、何歳なのかな?」

「18です」

「そう、それなら同い年だね。同じ音楽を愛する人に出会えて嬉しい。よろしくね、メトル」


 手を差し出せばメトルは顔を真っ赤にして、手を握り返した。


「ルカ」


 どこか不満げな声がして、振り返るとラゼルが赤い瞳でこちらを見ていた。明らかにご機嫌斜めなようだ。メトルに別れを告げてホールの席に腰掛けると、ルカは楽しみだなぁ、と壇上に立ったメトルとグランドピアノを見た。


「……楽しそうだな」

「そうだね。だって久々に音楽に触れるんだもん。しかも他の人の音楽。楽しみでしかないよ」

「…………」


 何故か不機嫌そうなラゼルだが、メトルが壇上でお辞儀してグランドピアノの席についたので、無視することにした。どきどきと胸が高鳴る。メトルの指が鍵盤へと落ちると、全身が痺れた。

 メトルの演奏は、夜の、深い森の香りがした。ざわつく木々の音が、細やかに聞こえてくるようだった。満月がささやかに森を照らし出し、夜空には幾千もの星が流れていく。その流れは、まるで雨のよう。

 難解な3声部のシンフォニアも難なくこなし、アレグロの速さで奏でられる音は風が吹き荒ぶよう。細やかなトリル、木の葉が落ちていくようで、その流れるような夜の森の音楽は次第に穏やかに落ち着き、夜空に葉が舞い上がるように消えていった。

  

 メトルの演奏が終わり、ルカはすぐに拍手をした。隣にいるラゼルも渋々拍手をしているようだったが、さっきからどうしてこんなに不満げなのか。理由を聞こうとすると、すぐに宮廷楽長とメトルが来る。


「どうでしたか、王太子様、王太子妃様! このようにメトルは卓越した技術を持つピアニストなのです」


 その言葉に謙遜するようにメトルは「まだまだ未熟です」と言う。微笑ましいなと思っていると、ラゼルが本当に珍しく、挑発するように言った。


「……らしいが、ルカ。お前は負けるか?」


 その赤い瞳が物語っているものなど分かっている。ルカは笑顔を浮かべて言った。


「いいえ全く。さっきのメトルの曲、弾いてもいいかな?」

「「え?」」


 メトルと宮廷楽長が同時に声を上げる。ステップを踏んでルカは壇上へと上がると、慌てたようにメトルが来た。


「あの、王太子妃様。こちら楽譜を……」

「大丈夫。もう覚えた」

「え……」


 その発言に宮廷音楽家たちがざわめく。ルカは確かめるようにピアノをぽーんと、一音だけ鳴らす。ああ、このピアノはとても良い子だ。よく手入れされ、調律されているのだろう。すばらしい調律師を雇っている。喜びで思わず笑ってしまう。

 ルカは椅子の高さを合わせると、虚空を眺めた。

 それから目をつむり、演奏を始めた。


 さっきと、全く同じ演奏で。

 周囲が一斉にざわめく。


 けれどルカの瞳は閉じられたままだ。他の音は聞こえない。

 森。

 暗くて、木の葉のざわめきが聞こえる森。

 そこから落ちる満月はきっと眩くて、森に棲まう生き物たちはそんな月の下で生まれ育っている。伸びやかな演奏が進む。指は繊細に音の粒を叩き、3声のシンフォニアはより美しく紡ぐ。それこそ、銀色の流星雨のように。

 それから先程聴いたメトルの速さよりも、もっと早く、アレグロよりももっともっと速く。容赦なく風が森の中を通り抜けていく。フォルティシモで刻んでいた音を、メゾフォルテで落ち着かせていき、風が穏やかになっていく。微笑みが漏れる。

 ここからだ。

 ぞくぞくとした快楽が背筋を伝う。

 オクターブで打ち鳴らす音は小刻みに鍵盤を叩き、木の葉が夜風で舞い上がっていく。けれどそれは月光に照らされて、優しい音色が風のように吹き込んで、どこかへと葉を送り出していく。例えば、自由へと。

