第六話 黄昏の神隠しと名を渡す橋(1)
あの橋は、足だけで渡るものではなかった。
少なくとも、その夜だけは。
日が落ちきる前、リュカは町はずれの石橋に着いた。
向こうへ行く者は、小さな火を持っている。
戻ってくる者の手には、何もない。
橋は短い。幅もない。
向こうにあるのは墓地で、その先に貧民街が寄り集まっている。
昼でも、墓に花を持つか、向こうに身内がいるか、薬や古着を運ぶか、そのどれかでなければ渡らない橋だ。
今夜は、墓地に明かりを持っていく日だった。
夕暮れどきだけ、小さな火がぽつぽつ橋を渡っていく。
手のひらで囲えるくらいの皿に油を差し、細い芯に火を灯してある。
墓に置くための火だ。
風が吹くたび、火は指のあいだで細く揺れる。
見ていると、渡っているのは火だけではなかった。
町の一日分の疲れや、飲み込んだ言葉まで、小さな皿に乗っていく。
リュカが橋に向かうと、たもとの家の戸口から男が声をかけた。
「今から向こうに出るのはやめとけ」
「まだ明るい」
「明るいのは空だけだ」
男は橋を見てから、空を見た。
まだ西に色が残っている。
けれど橋の真ん中だけ、そこまでの距離より少し遠く見えた。
短い橋なのに、町側から数えて五歩か六歩目あたりだけが夕方の底に沈んでいる。
男は橋の真ん中をもう一度見て、扉を半分開けた。
「宿じゃない。
床でよければ、一人寝られる。
豆の煮込みと黒パンくらいなら出せる。
今夜だけなら、うちで足を止めろ」
「世話になる」
家の中は狭かった。
炉と、小さなテーブルと、壁際の寝台が二つあるだけだ。
向こう岸の貧民街と同じく、何かをしまうための余白より、今日をやり過ごすための空きが先にある家だった。
そのテーブルに、深皿が三つ並んでいた。
二つは湯気を上げている。
一つだけ、まだ温かいのに手がついていない。
その前に、女が座っていた。
若い女だった。
目だけは、もう一年ぶん擦り切れていた。
深皿の前でスプーンも持たず、橋の色が変わるたび、戸口の外を数え直すように見ていた。
「食え」
男が言った。
女は返事をしない。
「冷める」
それにも返さない。ただ、橋の上の色が少しでも薄くなると、目だけがそちらへ動く。
男は棚から欠けた深皿を一枚出し、鍋から煮込みをよそった。
黒パンは自分の皿から半分割って、リュカの前に置く。
薄い豆の煮込みと、固い黒パン。
客をもてなす余裕などない家の飯だ。
それでも匂いは悪くない。
鍋底の豆まで掬って出す手つきだけは、粗くなかった。
うまいとかまずいとか言う夜ではないことは、家の空気で分かった。
「妻だ」
それから、少し間を置いた。
「去年、あの橋で息子をなくした」
母はそこで初めて口を開いた。
「なくしたんじゃない」
橋を見たまま言う。
「途中で、いなくなったんだよ」
低い声だった。
怒っているのではない。
何度も同じことを言い直して、角だけ残った声だった。
父は返さない。
返せないのだろう。
橋のことを口にするたび、夫婦で同じ場所に戻ってきたのが、その黙り方で分かった。
少しして、父がぽつりと続けた。
「向こうの祖母に薬を届けにやった。
熱があってな、その日のうちに飲ませた方がいいと言われた」
母が橋から目を離さずに言う。
「あの子、ああ言われるのが好きだったんだよ」
「何て」
「おまえなら一人で行ける、って」
そこで初めて、母の口元が歪んだ。
笑いの形だけが乾いて残ったような歪みだった。
「包みの結び目が緩かったから、直してやろうとしたんだ。
そしたら手を払ってさ。『もう子どもじゃない』って」
そう言って、ようやく膝のあたりを見る。
「子どもじゃないなら、包みくらい真っすぐ差せばよかったのに。
あの子、薬包みは少し斜めに差さってた」
父は深皿を持ったまま、しばらく黙っていた。それから小さく言う。
「俺も悪い」
母は返さない。けれど父は続けた。
「俺が言ったんだ。
