第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(10)
宿へ戻る頃には、空は暮れかけていた。
土間には、豆と根菜の煮込みが残っていた。
女主人は鍋へ水を足さず、底から具を集めて六つの椀へ分ける。
少し遅れて、ガドが宿へ戻ってきた。
六人は、空いた腰掛けから一つずつ選んだ。
ブレノは端の腰掛けを選んだ。
ガドは向かいへ座る。
セルマは二人の間でなく、ネルカの隣へ座った。
女主人は椀を置くたび、相手の顔を見た。
「名は」
「リュカ」
「セルマ」
「ネルカ」
ガドは自分で答える。
「ガド」
最後にブレノが言った。
「ブレノ」
女主人は五人ぶんを聞き終え、鍋を火へ戻した。
「覚えられなくても、椀は下げない。食べな」
ブレノは黒パンの包みを出した。
「これは返す」
「知らない旅人へやった一食だ」
「もう一食もらってる」
「なら明日の分にしな」
「朝になったら、俺を追い出すかもしれないだろ」
「追い出す客へも朝飯は出す」
女主人は自分の椀を持ち、台所へ入った。
ブレノはパンを割った。
巻かれた右手では力が入らず、左だけで押す。
ガドが反対側を押さえた。
パンが二つに割れる。
二人は同時に手を離した。
ガドが、自分の手を見た。
「これも、十年やってたか」
「固いパンの日はな」
「毎日じゃないか」
「この宿のパンが固いとは、俺は言ってない」
台所から布巾が飛んできた。
ブレノの肩へ当たる。
「あんたが誰か分からなくても、悪口は分かるよ!」
女主人の声に、ネルカが笑った。
セルマも笑った。
ガドは口元を止めたが、次の瞬間には声を立てて笑った。
食事の後、リュカは女主人へ黒い手袋の男を尋ねた。
「泊まってはいない」
女主人は椀を洗いながら答えた。
「昨夜、入口で寝台が空いてるか聞かれた。空きはないと言ったら、それ以上は聞かずに出ていったよ」
「どっちへ行った」
「北門。荷はなし。細い銀鎖を首に掛けてた」
リュカはうなずいた。
「知り合いかい」
「顔と名は知ってる」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りない相手だ」
リュカは椀を拭く布を受け取り、洗い場の端へ並べた。
夜、女主人は台所の長椅子へ毛布を一枚置いた。
「九番の毛布じゃない。客用だ。水は桶にある。火は消す。扉は内から錠を掛けな」
「俺を中へ残していいのか」
「ネルカが、明日も結び方を聞くって言ってる」
「子どもを証しにするな」
「証しにはしてない。あの子が明日もあんたに会いたがってる。それで、今夜は泊める」
女主人は九番へ上がる階段を見た。
「あそこは、まだブレノって男の部屋だ。長椅子は、今夜のあんたの寝床だ」
ブレノも階段を見た。
「俺がどっちで寝ても、朝になればこの顔だ」
「それでも今夜は、あたしが貸せるほうで寝な」
女主人は灯りを持って二階へ上がった。
セルマは土間の入口に残った。
「明日の朝、知らない男に見えたら、名前を聞く」
ブレノは長椅子へ腰を下ろした。
「名乗った後は、今日の続きを話せ。最初から試すな」
セルマは庇修理の木槌を卓へ置いた。
「明日、これもある」
「ガドにやらせろ」
「あいつは釘をまっすぐ打てない」
「覚えてるじゃないか」
「悪いことだけな」
セルマは土間を出た。
*
翌朝、ブレノが目を開けると、九番へ上がる階段は変わらずそこにあった。
だが上がらなかった。
長椅子の毛布を畳み、台所の端へ置く。
女主人は火を起こしていた。
振り返り、見知らぬ男を見て、火箸を握った。
「名は」
「ブレノ」
女主人は火箸を下ろした。
「朝飯は食べるかい」
「黒パンを一切れくれ。ガドを待たせてる」
女主人は黒パンを一切れ切った。
ブレノは長椅子へ戻らず、立ったまま食べた。
入口では、リュカが旅支度を整えていた。
「荷場へ行くのか」
「途中までだ。俺は北門へ向かう」
外では、セルマが庇板を壁へ立てていた。
ブレノを見る。
セルマは庇板の端を握り直した。
「ばあさんには、もう聞かれた?」
「火箸を下ろす前にな」
「ならいい。庇は荷場の後」
「荷場を引き受けるとは、まだ言ってない」
「分かってる。ガドは返事を待ってる」
二人は並んで荷場へ向かった。
昨日、丸太が破った柵には、新しい板が二枚当ててある。
修理小屋の前に、荷を下ろした空の荷車があった。
折れた制動棒は外され、新しい樫の棒が脇へ置かれている。
ガドは一人で待っていた。
ブレノの顔を見る。
二本指を上げかけた手が、腰へ戻った。
「名前を聞く」
「ブレノ」
「俺はガドだ。昨日と同じ右を頼みたい。できるか」
「知ってる。右を見る仕事なら、できる」
ガドは新しい制動棒へ手を置いたが、持ち上げなかった。
「やるか」
ブレノは北門を見た。
門の向こうへ、黒い手袋の男はもう進んでいる。
少し離れたところで、リュカが北門へ向き直った。
擦れた靴底が、門の影へ入る。
ブレノは新しい制動棒へ目を戻した。
「午前だけだ。午後は庇を直す」
ブレノが答えた。
ガドがセルマを見た。
「顔も分からない男を、屋根へ上げるのか」
ブレノが先に答えた。
「下で板を押さえるのがセルマなら、俺は上がれる」
セルマが木槌を肩へ載せた。
ガドは新しい制動棒の右側へ回った。
二本指を上げ、二度、自分の肩へ曲げる。
二本指は、途中で開かず、ブレノへ向いた。
右へ寄せろ。
そこを持て。
ブレノも二本指を返した。
「右は俺が見る」
ガドは顔をしかめたまま、二本指を下ろさなかった。
ブレノは新しい棒の右へ肩を入れた。




