01.前世を思い出す
私が『チヨコ』の声を聞いたのは、デヴュタントの翌日から二年間欠かしていない『将来の旦那様のお見守り』をしている真っ最中だった。
キャロル伯爵家の長女である私ことジャクリーンは十五の夜、デビューし、衝撃的な恋に落ちた。
ストーン公爵家の令息ポール様である。
金髪碧眼に、完璧なアルカイックスマイル。
彼を初めて目にしたとき、『ジャクリーン』は雷に打たれたみたいに一目惚れした。
そのひと月後には恋文を月三十通送るようになり、その翌々月からはプレゼントを贈るようになった。
そんなある日、チヨコの声を聞いたのだ。
──《ストーカー、きも……》
音として聞こえたわけではないけど、脳内に響いてきた『ストーカー』という単語をきっかけに、私は前世の記憶を思い出した。
名前は『チヨコ』(苗字は不明)。美大を中退し、その後はカフェ店員のバイトをしていた。
メニューボードを描いたり、季節メニューのイラストを描いたり、店内ポップを作ったり。特に食べ物を美味しそうに描くのは得意だった。
「お嬢様? どうされたんですか? ポール様はもう行ってしまわれましたよ?」
振り返ると、黒髪の男がこちらを見下ろしていた。
煮詰めた飴のような濃い琥珀色の目に、高い鼻筋、薄い唇。高い背丈に広い肩、引き締まった体つきと長い手足。
従者服はきちんと着ているのに、路地裏の賭場から出てきた直後ですと言われたほうが納得できる顔つきだ。おまけに目つきも愛想も悪い。
なのに令嬢たちはなぜか頬をポッと染める。
「治安の悪い顔の男……じゃなくて、ラルフ」
「……なんなんすか? お嬢様の『将来の旦那様』、もう行っちゃいましたよ。追いかけないんですか?」
ラルフは眉を片方だけ上げ、顎で通りの先を示した。態度がでかい。
「行かない」
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
門の前で待つ理由も、追いかける理由も、手に持っている恋文も、急に全部よそよそしい。
「? どうしました?」
ラルフが腰をかがめた。背の高い男が近づくと、従者服の襟元についた銀の留め具が目に入る。
「もう『お見守り』はやめる」
言った途端、ラルフの眉がぴくりと上がった。
顔がいい男は、人を疑う顔にも迫力があるのだと私はどうでもいい知見を得た。
「んー……熱は……ないですね」
手袋を脱いだ手が、私の額どころか目元まで覆った。剣を握るせいで硬くなった手のひらと、長い指が顔の上半分を雑に包み、視界がふさがる。
「ね、ラルフ」
私の顔から手を離したラルフは、外した手袋を握ったまま眉を上げた。
「なんすか?」
「……あのね、私に付いてきてくれる?」
ラルフは、私が五歳の頃、街歩きの途中で拾ってきた。
『おかおがかわいいから、うちにつれてかえる』──幼い私がのたまった言葉である。
お父様は、可愛い娘に「元の場所へ返してきなさい」とは言えなかった。しかも連れて帰って洗って着替えさせてみたら、女の子ではなく男の子だった。
お父様は頭を抱え、お母様はお茶を飲みながら、「あらあら、困ったわねえ」と、まったく困っていないような声色で言い、トリスタン兄様は私の後ろに隠れるラルフへ眉を寄せた。
結局、ラルフはキャロル家で育ち、私の従者兼護衛になった。
ラルフは体術も剣もできた。国内の剣術大会で七位に入って、騎士団からスカウトが来たこともある。だけどラルフは断った。その理由を、「お嬢様の奇行を見張る人員が減ると困りますんで」と言っていた。なんだその理由。
もし騎士になっていたら、今頃は従者服じゃなくて騎士服を着ていたのかな。
似合いそうではある。
でも、騎士になって私のそばからいなくなるのは困るから、断ってくれてよかった。
「いいですよ。地獄でも」
ラルフは平然と言ってのける。
「そこまで遠くじゃなくていいよ、領地だし」
「帰るの二年ぶりですね」
「うん。それでね、もう王都には帰ってこられなくても……付いてきてくれる?」
「だからいいって言ってるじゃないですか」
