第六話 椎名美咲妃
「美咲妃? 今日は早く帰ってこれるでしょ?」
玄関にある、パパが趣味で飼い始めた熱帯魚の泳ぐ水槽。その中に餌をパラパラと入れながら、あたしは答える。
「なんで?」
「やあねぇ、この前言ったじゃない。今夜はパパが出張から帰ってくるから、三人で食事に行きましょうって」
「ああ、それ今日だっけ」
餌の入ったボトルの蓋をキュッと閉め、あたしは水槽の中をのぞく。色とりどりの魚たちが、ひらひらと水槽の中を泳ぎ回っている。
この魚たちは満足しているのだろうか。この狭い水槽の中を泳ぐだけで、満足しているのだろうか。
あたしは水槽の蓋をずらし、水の中に手を入れた。魚をすくうように持ち上げたら、一匹の熱帯魚がぴしゃんと跳ねて、あたしの指の間をすり抜けていった。
「お寿司食べに行きましょう。もう予約してあるの」
ママがキッチンから顔を出す。あたしは水槽から手を出し、何事もなかったかのように蓋を閉める。
「わかった」
「早く帰って来てね。パパも久しぶりに美咲妃に会えるの、楽しみにしてるんだから」
「うん。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
あたしに向かって、にこやかに手を振るママ。
ママもパパも知らない。この家を一歩出たあと、あたしがどんな最低な人間になるのかを。
閑静な住宅街に建つあたしの家。海外出張の多いパパと専業主婦のママと三人暮らし。
ひとりっ子のあたしにパパもママも甘くて、欲しいものはわりと簡単に手に入って、あたしは「我慢」というものを知らずに育ってきた。
小学校の高学年になると、周りの子から「かわいい」って言われ始めた。それが嬉しかったあたしは、おしゃれやダイエットを頑張って、中学生になる頃には何人かの男の子から告白された。
友達がいて彼氏もいる。親は優しい。欲しいものはなんでも持っている。あたしはとても満たされていた。
だけど満たされれば満たされるほど、あたしはもっと欲張りになってしまうのだ。
初めて自分から好きになった男の子に告白して、付き合ってもらえた。彼と初めてのキスをして、初めてのセックスをした。それだけであたしは幸せだったはずなのに。
もっとあたしのことを見て。もっとあたしを好きになって。どうしてあたしを見てくれないの? あたしのどこが不満なの? あたし以外の女の子なんて見ないで。
満たされているのに苦しくて、あたしはその中でいつも溺れそうになる。
今だって、そうだ。あたしは窒息寸前だ。
今日から新学期が始まるというのに、あたしは学校へは向かわず、高校とは反対方向にあるバッティングセンターに行った。制服のままバットを持って、短いスカートをひるがえし、向かってくる球を打つ。キンッと清々しい金属音が、胸に響く。
野球なんか興味なかったけど、男の子たちに誘われて何となく行ったバッティングセンターで、あたしはこの快感を知ってしまった。それからは時々学校をサボってここにくる。
無心でボールを打っていれば、不思議と嫌なことも忘れられるから。
キンッと隣の打席から音がした。ボールは高く上がり、ホームランの的の少し横のネットに当たって落ちる。ちらりと隣を見たら、この辺りでは野球が強くて有名な私立高校の制服を着た男の子が、真剣な顔つきでボールを打っていた。
最後のボールを打って打席から出ると、さっきの男の子がベンチに座ってスポーツドリンクを飲んでいた。
学校行かなくていいのかな。あたしと同じサボりかな。なんとなく同じ匂いを感じたあたしは、その子の隣に腰かけた。
「野球部なの?」
あたしが聞くと、その子は一瞬驚いたような顔をしてから答えた。
「違うけど」
いきなり話しかけられて、ビビってるみたいだ。確かにこんな時間、こんな所にひとりで来る女子高生なんて、不審に思われて当然だ。
あたしは髪を耳にかけながら、その男の子に言う。
「すごいね。もう少しでホームランだったじゃん」
その子は警戒するような目つきであたしを見て、それからぼそっとつぶやいた。
