112 逃亡の誘い 応じられない誘惑
私達は現場が落ち着くまで、君国のマーク2.の後部座席で、しばらくの間二人っきりで座っていた。
津久田は、シンヤを追った連中の様子を見てくるといって、海のほうへ走っていった。君国は携帯でどこかに連絡をとっている。途中で、公園の自動販売機で買ってきたコーヒーを私達に差し入れ、それからまた激しい口調で誰かと話していた。
私は缶コーヒーを手につかんで、暖をとった。
隣でトワが遠くを見つめて沈黙していた。
「ねぇ、トワ」
トワは静かに振り向いた。
「お兄ちゃんのこと、好きだった?」
波の音が、また耳に余韻を残しはじめる。朝日が窓から入ってきて、トワの顔を綺麗に照らしだした。
彼女はゆっくりと笑った。
「えぇ」
彼女は静かに呼吸し、静かに喋る。静かに缶コーヒーを開け、静かにそれを飲んだ。まるで兄のように、静かに。
「あの言葉、最後にシンヤが言った『海の向こう、あの島で、僕たちはきっと生まれ変われる』、あれって?」
「あれはね、」
それからまた遠い目をした。彼女はいつだって過去を見ている。今日までは。
「あなたのお兄さんが、私にプロポーズしてくれた時に言った言葉よ」
「え?」
「私が組織の人間であったことを知っていたのね、彼。だから、海の向こうに一緒に逃げようって」
「一緒に?」
「そう」
そうして魅力的に微笑んだ。
「だけど、私のために情報を得ようとしてあのビルに行ったっきり、彼は死んじゃった。私が行った時には、もう遅かった。置いてきぼりだった」
私は何も言えなかった。