【夏限定SS】常夏の光
アスファルトから立ちのぼる熱気が、視界の向こうで揺らめいていた。蝉の声が頭上から降り注ぎ、夏という季節の圧倒的な主張が世界を包み込んでいる。
「あ、ハルマ、見て! 海が、あんなに綺麗だよ!」
電車を降り、改札を抜けた瞬間に広がる一面の紺碧。その光景に視線を奪われた美澄が、嬉しそうに僕の袖を引っ張った。
麦わら帽子の庇を手で押さえながら振り返る彼女の笑顔には、かつて病室の白いベッドの上で見せていたどこか儚い陰りは微塵もなかった。
「……ああ、本当にすごいな。こんなに青い海を見るのは、何年ぶりだろう」
(ここまで来た甲斐があったな)
僕は手にしたボストンバッグを持ち直し、潮風を肺いっぱいに吸い込んだ。磯の香りと、ほんのりと香る日焼け止めの匂いが混ざり合う。
胸の奥に一瞬だけ過去の冷たい記憶——あの暗く湿った廃資材置き場や、殺風景な法廷の空気がよぎりかけるが、美澄の暖かな温もりがそれを優しく吹き飛ばしてくれた。
僕が二年半の実刑判決を受け、静かな服役の日々を終えて社会に戻ってから、数ヶ月が経っていた。美澄のリハビリも順調に進み、今ではこうして長く歩くことも何の問題もないまでに回復している。
弁護士の三島さんや、陰ながら見守ってくれた人々のおかげで取り戻した、当たり前の日常。
今日の旅は、僕たち二人をずっと支えてくれた人たちへのささやかな報告と、何よりずっと海が見たいと言っていた美澄との約束を果たすためのものだった。
「ねえ、ハルマくん。ぼーっとしてると、置いていっちゃうよ?」
坂道を少し下ったところで、美澄が振り向いて笑う。白いワンピースの裾が、海からの南風を受けてひらひらと揺れていた。
「待ってくれ。そんなに急ぐと転ぶぞ」
「もう、子供じゃないんだから大丈夫だよ。今の私はね、ハルマくんが驚くくらい頑丈なんだから」
胸を張ってみせる彼女の姿に、僕は思わず苦笑した。だが、その言葉の裏にある彼女の努力——僕が檻の中にいた間、リハビリに耐え、孤独に耐え、僕の帰りを待ち続けてくれた日々の重みを思うと、胸の奥が熱くなる。
◇◆◇
浜辺に到着すると、平日の午前中ということもあって人影はまばらだった。寄せては返す波の音が、心地よいリズムを刻んでいる。
僕たちは砂浜にレジャーシートを広げ、大きなパラソルを立てた。日陰に入ると、吹き抜ける風が心地よく肌を撫でる。
「はい、ハルマくん。冷たいお茶」
美澄が保冷バッグから水筒を取り出し、コップに注いで手渡してくれる。冷えた麦茶が渇いた喉を潤していく。
「ありがとう。美澄、足は痛まないか?」
「うん、全然大丈夫。砂浜って歩きにくいかなって思ってたけど、意外と気持ちいいよ。ハルマくんも靴、脱ぎなよ」
言われるがままにスニーカーと靴下を脱ぎ、裸足で砂を踏みしめてみる。太陽の熱を吸った砂は温かく、少し深く足を踏み入れると冷たい層に突き当たる。その感覚が新鮮で、僕は静かに息を吐いた。
「……昔の僕なら、こんな真夏の海に来て楽しむなんて、考えもしなかったな」
ぽつりと呟いた言葉に、美澄は静かに耳を傾けてくれた。
「ハルマくん……」
「でも、あのときは本当に無謀だったなあ。法を勉強することは無駄じゃなかったけれど、心を閉ざして一人で戦おうとしたことが、結果として美澄を巻き込み、多くの傷を残した。……僕はあの時、確かに怪物になりかけていたから」
砂を固めるように指先で触れる。あの事件で僕が奪った命、背負った罪。どれだけ時間が経とうとも、消えることのない事実だ。
懲役二年六か月という刑期を終えたからといって、過去が清算されたわけではない。すると、小さな手が僕の手に重ねられた。美澄の暖かく、少し細い指が、僕の指にそっと絡みついてくる。
「ハルマくんが怪物だったことなんて、一度もないよ」
美澄の声は、波の音にかき消されない確かな強さを持っていた。
「確かに、あのときのハルマくんは自分を傷つけるのもいとわないくらい、酷い顔をしてた。でもね、ハルマくんが私を守るために泥をかぶってくれたから、私は今こうして生きているの。私のために泣いてくれたハルマくんの心を、私は絶対に偽物なんて言わせない」
彼女は僕の目を見つめ、少しだけはにかむように微笑んだ。
「それにね。三島さんが言ってたでしょ? ハルマくんが残していたノートや勉強の形跡は、誰かを倒すためじゃなく、大切な人を『守る』ために必死で紡いだ足跡だったって。私はあの言葉を聞いたとき、涙が止まらなかったよ」
「美澄……」
「過去を変えることはできないかもしれない。でも、こうやって二人で新しい思い出を作っていくことはできるよ。ハルマくんが私にくれた光を、今度は私がハルマくんに返していくんだから」
