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蝋燭の炎がちりりとゆれた。
花嫁衣装のまま寝台に座って、エルフィーゼ・フォン・グランディスは身じろぎせずにいる。呆然として、言葉がでないのだった。
夫となったばかりの男が目の前に仁王立ちしていた。エルフィーゼは彼、アルベルト・シュタイン侯爵の顔を、ただ見上げた。
整った顔立ちに、氷のような蒼い瞳。今日の昼間、神殿で誓いの言葉を交わしたときには柔らかく細められていたその目が、今は驚くほど冷たい光を宿している。
「エルフィーゼ」
名を呼ぶ声は極寒のように冷たく、他人行儀だった。
「率直に言おう。俺はお前を愛さない。今後も、愛することはない」
一瞬、言葉の意味が頭を素通りした。エルフィーゼはぽかんと口を開け、瞬きをして、もう一度夫の顔を見た。冗談ではない。彼の態度はあまりにも確固としていた。
「……どういう、意味でしょうか」
「言葉の通りだ」
アルベルトは寝台脇の椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。まるで取引の話でもするような、事務的な口調だった。
「私には、心から愛する女性がいる。平民の出だが、リズという名だ。そして、すでに子がいる。五歳になる息子だ」
エルフィーゼは息を止めた。心臓がどくんと鳴った。
「お前との結婚は、両家の――いや、正確には、没落しかけたグランディス家の借財と引き換えに、我がシュタイン家が得た『体面』にすぎない。分かるだろう? お前の父親が、どれほど頭を下げてこの縁談にすがったか」
その通りである。エルフィーゼの実家は先代当主の代からの放蕩で領地を傾け、爵位こそ辛うじて保っているものの、屋敷の維持すらままならない有様だった。この結婚は、いわば家を救うための最後の綱だった。
「たかが子爵の娘にすぎないお前が侯爵家に嫁いで大切にされるとでも思ったか? お前にはなんの期待もしない。だから、俺にも期待するな。俺はリズと我が息子を決して手放さない。むしろ、いずれ然るべき地位を与えるつもりでいる。お前が彼女らに何かした場合、ただではすまないと思え。お前も、父親もだ」
アルベルトはさっと立ち上がると、扉へ向かう。――本当に行ってしまう。
振り返りもせず、最後にこう言い放った。
「お前はただ、シュタイン侯爵夫人という肩書きを持って、大人しくこの屋敷の奥にいてくれればいい。それだけで、グランディス子爵家の借財は帳消しになる。悪い話ではないはずだ」
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残されたエルフィーゼは、しばらくの間、身動きひとつ取れなかった。花嫁衣装の裾を握りしめる指先がどんどん冷えていく。蝋燭の炎が静かに揺れ続けてる――。
「いっ、」
ズキリと頭痛がして、彼女は頭を抱えた。
――ああ、また、これだ。
不意に、記憶が堰を切ったように溢れ出した。
そうだ。これは、初めてではない。
エルフィーゼは覚えている。記憶している。知っている。前の生でも、全く同じ夜があったことを。
あのときも、アルベルトは同じ言葉を口にした。同じ冷たい瞳で、同じように扉を閉めて出ていった。そして――それきりだった。
彼は二度と、この部屋に戻ってこなかった。
シュタイン侯爵家の本邸は王都にあり、アルベルトはリズと子を連れてそちらへ移り住んだ。エルフィーゼだけが、この古びた領地の屋敷に取り残された。
屋敷には、脳梗塞で倒れ、右半身が動かなくなった舅――先代シュタイン侯爵が寝たきりのまま残されていた。使用人は、もう何十年も仕えている老齢の三人だけ。御者兼庭師のヨーゼフは八十を超え、腰が曲がっていた。料理番のマルタも、侍女のグレタも、同じく八十近い高齢で、若い頃のようには動けなかった。