おまえならこのくらい、一人で行けるって」
夫婦の間に置かれているのは、去年の橋だけではない。
あの一言もまだテーブルの上に残っているのだと、その三枚目の深皿で分かった。
母はふいに立ち上がった。
「また行くのか」
父が聞く。
母は頷きもしない。ショールを引き寄せ、橋が夕暮れの色になる、その時間だけを見ていた。
「今日もだよ」
それだけ言って外に出る。
父はその背を見送り、それからリュカに目を向けた。
「泊めた礼だと思って、今夜だけは妻のところへ行ってくれ。
一人にしたくない」
頼みというより、もうそう言うしかないところまで来た声だった。
リュカは戸口へ目をやった。
「おまえは行かないのか」
「行く」
父はそう言ってから、少し唇を噛んだ。
「ただ、そのうち弟も来る。
見張り所勤めでな。橋や門の見回りが回ってくる。
去年の時も最初に駆けつけたのがあいつだった。
それ以来、姉さんが夕暮れに橋に出ると、遠くからでも見に来る。
何かできるわけじゃないのに」
そこまで聞けば、もう分かった。
外では、明かりの皿を持った人たちが橋に向かっていた。
浅い皿に油を差し、細い芯を立てる。
向こうに渡る時だけ火があり、戻る時にはない。
橋は狭い。
大きな声を出せば、狭い石橋で変に響く。
だから町の者は、墓地に明かりを持っていく日だけ、橋の前で声を低くする。
それでも、子どもの声だけは時々はねた。
火の皿を持った女の脇を、小さな子がするりと抜けようとする。
向こう岸に見知った顔でも見つけたのだろう。片手を上げて、橋に駆け出しかけた。
「ミロ」
母親が名前を呼んだ。
叱る声ではない。ただ、短く名前だけを置いた声だった。
子はそこで止まる。
振り返り、少しむくれた顔で戻ってきて、母親の空いた指をつかんだ。
リュカはその一瞬を見ていた。
名前ひとつで、足は戻る。
橋の手前なら、まだそれで足りる。
戸口の母も見ていた。
目は動かないのに、肩だけがかすかに固くなる。
その子の母親が名を呼び直し、火の皿を持たせる手つきを見て、母の指がショールの端を強くつかんだ。
誰もその手元を見ないふりをした。
町の者はもう、この家の夕方に目を合わせるのがうまくなっている。
気の毒がるのも、避けるのも、見ていない顔をするのも、どれも一年で身についた癖だった。
橋の手前で名前を呼ばれる。
もう子どもではないと思いたい年頃には、退屈な決まりだった。
向こう岸に祖母がいる子も、薬を届ける子も、小さいうちは手を引かれ、少し大きくなるとそれを嫌がる。
この家の子もそうだった。
薬の量も市場の日も覚えている。
そのくせ、包みの結び目はまだうまく作れない。
そういう子を見て、大人は手を離す。
橋の手前では、町の親は袖より先に名前を呼ぶ。
それなのに、あの日だけ、この家では名前が出なかった。
恥ずかしさも、人目も、「一人で行ける」という父親の言葉もあった。
理由はいくつもある。
残るのは、呼ばなかった、それだけだった。
隣の水場では、去年の秋まで、子どもたちが橋の向こうの市場ごっこをしていた。
石をパンに見立て、壊れた木切れを本に見立てる。
そのたびに、この家の子は一番先に値段を決めた。
高すぎると文句を言われると、「向こう岸ではこれくらいする」と言う。
実際に見たのか、どこまで本当かは分からない。
でも小さい子たちは、その言い方だけで信じた。
水場の壁には、今も薄い線が残っている。
子が炭で描いた、向こう岸の店の看板だ。
雨でほとんど流れ、文字は読めない。
それでも母は、水をくみに行くたび、その線を見てしまう。
見ないようにしても、視界の端で拾ってしまう。
町の者も、それに気づいている。
気づいているから、誰も消さない。
消せば親切になるわけではないし、残せば慰めになるわけでもない。
ただ、手を出すにはあまりに小さく、放っておくにはあまりに人の形をしている。
そういうものが、町には一年で増えた。




