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怪異?っぽい?――気づいた時には遅いもの

隣の奥さんが通報する理由

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/22

 最初に警察が来たのは、引っ越して三週間くらい経った日の夜だった。


 インターホンが鳴ったのは十時を少し回った頃で、私はちょうど風呂上がりに髪を乾かしていた。ドライヤーを止めても、最初はそれがインターホンだと分からなかった。古い家は音が散る。廊下の軋みも、外の車も、二軒隣のテレビも、壁と柱のどこかで一度くぐもってから耳に届く。


 もう一度、ぴんぽん、と鳴った。


 こんな時間に誰だろうと思って、タオルを肩にかけたまま玄関へ向かった。モニターには制服姿の男が二人映っていた。画面の端にもう一人の肩も見える。宅配ではない。セールスでもない。私はチェーンをかけたまま、扉を少しだけ開けた。


「はい」


 言った瞬間、外にいる警察官の後ろに、さらに二人いるのが見えた。門の横にも一人、道路に停めたパトカーのそばにも一人。思ったより多い。


「夜分にすみません。こちらにお一人でお住まいですか」


 若い警察官が柔らかい声で言った。柔らかいのに、視線だけが玄関の隙間から家の中へ滑り込んでくる。


「そうですけど」


「何か変わったことはありませんか。物音がするとか、人の出入りが多いとか」


「いえ、特に」


「最近、困っていることは」


「ないです」


 私はそこでようやく、相手が妙なことを言っているのだと気づいた。何か事件があって確認に来たなら分かる。けれど彼らは、何かを説明する前にこちらの暮らしの輪郭を確かめようとしていた。


「どうかしたんですか」


 そう聞くと、年配の警察官が一歩だけ前に出た。


「通報がありましてね」


「通報」


「若い方が一人でこの家に住んでいるのは不自然だと」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「……は?」


 聞き返した声が、思っていたより乾いていた。笑ってしまえばよかったのに、笑えなかった。


 年配の警察官は気まずそうな顔もしなかった。ただ職務上の説明をしているだけ、という顔だった。


「ご事情はいろいろありますからね。念のための確認です」


「若い人が一人で住んでたら、確認に来るんですか」


「内容だけで来たわけではありません。まあ、念のためです」


 その“まあ”のあいまいさが嫌だった。私は扉をもう少し開けて、門の方にいる警察官まで見た。六人。どう考えても、若い住人の単身生活を確認する人数じゃない。


「私、何か疑われてますか」


「いえ。そういうことではありません」


「じゃあ何ですか」


 若い警察官が困ったように笑った。


「最近このあたり、近隣トラブルの通報も多いものですから」


 答えになっていない。けれどその場で押し問答をしても仕方がないことくらいは分かった。私は名前を確認され、勤務先を聞かれ、緊急連絡先の有無まで聞かれた。全部答えたあとでようやく、彼らは「何かあればまた」と言って帰っていった。


 また。


 その言葉だけが、しばらく玄関に残った。


 翌朝、出勤のために門を開けると、隣の家の掃き出し窓から誰かがこちらを見ていた。白っぽいレースカーテンが少しだけ浮いて、その向こうに人影がある。私が顔を向けると、影はすっと下がった。


 古い住宅街だった。


 駅から歩いて十八分。都内にしては道が広く、家と家の間に妙な余白がある。どの家も新しくはなく、庭木だけが元気だった。大家に案内されたときは、静かでいい場所だと思った。築四十年を超えた一戸建てで、家賃は相場よりずっと安い。駅から遠いことと、設備が古いこと、それから貸主が早く埋めたい事情があったらしい。


「若い人には逆に合うかもしれませんよ」


 内見のとき、不動産屋はそう言った。


「上下左右の生活音、アパートより気にしなくていいですし」


 実際、その通りだった。隣室の足音も、上階の洗濯機も、夜中のテレビもない。天井は高く、窓は大きい。古い木の匂いはしたが、住めないほどではない。私は会社までの距離と家賃と、少しだけ贅沢なひとり暮らしの響きに負けて、その日のうちに契約した。


 最初の一週間は楽しかった。誰にも気兼ねせず、好きな時間に料理をして、深夜まで映画を流して、休日には昼過ぎまで寝た。ようやく働いて払える家賃で、ようやく手に入れた一人の空間だった。


 違和感を覚えたのは、町内会の案内を持ってきた隣の奥さんと話した日からだ。


 五十代の半ばくらい。痩せてはいないが太ってもいない。髪は肩の少し上で切りそろえられていて、口紅だけがきちんとしていた。笑うと目尻に細かい皺が寄る。いかにも感じのいい、よくいる近所の人だった。


