第五話 妖精に目を奪われる村(8)
翌朝、広場へ出ると、貯蔵庫の前で腕を組んでいたのは村長の甥だった。
その横で、母親が袖口を握り込んでいた。
板の前で名前が読まれるたび、周りの目が息子へ向く。
母親は、それを黙って見ていられなかった。
「うちの子の名前ばっかり、板の前で呼ばれてる」
母親が言った。
甥は靴先で雪をこすった。
「呼んでない」
カーラは答えた。
「入口の番に、あの子の名前を書いた」
「だからだよ」
母親は貯蔵庫の柱を指した。
「みんなが板を見る。そのあとで、うちの子を見る」
母親の指が、柱の板を叩いた。
「これじゃ、昨日の『妖精』がうちの子みたいじゃないか」
広場の人たちは、甥を見るのをやめた。
カーラは息を吸った。
ここを間違えると、また昔と同じになる。
正しい名前が、正しすぎて人に貼りつく。
リュカは少し離れたところで、荷紐を結び直していた。
こちらを見てはいたが、口は出さなかった。
ここで言うのはカーラだった。
「昨日の妖精は、あなたの子じゃない」
カーラは言った。
「じゃあ何なの」
「みんなが逃げ込んできた言葉」
母親は眉を吊り上げた。
「ひどい言い方だよ」
「ひどい。でも、あの子ひとりにかぶせるよりはまし」
カーラは記録帳を開いた。
新しいページを母親の前に向けた。
「今日は入口をあの子が見る。明日は替える。火も井戸も、その日の番を決める」
カーラは記録帳の欄を指で押さえた。
「あの子を責めたいんじゃない。その日の朝、誰がどこを見るかを先に決めておく」
母親は記録帳を見た。
字を追うのは速くない。
だが、読めないわけではない。
「じゃあ、明日は誰が入口を見るの」
「まだ決めてない」
カーラはそう言ってから、母親の手を見た。
指が太く、爪の脇が固い。
爪の端には、根菜置き場の土が少し残っていた。
「入口、あなたが見る?」
母親は目を丸くした。
「私が見るの?」
「入口。明日の朝だけ」
「うちは根菜置き場がある」
「じゃあ根菜置き場でもいい。どこか一つを、最後まで見て」
母親は黙った。
貯蔵庫の柱を指していた手が下りたところで、甥がぼそりと言った。
「母さん、根菜置き場は鍋係と子どもたちだろ」
「知ってるよ」
「じゃあ入口でいいだろ」
「今は黙ってて」
きつい言い方だった。
だが、さっきまでの怒りとは少し違っていた。
母親は板を見た。
二行を読み直した。
それから、自分の息子を見た。
最後に記録帳を見た。
「明日の入口は、私が見る」
母親は大きく息を吐いた。
それでも言い切ったのを見て、カーラは頷いた。
「書いておく」
「まだ書くな」
「どうして止めるの」
「今日の夕方、見てから言う」
母親はそう言った。
カーラは口元をゆるめた。
夕方に見る。
それなら、今は無理に書かなくていい。
字にすると怖い。
誰がどこまでやるかが、そのまま残る。
だからこそ、朝いちばんに開いておく。
カーラは記録帳を閉じ、貯蔵庫の扉を見た。
貯蔵庫の前の雪は薄い。
扉の下の乾いた草は凍っていない。
上の留め金も、まだ落ちたままだった。
井戸の方では、もう水の音がしていた。
村長の妹が、桶より先に石のふたへ指を差し入れている。
「もう井戸を見たの」
カーラが言うと、妹は肩越しに振り返った。
「先に見るって言ったろ」
「たしかに、言ったね」
「言ったからには、見ないと落ち着かないんだよ」
昨夜までは、まず桶だった。
順が変わると、朝の音も変わる。
その時、鶏小屋の方から、甥の声がした。
「おい、これ、掛け木が浅い」
甥はまだ、誰の顔も見ずに言っていた。
だが、そのあとすぐ自分で言い直した。
「俺がやる。こっちは俺だ」
カーラは記録帳の角を押さえた。
喜ぶにはまだ早い。
だが、甥は軽口ではなく、自分の持ち場を言った。
村の炊事場に湯気が立ち始めるころ、ユラが貯蔵庫の前へ来た。
手には薪を三本抱えていた。
「火は俺、だったな」
記録帳を開く前に、自分から言った。
カーラは頷いた。
「火はユラ。でも、灰の下まで見て」
「見るって言ってるだろ」
「見てから言って」
ユラは鼻を鳴らした。
それでも火の前へしゃがみ、灰を寄せ、火種の色を確かめてから言い直す。
「……火は俺。火種は灰の下に残ってる」
「それでいい」
カーラは記録帳を開いて、入口、井戸、火の横に印を置いた。
その時、広場の端でまた子どもの声が上がった。
「白いの、いた!」
皆が、反射でそちらへ向きかけた。
声は、北畑のカボチャの畝からだった。
どうやら昨日と同じ場所らしい。
甥が、喉もとまでいつもの言葉を持ち上げた。
けれど、その前に貯蔵庫の前の板を見た。
「入口を見てからだ」
子どもたちはきょとんとして、それから貯蔵庫の前の板を見た。
「入口、誰だっけ」
小さい方の子が聞く。
「入口は俺が見る」
甥がすぐに返した。
「井戸は誰が見るの」
「井戸は私が見る」
村長の妹が、桶を置いたまま言った。
「火はユラ。根菜置き場は鍋係と子ども」
子どもたちは入口へ戻った。
甥が扉の下の乾いた草を指で押し、母親に見せるように顔を上げた。
「浮いてない」
「ちゃんと見たの」
「ちゃんと見た」
「じゃあ、言って」
甥は不満そうに鼻を鳴らした。
それでも、板の前で声を張った。
「入口、草は浮いてない」
母親は頷かなかった。
それでも自分で扉の下の乾いた草を押し、息子の指先に水がついていないのを見た。
記録帳の方は見なかった。
広場の人たちは、そのやり取りを聞いていた。
誰かが笑いかけたが、すぐ普通の顔に戻った。
誰も大げさには褒めない。
けれど、近くにいた人は入口を一度だけ確かめた。
鍋係は根菜置き場の前で、子どもたちと足元の板を見た。
穴の縁には、昨日運んだ板が渡してある。
足跡は板の上だけについていて、縁の土は崩れていない。
「穴も崩れてないよ」
そこでようやく、広場にいる人たちが北畑を見た。
カーラは記録帳を閉じた。
「北畑、見に行く?」
村長の妹が聞いた。
カーラは迷った。
見たい気持ちまで叱ったら、また誰かが隠れて見に行く。
「確認は終わった」
カーラは言った。
「なら、見ていい」
子どもたちが先に走り出し、大人たちもその後ろへ続いた。
リュカは荷を背負い直した。
村を出る坂道は、北畑の脇を通っている。
「もう発つの?」
「途中までは一緒だ」
それだけ言って、リュカは畑へ向かう人たちの後ろを歩き出す。
カーラも記録帳を抱えて続いた。
見たかったのは、白いものそのものより、畑へ向かう人たちの背中だった。