「そっちだってなかなかすごいよ。女の子であれだけ打てるなんて」
褒められた。なんか嬉しい。
「でしょう? 嫌なことがあるとよくここに来るんだ。思いっきりボールかっ飛ばしてると、すっきりするし」
「ああ、なんかわかる気がする」
男の子はあたしから目をそらし、ペットボトルのドリンクを飲む。伸びかけの坊主頭が、なんだかすごく中途半端だ。
「嫌なこと、あったの?」
男の子があたしを見て言った。あたしはちょっと戸惑う。
「なんか嫌なこと、あったの?」
あたしは一度うつむいて、少し息を吐いてから、顔を上げて答える。
「そ、そうなの。すごく嫌なことがあったの。好きな人に『最低』って言われたの。うちがその人のこと、すごく好きだって知ってるくせに。どうしてそんなふうに言えるのかな。うちが傷つくって思わないのかな。最低だよね。そんなこと言う男、最低だよね」
誰かが金属バットでボールを打つ。冷房の入った室内だというのに、じんわりと嫌な汗が体の中から滲み出てくる。
あたしは何を言っているんだろう。だけどあたしはきっと同意して欲しかったんだ。
そうだね、最低だね。かわいそうに。悪いのはその男のほう。きみは何も悪くないよって。
「なんだかよくわかんないけど……」
男の子が伸びかけの頭を、くしゃくしゃかき回しながらつぶやく。
「どうしようもなくむしゃくしゃする気持ちは……なんとなくわかる」
あたしは隣を見る。男の子はポケットの中から何かを出すと、あたしの手を無理やりひらいてそれを握らせた。
「もう一回打って来れば? 少しはすっきりするかもよ?」
握りしめた手をひろげる。そこにのっているのは二枚の百円玉。その途端、あたしの中に貯めこんでいたものが一気にあふれだした。
何も言わずに立ち上がり、打席に入った。百円玉を押し込んで、前をにらむ。マシンから飛び出して来たボールに向かって、バットを思い切り振る。キンッと音を立てて当たったボールは、空へ飛んで行くことなく、ネットに当たって落ちる。
違う。違う。違う。
飛んでくるボールを何度も打ち上げながらあたしは思う。
好きな人の気持ちが思い通りにならないからって、何も関係ない子に当たって。人としてやってはいけないことをあたしはやった。
最低なのは由良でも梨央でもない。このあたしだ。わがままで自分勝手で最低なあたしに、あたしはむしゃくしゃしてるんだ。
最後のボールが飛んできて、あたしのバットが空を切る。
『GAME OVER』
どこからかそんな声が聞こえた気がして、あたしはその場にうずくまる。
「うっ……うう……」
苦しくて苦しくて苦しくて……膝に顔を押し付けたまま、短い息を吐き続ける。
「大丈夫?」
男の子に声をかけられた。あたしは振り絞るように声を出す。
「……死にたい」
溺れて苦しむのはもう嫌だ。だったらいっそ、ここから飛び出して消えてしまいたい。
水槽を泳ぐ魚は、水槽の外では生きられない。手ですくわれた魚はぴしゃんと跳ね、床に落ちて死ぬだけだ。広い海を泳ぐことなんて、一生できない。
「なに言ってんだよ。男にフラれたくらいで」
男の子の声が聞こえて、あたしは思わず顔を上げる。
「フ……フラれたなんて、ひと言も言ってない」
「でもそうなんだろ」
あたしの前で男の子がふっと笑った。
「とにかくここを出よう。次の人に迷惑だ」
男の子があたしの手をつかんで立ち上がらせる。大きくてあったかい手。だけどあたしは思ってる。この手が彼の手だったらいいのにって思ってる。
中学校からの帰り道。由良と手をつないで歩いた。あたしの隣で由良はいつも笑ってて……。
幸せだった。幸せだったのに……どうしてあたしはその幸せを、もっと大事にしなかったんだろう。
男の子に手を引かれ、あたしたちはバッティングセンターを出た。
夏休みは終わったというのに、外は真夏の暑さだった。
あたしは手を引っ張られたまま、近くの公園に連れて行かれて、木陰のベンチに座らされた。
「ちょっと待ってて」
男の子はそう言うと、自動販売機まで走って行って、そこで何かを買ってきた。