「お若いのに、一人で戸建てなんてすごいわね」


 最初の一言がそれだった。


「いえ、古いですし、たまたま安くて」


「それでも。最近はみんなマンションでしょう。勤務先はこのあたり?」


「電車で二十分くらいです」


「ご実家は」


「県外です」


 私はそのとき、ただの世間話だと思った。近所に住む人間が、越してきた若者に向ける普通の興味だと。


 奥さんは門の内側をちらりと見て、にこやかに言った。


「女の子一人だと心配よねえ。何かあったら言ってね」


 私は曖昧に笑って礼を言った。あとから思えば、その時点で少し踏み込みすぎていたのかもしれない。けれどあの口調で言われると、不快だとまでは思えなかった。ただ、距離が近い人だな、と思っただけだ。


 最初の通報のあと、不動産屋に電話をした。


「そういうこと、前にもありました?」


 担当は一拍だけ黙ってから、「聞いたことはないですね」と答えた。


「何か近所で問題のある方とか」


「特には。ただ、昔からお住まいの方が多い地域なので、新しい人に敏感な部分はあるかもしれません」


 言い方がうまい。問題がないとも言わないし、あるとも言わない。


「若いからって通報されるの、普通ですか」


「普通ではないです」


 そこははっきり言った。


「ただ、あまり続くようならご相談ください」


 私は電話を切ったあと、妙に腹が立って、Xに短く書いた。東京で若いのに一軒家に一人で住んでいるのはおかしいという理由で近隣住民に通報された、意味が分からない、と。愚痴のつもりだった。数人の友人が笑いながら反応してくれれば十分だった。


 けれど思ったより反応がついた。


 ひどいね、という共感もあった。怖い、という反応も多かった。中には、「それ、本当にその理由だけ?」「何か別のこと疑われてない?」という返信もあった。


 警察が六人来るのは変だ、と書いている人もいた。


 私はスマホを見ながら、胸の奥が少しだけ冷えていくのを感じていた。自分では笑い話にしたつもりだったのに、他人に言われると急に現実味を持つ。


 次に警察が来たのは、その四日後だった。


 今度は夕方の七時前。まだ外が薄く明るい時間だった。


「夜中に物音がするという通報がありまして」


 私は思わず笑ってしまった。


「夜中に?」


「二時頃、何かを引きずるような音がしたと」


「その時間、私寝てましたけど」


「念のためです」


 また念のためだ。


「録音でもしておけばよかったですね」


 少しきつく言うと、若い警察官が申し訳なさそうにした。けれど帰らない。門の前に立ったまま、裏口はあるか、誰か訪ねてくることはあるか、勤務時間は何時から何時かと聞かれる。


 私は答えながら、視界の端で隣家の二階窓のカーテンが揺れるのを見た。


 その夜から、私は家の中の音が気になり始めた。階段を上がる足音。椅子を引く音。冷蔵庫の扉を閉める音。風呂の蓋を置く音。こんなもの、今までどこに住んでも出ていたはずだ。アパートならもっと響いていた。なのに、一戸建てでそれが通報される。


 ある日帰宅すると、門扉の前に小さなビニールの切れ端が落ちていた。宅配の袋かなと思って拾いかけ、やめた。折り畳まれたレシートだった。わざわざ私の名前が見えるように表を上にして置かれている。コンビニのものではない。近くのスーパーのレシートで、時間はその日の昼。私が仕事に行っている間だ。


 誰かが門の中に入ったのか。


 そう思った瞬間、背中がざわついた。


 私はすぐに防犯カメラを買った。玄関前と裏口側に一台ずつ。大げさだと思ったが、こういうのは嫌だと思った時点でつけるしかない。設置に来た業者の男性が、古い家ですねえ、と言いながら脚立を立てている間も、隣の家の雨戸の隙間が少しだけ開いていた。


 その晩、奥さんがインターホンを鳴らした。


「ごめんなさいねえ、びっくりしちゃって」


 モニター越しに見た顔は、相変わらず穏やかだった。


「何がですか」


「カメラ。最近物騒なのかしらと思って」


 私は玄関を開けずに答えた。


「そうですね。よく警察が来るので」


 一瞬だけ、奥さんの笑みが薄くなった。


「そう。若い女の子一人だと心配だものね」


「夜中に物音がするって通報、ありましたよね」


「まあ、そうなの?」


「隣なら何か聞こえませんでしたか」


 モニターの中で、奥さんは小首をかしげた。


「さあ。うちは早く寝るから」


 それだけ言って、じゃあ失礼ね、と帰っていった。


 数分後、私はカメラのアプリを開き、録画映像を初めてまともに確認した。設置した日の午後三時過ぎ。隣の奥さんが、こちらの門の前で立ち止まっている。インターホンを押すでもなく、ポストを覗くでもなく、ただ立っている。三十秒ほどそうしてから、門柱に顔を寄せ、玄関までの角度を見上げるようにして、帰っていった。