ラルフの返事に、泣きそうになったのは内緒だ。
◇
王都にあるキャロル伯爵家のタウンハウスは、赤い屋根が可愛い。
白い壁には蔦が這い、玄関前の花壇には季節の花が植えられている。
本来なら、ここはお父様と兄様が仕事をしたり、お母様が社交へ出たり、家族が王都での用事を済ませるために使う場所である。
けれど私は、誰が何のために滞在しているのかにも興味を持たず、二年間ずっとポール様を追うための拠点にしていた。
家族の予定は知らないのに、ポール様の予定だけは把握していたのだ。
リビングには、お父様とお母様、トリスタン兄様と、その婚約者のブレンダ姉様がいた。
お父様と兄様は、並んでいると親子だとよく分かる。
二人とも赤い髪に紅い目で、背が高く、細身だ。
顔立ちもよく似た端正な親子なのに、お父様は私を見るとすぐ嬉しそうになるし、兄様は眉間に皺を寄せることが多いので、受ける印象はかなり違うんだけどね。
お母様は私より小柄で、淡い金髪に青い目をしている。口元には小さなほくろがあり、いつも上がった口角も相まって、たいへん妖艶な人だ。
あの小柄な体のどこからあんな色気が出てくるんだろう。
……胸もかなり関係している気がする。残念ながら、その辺りは娘の私には受け継がれなかった。
遺伝って、欲しいところを選ばせてくれないんだよね……。
その隣にいるブレンダ姉様は、栗色の髪に緑の目をした、すらりとした清楚な美人さんである。
「ただいま、あのね」
出てきた声は、完全にいつものジャクリーン。
頭では「お話があります」と言うつもりだったのに、前世を思い出した直後でも、十七年分の非常識系令嬢っぷりは抜けてくれない。
家族はとんでもなく甘い。
私が「ポール様を見守っているだけなの」と言えば、お父様は懐から財布を取り出し、お母様は「恋する年頃ですものね」と言い、ブレンダ姉様は心配そうに眉を下げる。
そのぶん、トリスタン兄様は妹を叱った。甘やかす気のない人間が家に一人は必要なのだろう。
「私、領地に帰ろうかと思うの。それでね、もう王都には帰ってこないって決めたの」
言い切った途端、お父様の手がカップの取っ手にかかったまま止まった。
お母様は扇を閉じ、ブレンダ姉様に至っては目をぱちぱちさせている。
トリスタン兄様にじっと見つめられ、肩が縮こまった。
でも、言わないといけない。
「私、二年もポール様のストー……じゃなくて、付け回しをしていました……」
声が途中で小さくなったけど、言葉を引っ込めるつもりはない。
「婚約もしていないのに、将来の旦那様だって思い込んで、恋文を送って、贈り物をして、お姿を見たくて予定を追っていました。ストーン公爵家にも、ポール様にも、ご迷惑をおかけしました。今日、それが異常だって初めて分かって……反省しました。だから……領地に帰ります」
「ジャクリーン」
トリスタン兄様が私の名を呼ぶ。
私に甘い家族の中で唯一、厳しい声だ。
「領地へ行くことは止めない。だが、ストーン公爵家とポール様に謝罪を済ませる前に王都を出ることは許さない」
お父様が何か言いかけて、口を閉じる。
お母様も、ブレンダ姉様も、私を庇わなかった。
「はい」
ジャクリーン史上、一番まともな「はい」である。
◇
私室に戻るなり、扉を閉めた。
「はああ」
馬鹿みたいに大きな溜め息が出て、鏡台の鏡に映る自分と目が合う。
柘榴みたいな紅い瞳。次いで目に入るのは薄桃色の髪だ。高い位置で結んでいる二つの尻尾は、十七歳の私を、実年齢より幼く見せている。
リボンを解き、指で髪を梳く。
引っ張られていた頭皮が解放される感覚にほっとする。
こんこん、とノックがしてラルフが入ってきた。
「紅茶とクッキーを持ってきましたよ」
「わあい!」
下ろし髪姿の私へ、ラルフは「そっちのがいいんじゃないすか」とぞんざいな口調で言った。
「でしょ? さてと、お手紙を書かなきゃね! ……クッキー食べてから!」
私の言葉にラルフは「はいはい」と笑った。
目つきの悪さが抜けると、拾ってきた頃の面影が見えて可愛い。




