第1話 学びて時に、空回る
このノートには、豊かな人生を送るために大切なことを書き留めていく。俺が生きてきて「これはよかった」と思えたことを、いつか生まれてくる子に伝えるためだ。そう決めて買った。
表紙は深い緑の革で、角が丸く、四千八百円した。文房具に四千八百円払ったのは生まれて初めてだ。自分への投資としては、悪くない額だと思う。一ページ目の一行目には、同じ日に買った万年筆で、こう書くつもりでいた。「いつかこれを読むお前へ。おじさんが見つけた、豊かに生きるために大切なことを書いておく」。
その一行は、まだ空いている。書くより先に、書き足したいことが次々に出てきたからだ。
四十二歳、独身、宮下浩一。IT企業で課長をしている。仕事はそれなりにできるし、部下にも恵まれている。休日はソファで漫画アプリの続きを読み、スマホゲームのログインボーナスを取り、気づけば日曜の夜になっている。不満はない。ただ、何かがひとつ足りない気はしている。それが何なのかは、四十二年生きてきて、まだ分からない。
*
妹の萌から「日曜、ちょっと話がある。亮介も一緒」とLINEが来たのは、木曜の夜だった。
話がある。妹からのこの五文字ほど、兄を不安にさせるものはない。金の相談か。亮介さんと何かあったのか。いや、亮介さんも一緒ということは、二人で何かを決めたということだ。家を買うから保証人に。転勤で遠くへ。まさか――。金曜の会議の間も、俺はその五文字のことばかり考えていた。
日曜の昼、駅前のチェーンのカフェで、萌と亮介さんは窓際の席に並んで座っていた。萌はいつもより少し顔色が白く、頼んでいたのはホットのルイボスティーだった。コーヒーしか飲まない妹が、ルイボスティー。俺はそこで気づくべきだったのだと思う。気づかなかった。
「で、話って」
萌は亮介さんと目を合わせてから、バッグから小さな白黒の紙を出し、テーブルの上をすべらせてきた。
ざらついた灰色の扇形の中に、豆粒のような影がひとつあった。
「九週目。先週、心臓が動いてるのが見えた」
萌はそう言って、少し照れたように笑った。
「兄ちゃん、おじさんになるよ」
俺はその紙を手に取った。思ったより薄くて、軽かった。軽いのに、指先がうまく動かなかった。豆粒は二センチくらいだと萌が言った。俺の親指の爪の幅もない。その中で、もう心臓が動いているらしい。
何か言わなければ、と思った。兄として、四十二歳の大人として、気の利いた一言を。探して、探して、ようやく口から出てきたのは、
「……おめでとう、ございます」
だった。
「なんで敬語」
萌が吹き出した。亮介さんも口元を押さえて、肩を揺らしていた。
「いや、なんか、改まるだろ。こういうのは」
「改まりすぎでしょ。取引先じゃないんだから」
安定期の前だから、まだ親と兄ちゃんにしか言っていない、と萌は言った。俺は三番目らしい。三番目、という数字を、俺はなぜか大事なもののように頭の中で繰り返した。
帰り際、店の前で、萌が少しだけ真面目な顔になった。
「あのさ。この子に、親以外にも話せる大人がいたらいいなって思ってるの。困ったときに、親には言えないことを言える人。兄ちゃん、そういうおじさんになってよ」
「任せろ」
萌は一瞬きょとんとして、それから「……ほんとかなあ」と笑った。亮介さんは何も言わず、軽く頭を下げた。
帰りの電車で、俺はずっと先のことを考えていた。三十年後、この子は三十歳になる。そのとき、「おじさんがおじさんでよかった」と言ってもらえたら。それ以上のことは、たぶん俺の人生にはない。本気で、そう思った。
そのために、まず俺がちゃんと生きる。話せる大人になるには、話せる中身がいる。
*
駅ビルの書店に寄ったのは、その中身を探すためだった。
ビジネス書の棚には『一流の上司が部下にかける言葉』『読むだけで人生が変わる50の習慣』が並んでいた。一冊に指をかけて、やめた。今年売れている本の言葉は、この子が大人になる頃には、たぶん古びている。
隣の古典の棚に、薄い文庫があった。『論語』。
二千五百年読まれてきた言葉なら、三十年くらいでは古びないだろう。
俺はその文庫を手に取り、文具売り場で緑の革のノートと万年筆も買った。四十二年生きてきて、よかったと思えたこと。豊かに生きるために大切だと思うこと。それを書き留めて、生まれてくる子が大きくなったら渡す。おじさんの生き方ノート。我ながら悪くない思いつきだった。レジで合計金額を見て一瞬ひるんだが、三十年使うノートだと思えば高くはない。
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その夜、俺は机に向かい、文庫の最初の章を開いた。
子曰く、学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋有り、遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや。