 私は何度も巻き戻して見た。


 その姿は不法侵入ではない。門を開けてもいないし、敷地に入ってもいない。ただ、他人の家を観察しているだけだ。証拠と呼ぶには弱すぎる。けれど、あの時間の長さは普通ではなかった。


 三度目の通報は、二週間後だった。


「最近、若い男性の出入りがあると」


 私はドアを開けたまま、しばらく黙った。


「ないです」


「本当にありませんか」


「ないです。友達も呼んでません」


「お仕事関係の方は」


「来ません」


「宅配などは」


「来ますけど、それは配達ですよね」


 年配の警察官が手帳を閉じた。


「ご協力ありがとうございます」


「待ってください」


 私は初めて、相手を引き止めた。


「通報してる人、同じですよね」


「申し上げられません」


「内容が矛盾してます。ひとりで住んでるのが不自然って言われたと思ったら、今度は男の出入りがある。どっちなんですか」


 警察官は少しだけ視線を逸らした。


「近隣の方が不安に思われたことを確認しているだけです」


「じゃあ私はずっと、誰かの不安のたびに家を開けなきゃいけないんですか」


 答えは返ってこなかった。


 彼らが帰ったあと、私は駅前のカフェに逃げた。家にいたくなかった。誰かに見られている気がして、カーテンを閉めることも、風呂に入ることも、電気を消すことも、全部相手に報告する行為みたいに思えてくる。


 そこで、同僚の真理子に電話をした。


「もう引っ越しなよ」


 事情を聞いた真理子は、五秒でそう言った。


「そこ、安いんでしょ。理由あるじゃん」


「そういう事故物件系じゃないと思う」


「事故物件のほうがまだ分かりやすいよ。人間のほうがだるい」


 真理子はいつもの調子で言い切った。


「警察、何て?」


「実害が薄いから何ともって感じ。カメラはつけた」


「映ってた?」


「隣の奥さんがうろうろしてる」


「それ本人でしょ」


「断定はできないけど」


「いや、断定していいって話じゃなくて、そういう人がいる場所に住み続ける意味なくない?」


 正しい。正しいのに、私は頷けなかった。家賃も初期費用も頭に浮かぶ。ようやく整えた生活も。何より、私が逃げるみたいで嫌だった。


「でも、私が悪いことしたわけじゃないし」


 そう言うと、真理子は少しだけ黙った。


「それが通じる相手なら、もうとっくに終わってるんじゃない」


 私はその言葉を、帰りの電車でも、駅から家までの暗い道でも、ずっと反芻していた。


 十月に入ると、近所の空気まで変わった気がした。会釈を返してくれない人が増えた。ゴミを出しに行くと、向こうの集積所で話していた年配の女性たちが、一瞬だけ黙る。私が通り過ぎると、また小さな声で何か言い始める。


 被害妄想かもしれないと思った。けれど一度そう感じてしまうと、何を見てもそちらへ寄る。


 夜、リビングの明かりだけつけて本を読んでいたとき、窓ガラスにふっと人影が映った。反射ではない。外を誰かが通ったのだ。私は息を止めてカーテンの隙間から庭を見た。誰もいない。けれど翌朝、裏口側のカメラには、夜十時四十二分、隣の奥さんが裏の細い通路を歩いていく姿が映っていた。


 手に懐中電灯も持たず、ただ通るだけにしては遅い時間だった。


 私は映像を保存して、最寄りの交番ではなく警察署へ持っていった。対応したのは三十代くらいの女性警察官だった。彼女は映像を二回見てから、静かに言った。


「この通路、私道ですか」


「大家さんの敷地だと思います。境界は確認してないですけど」


「敷地侵入の証拠としては弱いですね」


「何なら強いんですか」


 思わず口調が尖った。女性警察官は責めるでもなく、淡々と答えた。


「門を開ける、物を置く、覗き込む、そういった明確な行為です」


「見張られてるのは分かるのに」


「お気持ちは分かります」


 分かる、という言葉ほど当てにならないものはない。私はそう思いながら椅子に座っていた。


「ただ、通報が継続している件については、こちらからも注意喚起は可能です」


「誰にですか」


「地域全体に向けて、です。個別の相手には」


 できません、と彼女は言わなかった。言わないだけで、できないのだと分かった。


 結局、その翌週に四度目の通報があった。


 今度は「昼間なのにずっとカーテンを閉めていて不自然」。


 私はそのとき在宅勤務だった。インターホンの音に胃が縮むのを感じながら、玄関を開けた。制服の顔ぶれは前回と違う。けれど、言うことは同じだった。


「念のため、確認を」


 私は、ああもうだめだ、と思った。


 確認されているのは私ではない。この家でどう暮らしているか、その細部が、誰かの手元のメモみたいに蓄積されている。カーテンを閉めた時間。開けた時間。帰宅した時間。風呂に入った時間。来客の有無。笑い声の有無。生活音の大小。洗濯物の量。