「あんたの好きなもん、わかんないから。これでいい?」
あたしの前に差し出されたのは、キンキンに冷えたレモンスカッシュ。炭酸は正直苦手だったけど「ありがと」と言って、それを受け取る。
実はすごく喉が渇いていた。喉の奥がひりひりするくらい。プシュッと音を立てて蓋をあけ、あたしは一気にそれを飲む。
冷たくて、シュワシュワと痛いほどの炭酸が、喉元を通って胃の中へ流れ込む。
「ふわぁっ……」
思わず息をついたら、隣に座った男の子がおかしそうに言った。
「うまそうに飲むなぁ。とても『死にたい』って言ってた人とは思えない」
だって……だって美味しいんだもん。今まで飲んだ中で、たぶん一番美味しい炭酸ジュースだ。
「あのさ……」
あたしはそんな男の子に向かってつぶやく。
「なんでこんなに優しくしてくれるの?」
男の子はあたしに答える。
「暇だから」
「は?」
「俺さ、野球部辞めて、やることなくて。今まで野球しかやってこなかったからさ。で、学校もなんとなく行きたくなかったし、暇つぶしにバッティングセンター来たら、ヘンな女が話しかけてきて、『死にたい』とか言い出すし」
なんだか急に恥ずかしくなってきた。だからあたしはごまかすように、レモンスカッシュをごくごくと飲む。
「でも暇つぶしになってよかったよ。あのまま暇だったら、俺も『死にたい』なんて口走ったかもしれないから」
ペットボトルを口から離して、隣を見る。あたしのことを見ていた男の子が、そっと目をそらし空を仰ぐ。
蒸し暑い風が吹いていた。男の子の着ている白いワイシャツの袖と、あたしのくるくる巻いた長い髪がかすかに揺れる。
ふたり並んでベンチに座ったまま、あたしたちはしばらく黙り込んだ。
男の子が見上げた空を、あたしも見上げる。
晴れ渡った空は憎らしいほど青くて、雲はどこまでも真っ白で、あたしは涙が出そうになる。
ピロンと小さな電子音が聞こえて、男の子がポケットからスマホを取り出した。そしてそのメッセージを確認して、ほんの少し表情をゆるませる。
「しょうがないから、学校行くかぁ……」
スマホをズボンのポケットに入れた男の子が、そう言って立ち上がる。
「学校から呼び出しでもあった?」
あたしが聞くと、男の子は振り返って答えた。
「うるさい女がいるんだよ。サボってないでちゃんと学校来いって、いちいちラインしてくるような女がさぁ」
面倒くさそうに言ってるけれど、その顔はどこか嬉しそうだ。
彼女かな? それとも好きな子? どっちでもいいけど、そういう女の子がいるんじゃん。あたしは残りの甘くて酸っぱいレモンスカッシュを一気に飲んで、立ち上がった。
「いろいろありがと。元野球部くん」
名前も知らない男の子は、伸びかけの頭をくしゃくしゃしながらあたしを見ている。
「うちも学校行くよ」
「そっか」
「またいつか会うかもね」
「そうだな」
「その時は、うちが一回おごるから」
「覚えとくよ」
そう言ったあと、元野球部くんは付け加える。
「だからそれまで死ぬなよ?」
あたしはふふっと笑って答える。
「そっちもね」
お互い小さく手を振って、あたしたちは別々の方向へ歩き始めた。
重い足を動かし、肩に掛けたバッグをぎゅっと握りしめて。
今日梨央に会ったら。由良に会ったら。あたしはどんな顔をするんだろう。何を口にするんだろう。
最低なあたしは、たぶんまだ最低なままだ。意地を張って強がって、ここまで来ちゃったから、今さらみんなの前で梨央に謝るなんてできない。そしてそんなあたしを、由良が好きになるはずなんてない。
わかってるんだ。ほんとうはぜんぶ。わかってるんだ。
公園を出る所で、もう一度振り返る。さっきの男の子はもういない。あたしは前を向き、学校へ向かって歩き出す。
すれ違った小さな女の子が笑っていた。片手をパパと、片手をママとつないで、はしゃぎ声を上げて笑っていた。あたしはそんな女の子から、そっと目を背ける。
あたしは今日も泳ぐ。狭くて冷たい水槽の中で、溺れるようにして泳ぐ。
パパの育てている綺麗な熱帯魚にはなれないまま、あたしはこの水槽の中でもがき続ける。