一度目は、さらりと読めた。二度目で「習」の字に引っかかり、三度目で注を読んだ。「習」は、ひな鳥が何度も羽ばたいて、飛ぶ練習をする姿を表す字だという。
なるほど、と思った。学ぶとは、知ること。習うとは、知ったことを実際にやって、自分の身につけること。読んで分かった気になるな、ということだ。
真ん中の「朋有り」は、志を同じくする仲間が遠くから訪ねてくる楽しさ。最後の「人知らずして慍みず」は、人に分かってもらえなくても、心を波立たせないこと。学ぶこと自体が嬉しいのだから、人の評価は二の次でいい。三つの文は、たぶん一本の道でつながっている。
俺は一ページ目の一行目を献辞のために空けたまま、二行目から慣れない万年筆でこの一文を書き写した。インクが滲んで「説」の字がつぶれたが、味だと思うことにした。その下に、こう書いた。
――学んだことは、やってみて身につける。それが学ぶ喜び。
――人に分かってもらえなくても、心を波立たせない。
我ながら、いい読みだと思った。あとは、やってみるだけだ。その夜はよく眠れた。
*
月曜の午後、部長も同席する部門会議があった。
議題のひとつに、来期の予算配分の資料があった。各課のデータを集め、グラフにまとめたのは若槇だ。入社三年目、礼儀正しいが口数の少ない部下で、この資料のために先週は二日続けて終電近くまで残っていた。俺はそれを知っている。
資料を説明したのは、隣の課の課長だった。俺と同期入社の男で、資料のとりまとめ役を引き受けていた。説明は堂々としていて、部長は何度か頷き、最後に「よくまとまってる。さすがだな」と彼に言った。
彼は「ありがとうございます」と答えた。若槇の名前は出なかった。たぶん悪気はない。とりまとめ役は彼なのだ。
部長が来期で異動するらしく、後任の話が社内でちらほら出始めている。同期と俺の名前が挙がっている、とも聞く。だからといって、言うべき一言を飲み込む理由にはならない。
俺は軽く手を挙げた。
「取りまとめ、ありがとうございました。補足しますと、各課データの集計とグラフは、うちの若槇が担当してくれました。おかげで、課ごとの比較がとてもしやすかったです」
同期が「ああ、そうなんです。若槇くん、助かったよ」と頷き、部長も「そうか。若槇、ありがとう」と言った。会議は和やかに次の議題へ移った。
これでいい。
……はずなのだが、俺はまだ少し心配していた。終電二日分の仕事が、補足の一行で済まされた。入社三年目には、こたえるのではないか。人知らずして慍みず、と昨夜書いたばかりだが、それを二十五歳に求めるのは酷というものだ。ここは上司の出番だろう。
会議のあと、休憩室の自販機の前に若槇がいた。俺は先回りして、百円玉を二枚入れた。
「好きなの押せ。今日のは、いい仕事だった」
若槇は少し驚いた顔をして、いつもの甘いカフェオレのボタンを押した。
「……なるほどです。ありがとうございます」
「名前、最初から出ればよかったんだけどな。部長には、あとで俺からもう一回ちゃんと――」
「あ、いえ」
若槇は缶を両手で持ったまま、首を振った。
「そこは、ほんとに大丈夫です。集計、けっこう楽しかったんで。各課の数字って、並べると癖が見えるんですよ。それが面白くて」
それから、少しだけ照れたように付け足した。
「僕、こういうの、顔に出ないんで。すみません」
若槇は会釈して、席に戻っていった。
俺は自販機の前に一人残り、自分の分を買い忘れていたことに気づいた。
人知らずして慍みず。昨夜、俺がノートに書いた言葉だ。二十五歳には酷だと俺が心配していた場所に、当の二十五歳は、缶コーヒー一本ぶんの身軽さで立っていた。
*
その夜、萌からLINEが来た。
「つわり、ひどくなってきた。何も食べられない。においが全部だめ」
学んだら、やってみる。昨夜書いたばかりだ。それに、調べてまとめるのは得意だ。俺は二十分かけて、つわりの原因、ピークの時期、食べやすいものの一覧、受診の目安を調べ、見出しをつけて一通にまとめた。最後に、参考にしたサイトのリンクを五つ並べた。会議資料なら、部長に褒められる出来だ。送信して、満足した。
返事は一分で来た。
「兄ちゃん、それ本気で言ってる?」
続けてもう一通。
「今それ読めない。ゼリー。冷たいやつ」
そりゃそうだ。吐き気と戦っている最中に、見出しつきの資料を読む妊婦はいない。俺は自分に苦笑いして、財布をつかんで部屋を出た。
夜十時のコンビニで、俺はゼリーの棚の前に立ち尽くした。どれなら食べられるのか分からない。分からないので、全部買った。みかん、ぶどう、桃、グレープフルーツ、ナタデココ入り、こんにゃくゼリー、それに飲むゼリーを二種類。選択肢は多い方がいい。レジ袋は二つになった。