 誰かが、私の生活を“観察する対象”にしている。


 その夜、私は初めて隣の奥さんの家を訪ねた。


 インターホンを押すと、少し間があってから返事があった。玄関を開けた奥さんは、私を見るなり驚いた顔をした。けれど本当に驚いている人の顔ではなかった。来ると思っていた人の演技に近かった。


「あら、どうしたの」


「少しお話いいですか」


「今?」


「今です」


 奥さんは一瞬迷ったあと、門の外に出てきた。玄関灯がつき、顔の皺が昼より深く見えた。


「何かあった?」


「警察、また来ました」


「そうなの」


「通報してますよね」


 奥さんは、そこで初めて目を瞬かせた。


「私が?」


「夜中に物音がするとか、男の出入りがあるとか、カーテンが閉まってるとか」


「そんなこと、私が知るわけないじゃない」


「知ってますよね。見てるから」


 私がそう言うと、奥さんの口元から笑みが消えた。怒ったわけではない。むしろ、面倒なことを言われたときの疲れた顔に近かった。


「あなた、少し神経質なんじゃない」


「神経質になったのは、警察が何度も来るからです」


「それは気の毒だけど、私は知らないわ」


「カメラに映ってます」


「カメラ?」


「うちの前を見てましたよね」


 奥さんはそこでふっと息をつき、本当に困ったような声で言った。


「だって、心配だったのよ」


 否定のあとにそれが来るとは思わなかった。私は言葉を失った。


「若い女の子が、あんな古い家に一人で住んでて、近所づきあいもしないで、昼も夜も生活が見えなくて。心配するでしょう、普通」


「だから通報するんですか」


「何かあってからじゃ遅いじゃない」


「何もないって何度も言ってます」


「何もない人は、そんなふうに閉じこもらないわ」


 その瞬間、私は理解した。


 この人にとって、通報は攻撃ではない。確かめるための手段だ。警察が来れば、相手は扉を開ける。名前を言う。勤務先を言う。ひとりで住んでいることを証明する。生活の正体を説明させられる。そのたびに、この人は安心する。自分が地域を守っている、見守っている、正しいことをしていると確認できる。


「私、閉じこもってません」


「じゃあ、どうして人を呼ばないの」


「一人で住んでるからです」


「若いのに?」


 その一言が、胸に釘みたいに入った。


 若いのに。


 それだけで、説明を要求される。


「普通でしょう」


 私が言うと、奥さんは首を横に振った。


「普通じゃないわよ。今どき、女の子が一人で戸建てに住むなんて。マンションならまだしも。ご実家も遠いんでしょう? だったらなおさらよ。ちゃんと見てくれる人がいないと」


「見てくれなんて頼んでません」


「そういうところが危なっかしいのよ」


 私はもう何も言えなかった。相手は責めていない。脅していない。軽蔑すらしていない。ただ本気で、自分が面倒を見てやっているつもりなのだ。


 奥さんは最後に、少し声を柔らかくした。


「そんな顔しないで。悪いようには思ってないのよ。もし本当に何かあったら、すぐ動けるようにしてるだけ」


 ぞっとした。


 何かあったら。何かがなくても、あなたは動いているのに。


 私は無言で踵を返した。背中に「若い人はすぐ怒るから」という小さな独り言が刺さった気がした。


 その月の終わりに、私は不動産屋へ退去の連絡を入れた。


 担当は事情を聞き、今度ははっきり謝った。次の部屋探しも手伝うと言われたが、もうその人を責める気力もなかった。荷造りを始めると、家の中が急に仮の場所みたいに見えた。気に入って買ったカップも、窓辺の椅子も、台所の小さな観葉植物も、ここに置かれている意味を失っていく。