 流れていく音楽。森の匂いがする。

 ああ、惜しい。

 もう終わってしまうのか。

 その寂しさを感じながらもルカの手は鍵盤をそっと、離れた。


 ほう、と息をつきルカは目を開く。




 静けさが、訪れた。




 一拍遅れて、ホールに狂騒のような宮廷音楽家たちの声が響いた。「なんだあれは」「神の御業か?」「なぜ学院に入っていないんだ」「天才というレベルではない」「稀代の天才ピアニストだ」「歴史に残るぞ」──などという賛辞の声が飛び交っている。


 ルカは壇上から降りる。良い曲を弾けて良かった、と思うのに、周りはルカを賛美する声ばかりだ。王太子妃、というネームバリューがそうさせるのだろうか。と思っていると宮廷楽長とメトルがやってきた。宮廷楽長は興奮した様子で言う。


「なんて事でしょう……! 王太子妃様がこんなにも……っいや、最早言葉では表しきれませんな……! 素晴らしい、いや、天から贈られた素晴らしい才……! どうして芸術学院に来られなかったのですか!? 王太子妃様であったのなら、これまでの音楽の歴史を覆す存在になっていたでしょう! いや、既になっていると言っても可笑しくはありません……嗚呼、今日ここに存在できた事を、感謝します……」

「そ、そんな大袈裟な……でもありがとうございます」

 

 感涙し始めた宮廷楽長に苦笑してメトルを見れば、メトルは金髪の髪を掻いて苦笑していた。


「まさか王太子妃様が僕よりもずっと上にいる存在でしたとは……お恥ずかしいです。一度だけで覚えた上に、目を開かずに弾くなど……僕には到底できません」


 その言葉に、ふわりとルカは微笑む。


「あなたがこれほど素晴らしい作曲家だったからだよ。一度だけ聴いて覚えられるのも、目をつむっていても弾けたのも、簡単な曲なんじゃなくて、胸を打つほど感動できるもこだったから弾けたんだ。だから私はこれからもメトルの作った曲が弾きたいな。次回作、できたら私に一番に見せてね。すっごく楽しみにしてる!」


 笑顔で思ったままのことを言えば、メトルの顔から憂いが消えて、その代わりに赤みが差す。ルカは、それにしても、と思ってメトルの手を取る。いきなり手をとられたメトルは驚いて硬直していたが、ルカは「いいなぁ」と溜息をついて手を解放する。


「私もメトルくらい、すらりと長い指だったらオクターブ以上も楽なのに」

「ああ、確かに王太子妃様の手はピアニストを目指すには小さいですね。その手の小ささでよくあの演奏ができたものです」

「素早く動かすしかないよねー。オクターブ以上に見せかけるテクニック」

「そんなテクニックがあるなんて知りませんでした」

「私、小狡いからさ。誤魔化しの天才なの」


 するとメトルは笑った。純粋な子なのだと思う。まだまだ成長してくれて、その先が楽しみだ。

 


 ──なんて思っていると。



「……ルカ」


 鬼のような声が聞こえて、ルカとメトルはびくりと身体を震わせる。ラゼルのこんな声を聴いた事なんて殆どない。何かしただろうか。振り返るとラゼルにすぐ手を引かれた。メトルに「また今度話そう」と言って別れると、同席してルカの演奏を聴いていた文部科学部の副部長と、未だ感涙している宮廷楽長とにラゼルが問う。


「どうだ? この技術でもまだ、コンサートを開くには不足か?」


 ラゼルが問えば副部長も宮廷楽長も、ぶんぶんと横に首を振った。


「そんなまさか! 音楽に疎い私でも、これは貴族が聴く……いえ、侯爵家以上の方で漸く聴けるレベルのものだと分かります」


 副部長に続いて宮廷楽長も涙ながらに言う。


「全くその通りです……こんなにも素晴らしい演奏なら、国民は皆、必ず聴きに来るでしょう」


 その二人の言葉にルカとラゼルは顔を見合わせて笑う。

 小声で「やったね」と言えば、ラゼルが「流石ピアノの天才だな」と言ってくる。そうでしょ、と笑う。


「それでは具体的な日取りや護衛の数など、細かく文部科学部の方で考えてきます。その草案を殿下に後ほどご報告させて下さい。ルカ様の演奏項目は……」

「すみません。色々と考えたいことがあるので、決まったらすぐにお伝えします」

「ありがとうございます。それではこれから具体的な案を考えて参りますので、失礼致します」


 そう言うと副部長はホールを去って行った。

 ルカはメトルに手を振ってから、ラゼルと共にホールを出ると、やけに苛々した様なラゼルの横顔に気付く。普通の人が見たら仕事で殺気立っている時と同じなのだが、この苛々は違う苛々だ。拗ねるような。