萌のマンションのインターホンを押すと、出てきたのは亮介さんだった。部屋着にカーディガンを羽織り、目の下にうっすらクマがある。俺の両手のレジ袋を見て、亮介さんは一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。
「……ありがとうございます。萌、たぶん一個しか食べられないと思いますけど」
「いいんです。残りは亮介さんが」
「僕、ゼリーはあんまり……」
奥から萌の声がした。
「グレープフルーツのだけちょうだい。あとは兄ちゃん持って帰って」
俺は七つのゼリーを提げて帰った。
帰り道、レジ袋の取っ手が指に食い込んだ。萌は大変なんだな、と思った。においが全部だめというのは、たぶん俺が想像しているよりずっとつらい。亮介さんも大変だ。あのクマは、一晩や二晩のものではない。
それにしても、ゼリーが重い。
*
部屋に戻り、冷蔵庫にゼリーを七つ並べた。冷蔵庫が、急ににぎやかになった。
それからノートを開いた。
今日、俺は二回、先回りした。若槇はがっかりしているだろうと先回りして、缶コーヒーを買った。萌に必要なのは情報だろうと先回りして資料を作り、そのあとゼリーを八つ買った。どちらも善意だった。そして、どちらも、相手が本当に求めていたものとは少しずれていた。
ひな鳥の羽ばたきを思い出した。ひな鳥は、飛び方の本を読んでから飛ぶわけではない。羽ばたいて、少し落ちて、風を感じて、また羽ばたく。空の中で、少しずつ直していく。
俺の「習」は、自分の部屋の中で羽ばたいていた。調べた知識を、相手に確かめないまま、まとめて届けていた。羽ばたきの練習は、空に出なければ練習にならない。空というのは、たぶん、目の前の相手のことだ。
若槇のことも考えた。集計が楽しかった、と若槇は言った。やってみること自体が嬉しい人は、人に分かってもらえるかどうかで心が揺れない。一行目の「説ばし」と三行目の「慍みず」は、やっぱり一本の道でつながっていた。俺はそれを、昨夜は頭で分かり、今日は二十五歳の部下に見せてもらった。
昨夜の解説の下に、一行書き足した。
――やってみるときは、相手を見ながら。
*
火曜の朝、萌にLINEを送った。
「今日は、何なら食べられそう?」
返事は少しして来た。
「梅干しのおにぎり。小さいの」
昼休み、コンビニで一番小さい梅干しのおにぎりを一つ買い、仕事帰りに届けた。今度は一つだけだ。玄関で受け取った萌は、袋の中をのぞいて言った。
「……ちょうどいい」
ちょうどいい。四十二年生きてきて、こんなに嬉しい「ちょうどいい」は初めてだった。
ついでに会社でも、ひとつ試した。若槇の席に寄って、聞いてみたのだ。
「昨日言ってた、各課の数字の癖って、たとえばどんなのだ」
若槇は一瞬きょとんとして、それから画面にグラフを出した。ある課は毎年三月だけ数字が跳ねること。ある課は端数を必ず切り上げてくること。十分ほど、若槇はいつもよりずっと早口で話した。俺が知らない若槇だった。
部下の話をこんなにじっくり聞いたのは、ずいぶん久しぶりだった。
*
今、このノートを書いている。空いたままの一行目と、写した一節と、その下に書き足し続けている、やってみて分かったこと。大切なことは、きれいに書き写すより、やってみて書き足した方が、ずっとよく残るらしい。
まだ名前のないお前へ。一行目に何を書くかは、もう少し飛べるようになってから決める。ただ、冷蔵庫にはゼリーが七つある。お前が生まれる前に、たぶん俺が全部食べる。
【おじさんのノート】
■ 書き下し
子曰く、学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋有り、遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや。
■ 最初に分かったこと
学んだことは、実際にやってみて身につける。それが学ぶ喜び。人に分かってもらえなくても、心を波立たせない。
(「朋有り」の一文は、まだ実感がないので保留)
■ やってみて腹に落ちたこと
ひな鳥の羽ばたきは、空の中でしか練習にならない。「習う」とは、知ったことを目の前の相手や現場で試し、その反応を見て直していくことだ。自分の頭の中だけで完璧に準備した善意は、相手に届く前に空回りしやすい。
そして、やってみること自体を喜べる人は、人に分かってもらえるかどうかで心が揺れない。一文目の「説ばし」と三文目の「慍みず」は、一本の道でつながっている。
■ まだ名前のないお前へ
誰かのために何かをする前に、一度だけ「何がいい?」と聞いてみること。
出典:『論語』学而篇第1章。「朋有り、遠方より来る」は「朋遠方より来る有り」、「慍みず」は「いきどおらず」と訓む書き下しもある。「習」をひな鳥の羽ばたきとする説明は『説文解字』以来の古い説で、異説もある。言い換えは本作独自のもの。