 それでも、最後まで通報は止まなかった。


 退去の三日前、五度目の警察が来た。


「ここ数日、大きな荷物の出入りがあると」


 私は玄関口で笑った。笑うしかなかった。


「引っ越すからです」


 若い警察官は、あからさまに気まずそうな顔をした。


「そうでしたか」


「もう安心ですね」


 言うと、その人は何も返せなかった。


 引っ越し当日、トラックが来て、作業員が段ボールを運び出していく間、私は門の横に立っていた。秋晴れで、空だけが妙に高かった。隣の家のカーテンは閉まっていた。けれど二階の窓の端だけ、ほんの少しだけ黒く隙間が空いている。


 最後の荷物が積み込まれたあと、私は家の鍵を封筒に入れた。門を出る前に一度だけ振り返る。短い間だったが、ここで暮らした日々は本物だった。朝の光の入り方も、雨の日の木の匂いも、夜中にお湯を沸かす音も、私はたしかに好きだった。


「お引っ越し?」


 声がして、振り向くと、隣の奥さんが門の前に立っていた。


 今日も穏やかな顔だった。買い物帰りらしく、エコバッグを提げている。


「そうです」


「そう。急だったわねえ」


「はい」


「今度のところでは、ちゃんと馴染めるといいわね」


 私はその言葉の意味を、しばらく理解できなかった。


 馴染める。


 つまり、この町で馴染めなかったのは私のほうだと、この人は本気で思っているのだ。


「ご心配なく」


 それだけ言って、私はトラックの助手席に乗った。ドアが閉まり、窓越しに外を見る。奥さんはその場で小さく会釈をした。見送る人の顔だった。自分が一人の生活を追い出したという意識すら、たぶんない。


 車が角を曲がる直前、私は何気なくスマホを開き、防犯カメラのアプリを見た。もう外したはずのカメラの、最後に残った静止画が表示されていた。私の家の門の前に立つ奥さん。その視線の先は玄関ではなく、窓でもなく、こちらの表札だった。


 消し忘れた通知が一件、画面の上に残っていた。


 新しいフォロワーが一人増えました。


 知らない鍵アカウントだった。アイコンは灰色の初期画像で、名前は数字だけ。プロフィールは空欄。けれど固定ポストが一つだけあった。


 暮らしは、見ていればだいたい分かる。


 私は反射的に閉じた。胸の奥で、嫌な音がした。


 理由なんて、最後まで分からなかった。


 若いのに一人だから。

 戸建てに住むから。

 生活が見えないから。

 見えたから。

 静かだから。

 静かじゃないかもしれないから。

 普通じゃないから。

 普通にしないから。


 どれも理由になっていなくて、それでも人は他人の暮らしを壊せるのだと、私はあの家で知った。


 新しい部屋は駅に近い、小さなマンションだった。オートロックつきで、浴室乾燥機もついている。隣の生活音は少し聞こえるが、その音に私はむしろほっとした。誰かがいることが、見えないということが、こんなに安心に変わるとは思わなかった。


 引っ越して二週間後、仕事から帰ってポストを開けると、チラシに紛れて一枚のメモが入っていた。白い紙に、黒いボールペンで丸い字が書いてある。


 ゴミは朝八時までですよ。


 管理会社の印刷ではなかった。部屋番号も名前もない。ただ、注意だけが書いてある。


 私はその紙をしばらく見つめた。


 このマンションのルールかもしれない。親切な住人かもしれない。本当にそれだけなのかもしれない。


 それでも、あの家で覚えた震えは、簡単には抜けなかった。


 窓の外では、向かいの建物のベランダに洗濯物が揺れている。どこにでもある夕方の景色だった。私はカーテンを閉めた。閉めたあとで、閉めたことを誰かに見られている気がした。

Xで、


「もう数年前だが、若いのに1人で東京の一軒家に住んでるのはおかしいという意味不明な理由で近隣住民に通報されたことがある。先ほど隣の奥さんが犯人だと判明した。引っ越そうかな。」


 という投稿を見て、そのまま芯にして書きました。


 怪異の話ではありません。


 けれど、理由になっていない理由で他人の暮らしを覗き込み、本人はそれを加害ではなく心配や正しさのつもりでやっている、という形は、下手な怪談よりよほど怖いと思っています。


 何か特別な事件が起きるわけではなくても、人はそれだけでじわじわと生活を削られていく。


 今回は、そういう人間の理不尽さと、「普通」を勝手に決めてこちらへ押しつけてくる息苦しさを、そのまま不条理ホラーとして形にしてみました。


 読後に少しでも、幽霊よりこういう人のほうが嫌だな、と思ってもらえたなら狙い通りです。


 読んでくださってありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
 他人の些細な行動を細かく見ては、なにかと警察への通報動機などにしたがる人ですか。悪意あるなし関係なく疲れそうですし、他人の顔が怪異にうつりそうな程にやつれかねない話ですね。友人が引っ越しを勧めるのも…
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