「ラゼル?」

「…………」

「ラゼル? おーい?」

「……………………」

「どうしたの? 疲れちゃった?」

「……………………」

「……このまま口をきいてくれないなら、また午後はピアノ弾きに行くから離し」

「駄目だ」


 ようやく声を発したかと思えば、そんな言葉が返ってきた。

 ルカは眉根を寄せる。


「何でご機嫌斜めなの?」

「……お前が」

「私が?」

「あの……メトルとか言う奴に、やたら気軽に……」


 そこまで言うとラゼルはまた黙り込んでしまった。ああ、そういうことか、とそこでルカは気付く。気付いてから、つい口元が緩んで笑顔になってしまう。その表情の変化に気付いたららしいラゼルは、溜息を吐く。


「笑うな」

「本当に可愛いなぁ、私の王太子様」


 廊下を歩いていたルカはぎゅっと腕を組んで甘えるように繋いだ手の指を絡ませる。そうするとようやく、眉間の皺も消えていく。案外、単純なんだよなぁ、と言っていたグラムの言葉が頭によぎり心の中で苦笑した。

 ルカはラゼルを見上げて言う。


「大丈夫だよ、ラゼル。ただ単にメトルは音楽っていう好きなものを共有できる……知人? みたいなものだからさ。それとも私が信用ならない?」

「お前は信用できる。だが、あのメトルという奴がお前に何をするか分からない」

「ラゼル。私がドラッグ女とストーカー女にしたこと、見たでしょ?」


 鬼女のようなルカを思い出したのだろう。ラゼルは納得したように言った。


「確かにお前なら襲われても、その辺に落ちている棒で殴り殺しそうだな。正当防衛だとか何とか言って。そう言う意味ではグラムに感謝しないとな」

「そうだよ、護身術も習ったしね。グラムに感謝! 私の師匠は教えるの上手だなぁ」

「……剣なら、俺が教えても」

「ラゼルは無理だよ。教えるの下手そうだもん。天才が馬鹿に教えるのと同じ。馬鹿が理解できないことを、どうして理解できないのか天才は理解できないの。馬鹿が悩んでいるところをすっ飛ばして答えに辿り着くのが天才だから、ラゼルには無理」


 そう言うと明らかに落ち込むラゼルに、仕方ないなぁ、とルカは背伸びをしてラゼルの頬にキスをする。

 虚を突かれたのだろう。ぽかんとするラゼルに、ルカは微笑む。


「じゃあラゼルには、今よりもっと気持ちの良いキスを教えてもらおうかな?」


 少し恥ずかしくなって下を向けば、顎をそっと指で持ち上げられてキスをされる。

 熱い口内を舐められ、そして舌を絡ませ合う。全部、ラゼルが教えてくれたことだ。


「ん……っ、ふぁ、んん……」


 甘い痺れが走って、ルカはつい声を漏らしてしまう。

 ルカがここじゃ駄目という意思を込めて身体を押せば、意地悪そうに微かに笑むラゼルと目が合った。


「……教え甲斐がありそうだな」

「下手ですみませんね……」


 恥ずかしくて目を逸らせば、ご機嫌そうにラゼルはルカの耳に唇を寄せて、言った。


「……本当に可愛いな、俺の王太子妃は」


 これから楽しみだ、とラゼルは言う。ラゼルに愛されている喜びに、つい、ルカは笑ってしまった。





 私も愛してるよ、ラゼル。





ここまでお読み下さってありがとうございました。

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誤字脱字などありましたら、ご報告ください……!


Twitter→@matsuri_jiji


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