眩しそうに海を見つめる美澄の横顔に、太陽の光が重なり、キラキラと輝いていた。そのあまりの美しさに、僕は息を飲んだ。僕の暗闇だらけだった人生に、こんなにも眩しい光が訪れるなんて、かつての自分には思いもよらなかったことだ。
◇◆◇
昼過ぎになり、僕たちは波打ち際まで歩いていくことにした。寄せてくる白波が足首を濡らすたび、ひんやりとした冷たさに美澄が「きゃっ」と声をあげて跳ねる。
「つめたーい! でも気持ちいい!」
「はしゃぎすぎて転ぶなよ。ほら、手」
差し出した僕の手を、美澄は当然のようにぎゅっと握り返してくれた。指先から伝わる体温が、夏の暑さとは別の心地よい熱を胸に宿す。
二人で並んで波打ち際に立ち、地平線まで広がる海を眺めた。雲ひとつない青空に、太陽が頂点から降り注いでいる。
「ねえ、ハルマくん」
「ん?」
「これからのこと、話してもいい?」
美澄が少し照れたように視線を落としながら言った。
「一年、浪人しちゃったけど……それでも、大学に行きたいって思えるようになったの」
「ハルマくんがたくさん勉強して資格を取ろうとしていたみたいに、私も社会のこと、法律のこと……ううん、それよりももっと色んなことを学びたいの。ハルマくんの隣にいて、恥ずかしくない大人になりたいから」
「美澄はいつだって、僕にとって誇らしい存在だよ」
「ふふ、ありがとう。でもね、守られるだけの私じゃなくて、ハルマくんが迷ったときに『こっちだよ』って手を引いてあげられるようになりたいの」
彼女の強い意志を感じて、胸が熱くなる。事件の被害者として傷つき、一度は絶望の底にいた少女は、今やこんなにも強く、前を見つめている。
「ああ。僕も……負けていられないな。僕は法律の勉強を続けて、三島さんみたいな、声なき人の苦しみに寄り添える仕事に就きたいと思っている。自分の過去から逃げず、罪を背負いながらも、誰かの助けになる生き方をしたい」
それは、刑務所の中で毎晩自分に問いかけ続けた、僕の答えだった。復讐のために知識を使うのではなく、絶望の中にいる誰かを救うための灯火として知識を使う。それが、僕の「人生の復習」のやり方だ。
「うん! ハルマくんなら絶対に素敵な法律家になれるよ。私が保証する!」
美澄は満面の笑みを浮かべ、抱えていた麦わら帽子を胸に抱きしめた。
「それじゃあ決まりね。これからは、二人で一緒に勉強して、二人で一緒に進んでいこうね」
「うん。約束」
太陽の光が波間に反射し、まるで幾千のダイヤモンドが散らばっているかのように輝いていた。その輝きは、僕たちのこれからの未来を照らしているかのように見えた。
◇◆◇
夕方になり、空が黄金色から淡い紫色のグラデーションへと変わり始める頃、僕たちは浜辺のベンチに座って夕日を眺めていた。
昼間の灼熱が嘘のように、夕暮れの風は涼しく柔らかい。
「綺麗だね……」
美澄が僕の肩にそっと頭を預けてくる。その髪から爽やかな柑橘系の香りが漂った。
「ハルマくん。昔、自分のことを無能だって言ってたでしょ?」
「ああ。周りからもそう言われていたし、自分でもそう思っていたよ」
「ううん、違うよ。ハルマくんは無能なんかじゃなかった。ただ、使い道を知らなかっただけ。そしてね、誰よりも優しくて、誰よりも諦めない強い心を持った人だよ」
美澄の言葉が、僕の心の一番深い場所にそっと染み渡っていく。かつて「無能」と蔑まれ、孤独の中で爪を研いでいたあの頃の自分に、教えてあげたかった。
お前が積み重ねた努力は、決していびつな復讐のためだけに終わるのではないんだよ。いつか、こんなにも愛おしい人を守り、共に笑い合うための力になるのだよと。
「美澄、ありがとう。君と出会えて、僕の人生は変わった」
「私の方こそだよ、ハルマくん。私を暗闇から連れ出してくれてありがとう」
互いの視線が交差する。ゆっくりと顔を近づけ、重なる息遣いを感じる。波の音だけが静かに二人の時間を包み込んでいた。
唇がそっと触れ合い、温かな誓いが言葉にならない形で交わされる。
離れた後、美澄は顔を真っ赤にして少し俯いたが、その手はしっかりと僕の手を握りしめたままだった。
「……帰ったら、また明日からお勉強だね」
「ああ。何度でも復習しよう」
常夏の光は、水平線の彼方へと静かに沈んでいく。けれど、その余韻とぬくもりは、僕たちの心の中に消えることのない明かりとして灯り続けていた。
過ちも、痛みも、すべてを背負って歩いていく。この眩しい光の中で、大好きな人と手をつなぎながら。




