第九幕:誘惑
この日は朱美にとって、意外な出来事の連続だった。
普段通りの早朝勤務。朱美はエプロンを締めながら、今日も一番は彼かしら、とぼんやり考えていた。まず第一の予想外れはそれだ。開店後一番にやって来たのは、若い男の二人組だった。それもどうやら飲み明かした後らしく、興奮気味に何やら騒いでいる。朱美は落胆した。
以前にも、一度きりだが、佐上より先に客があった事がある。その時佐上は、店に入り先客を知るなり、途端に踵を返して立ち去ってしまったのである。普段から客が来ると出ていってしまうところから見て、朱美は佐上が孤独を求めてこの店に来る事を知っていた。故に、がっかりした。
二人組の入店から程なくして、佐上は現れた。佐上がドアを押し開けた頃、先客が大声を上げた。窓越しに佐上の車を指差し、
「見ろよあの車すげぇ」
「高そうな外車。幾らすんだろうな」
二人にしてみれば、佐上の車をネタにした世間話なのだろうが、佐上の様な男にとっては、あまり気分の良いものではなかったろう。朱美はこれを見て、溜め息を吐きたい気分になった。
しかし、ここでまた予想が大きく外れる。佐上は二人の迷惑な客に構いもせず、それどころか嫌な顔一つせずに店主に注文を告げ、決まりの席に着いたのである。これは朱美にとって、安堵する以前に驚くべき事だった。
注文の品であるアメリカンコーヒーを運びつつ、佐上の顔色を伺った。相変わらず煙草を吸ってはいるが、その面持ちは心無しか穏やかだった。
「お待たせ致しました」
今日は機嫌が良いのだろうか。だとしてもあまり関わりはないか。そう己を律しながら、カップを佐上の前に置いた。
「ありがとう」
不意に佐上が言う。朱美はハッとして、佐上を見る。目が合った。佐上の深い黒色の瞳に、朝日を浴びた朱美の姿が映り込んでいる。
そして佐上は微笑した。長い睫毛を下ろし目を細めて、僅かに開いた唇の隙間から、薄く白い歯が覗く。
朱美は慌てて目を逸らした。そして、
「……失礼しました」
と言い、佐上から離れた。
逃げ込むようにして厨房に入ると、盆を抱え込んで深く息を吐く。この時点で、朱美の脳は軽いパニックを来していた。大袈裟かも解らないが、朱美にとってはそれほどの事態なのである。
朱美の中で佐上という男は、雲の上の存在だった。いくら手を伸ばしたところで、人間が神に触れられる訳がない。朱美はそのくらいの気持ちでいた。ところが、傲った考え方をすれば、その神の方から、小市民の朱美に手を差し延べたのである。飛躍した例えだが、事実朱美にはそれほどの衝撃だった。
朱美は上気した頬に手を当てた。次に額を押さえて、熱を帯びていく頭を少しでも冷やそうとした。
「どうかしたの?」
なかなか厨房から出てこない朱美を心配して、店主が様子を見に来た。
「熱でもあるの?」
「だ、大丈夫です。ちょっと動悸がするだけですから……」
朱美は言い訳のつもりで言ったが、実際心臓は早鐘の如く、張り裂けんばかりに激しく脈打っているのであって、あながち嘘ではなかった。
「最近体調が良くないようだけど、無理はしてない?」
今の朱美の体調は割と良い方だが、無理はしていないと言えば、それは丸きり嘘になる。吐き気や急激な疲労感には周期があり、いつそれらが襲い掛かるとも知れない状況で仕事をするというのは、相当なストレスだった。
「大丈夫ですよ、本当に。まだちょっと眠いだけだと思います」
朱美が仕事に戻ると、佐上は涼しい顔で普段通りにしていた。ゆったりとした動作でコーヒーと煙草とを交互に口に運ぶ。目線は常にコーヒーカップの内側に落とされ、酔った二人組が退店した後、朱美がテーブルを拭きながら横目に見ても、目が合うことはなかった。
それはそうだろうと朱美は思い直す。佐上から見れば、酔狂で礼を言ってみたに過ぎないのであって、朱美の動揺など知ったことではないに違いない。自意識過剰だと、朱美は自嘲した。
やがて、佐上は席を立った。その所作も普段通りである。去り際に代金だけを置いて、無言のまま去って行く。朱美は、佐上がドアを潜るまでを見届けてから、再び嘆息を吐いた。何を期待しているのだかと、自分に呆れたのである。
朱美は自責する気持ちのまま、佐上の痕跡を片付け始めた。陶器のコーヒーカップの底に、薄茶色の染みが残っている。灰皿にはメンソール煙草の吸い殻が二本入っている。そしてその隣にオイルライターが――。
朱美は慌てた。ライターを掴んで走る。店を飛び出すと、幸運にも佐上の車はまだそこにあった。
「お客様、お忘れ物です!」
パワーウィンドウを開けた佐上に、息を切らせながら告げる。対して、佐上は平然としていた。
「それ、わざとなんだ」
「……え?」
息を整えながら聞き返す。
「中じゃ話し掛けにくいだろ?」
意外だった。