新しい使用人を雇う金は、屋敷にはなかった。アルベルトは生活費だけは最低限送ってよこしたが、それだけだった。人手を増やすという発想、つまりエルフィーゼのためになにかするという発想は彼にはなかったのだろう。あるいは、意図的にそうしたのかもしれない。
だから、エルフィーゼがすべてをやるしかなかった。
舅の食事の世話、身体の清拭、着替え、排泄の介助。屋敷の掃除、洗濯、繕い物。老いた使用人たちの分の仕事まで、いつしか肩代わりするようになっていた。朝は日の出前に起き、夜は日付が変わる頃にようやく眠りについた。
誰も、労ってくれる人はいなかった。手紙を書いても、アルベルトからの返事はなかった。実家の父母も、借財が消えたことに安堵したのか、次第に疎遠になっていった。
舅は、意識がはっきりしているときもあった。エルフィーゼの手を握り、掠れた声で「すまない、すまない」と繰り返した。彼だけが、エルフィーゼの唯一の心の拠り所だった。だが、それすらも長くは続かなかった。舅は五年目の冬に、静かに息を引き取った。
その後も、エルフィーゼは屋敷に留まり続けた。それしかなかった。行き場がなかったのだから。実家はとうに彼女を厄介払いしたつもりでいたし、離縁を申し出る勇気も、その手段すら分からなかった。
王都では、アルベルトとリズが幸せに暮らしているという噂が、風の便りに届いた。二人はさらに子を儲け、三人、四人と増えていった。社交界では『シュタイン侯爵の理想的な家庭』として、むしろ好意的に語られているという話さえ聞いた。『平民の出だがけなげに行儀作法を身に着け妻の仕事をこなす感心なリズ』とやらの美しさの話も。誰も、屋敷に置き去りにされた本当の妻のことなど、気にも留めなかった。
化粧品など結婚式の日から目にしたこともなかった。花嫁衣装はしまわれ、実家から持ってきた数少ない衣服を大切に着まわしても、次第に繕いようもなく古びていった。使用人は次々と死に、その見舞金が必要になった。古い屋敷の修繕にも金がいった。領地から上がってくる収入のうち、ごくわずかな予算を割り当てられそれらを必死に運用した。夫である男は助けてくれないまま。
エルフィーゼは痩せ細り、髪には白いものが交じるようになった。四十を過ぎた頃、長年の過労がついに身体を蝕み、ある冬の朝、目を覚まさなかった。
誰にも看取られず、静かに。
――そうだ。私は、あの生を、たしかに生きた。
エルフィーゼは震える指先で、自分の頬に触れた。まだ二十歳の、皺のない肌。花嫁衣装をまとった、若い自分の身体。
どういう理屈で時が巻き戻ったのか、それは分からない。だが、確かなことがひとつだけ。
「もう一度……? もう一度ですって?」
彼女は笑う。
あの人生を繰り返すつもりなど微塵もない。
エルフィーゼはゆっくりと立ち上がり、涙で滲んだ視界を袖で拭った。悲しみは、まだ胸の奥にわだかまっている。だが、それ以上に、燃えるような何かが胸の底から込み上げてきた。
――絶望して、腐って、怒り狂って、擦り切れていくだけの日々には、二度と戻らない。
この屋敷で誰にも顧みられぬまま、老いた使用人たちと共に朽ちていく未来。夫と愛人が幸福を築き上げていく一方で、自分だけが忘れられ、消耗品のように使い潰される未来。
「いやよ」
口に出すと勇気が湧いた。
「絶対にいや」
そうとも。いやだ。
エルフィーゼは花嫁衣装の裾を払い、背筋を伸ばした。窓の外には、月明かりが遠く霞んで見える。あの街のどこかに、アルベルトとリズ、そして幼い息子がいる。
今度は。今度こそは。踏みつけられる側にはならない。
踏みつけてやる――今度こそ。
「この家は私のものよ」
エルフィーゼが管理した屋敷である。エルフィーゼが見回った領地である。あの男のものではない、断じて。
「私が面倒見てきたんだもの……私のよ」
蝋燭の炎が突然ボッと音を立てまっすぐに立ち上る。エルフィーゼはそれを見てふっと笑う。
やってやろうじゃないか。




