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勉学だけの陰キャは無能と言われていたが、ならば対処の復習も兼ね、復讐を始めようか。〜実は僕、凶暴なんです〜  作者: アルファベータ
前編

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第1話 その日は雨が降っていた。


「おい、比良坂ぁ。今日の分の数学のノート、まだ出来てねえのかよ」


 昼休みの喧騒が響く1年B組の教室。その片隅で、比良坂ひらさかハルマは小さく身を縮めていた。


 分厚い黒縁メガネを指で押し上げ、頼りない笑みを浮かべながら、必死に頭を下げる。


「ご、ごめん、大河内くん。あと一問、証明問題の解説をまとめるのに時間がかかっちゃって……今、すぐ出すから」


「チッ、使えねえな。勉強『だけ』が取り柄の無能な陰キャのくせによ、その唯一の仕事すら遅いってどういうことだ?」


 教室内の一番大きな机にふんぞり返る大河内おおこうちは、ハルマの手から奪い取るようにしてノートをひったくった。大河内はこの学校の不良グループのリーダー格であり、逆らう者は誰もいない。


 大河内の腰巾着である二人の手下が、ハルマの机の周りでニヤニヤと下品な笑みを浮かべている。


「おいおい大河内、こいつビビって手が震えてるぜ? どんだけチキンなんだよ」


「おい比良坂、お前さ、そのダサいメガネ外したら少しはマシな顔になるんじゃねえの?」


 一人がハルマの頭を乱暴に小突き、もう一人がハルマの机の上にあった筆箱を床に叩きつけた。ガシャーンと派手な音が響き、シャープペンの芯や消しゴムが教室の床に散らばる。


 クラスの誰もが、その光景を見て見ぬふりをした。関われば自分も標的にされる。誰もが自分の身を守るために、教科書に目を落としたり、スマートフォンの画面を凝視したりして、ハルマの存在そのものを世界から消去しようとしていた。


「あ、あはは……ごめん、すぐ片付けるから」


 ハルマは情けない声を出しながら、床に膝をついた。這いつくばるようにして、散らばった文房具を一つずつ拾い集める。


 屈辱で視界がにじむ。だが、ハルマは何も言わずにただ耐えた。


 ハルマはこの高校に入ってから、ずっとこうして生きてきた。勉強をして、まともな成績を維持して、誰ともトラブルを起こさずに、大人しい、「優等生」として卒業する。


それが彼のすべてだったからだ。


 だが、大河内たちの嫌がらせは、日を追うごとにエスカレートしていった。毎日のパシリ、宿題の代筆、時には「俺らのジュース代」という名目の数千円の恐喝。


 ハルマの財布は常に空になり、精神は限界まで摩耗していた。学校という空間が、彼にとっては息をするのも苦しい檻のようだった。


 そんな地獄のような日々に、ある日突如として、一筋の光が差し込んだ。


それは、雨の降る放課後のことだった。


 ハルマはいつものように大河内たちに呼び出され、旧校舎の裏手にある薄暗い物置小屋の陰に連れ込まれていた。


「おい、比良坂。明日までに、今度は英語と化学のノートな。あと、金」


 大河内が、ハルマの胸ぐらを掴んで壁に押し付けた。ドスン、と鈍い音がして背中に痛みが走る。大河内はもう片方の手で、ハルマのポケットから無理やり財布を抜き取った。


「おい、千円しか入ってねえじゃねえか。ふざけてんのか?」


「本当に……それしかなくて。今月はお小遣い、もう貰えなくて……」


「嘘ついてんじゃねえよ!」


 大河内がハルマの腹を思い切り殴りつけた。


「ぶっ……!」


 激痛に息が詰まり、ハルマはその場に崩れ落ちた。地面の泥水が制服を汚す。落ちた黒縁メガネのレンズにヒビが入った。


「ハッ、一発殴られただけでこれかよ。本当、勉強しかできない奴ってのは生きてる価値ねえな。おい、もっと痛めつけて、明日親に金を工面させるように言え」


 手下たちがニヤニヤしながら拳を鳴らし、うずくまるハルマを蹴り飛ばそうとした、その時だった。


「やめなさいよ! 何してるの!」


 鋭く、しかし明らかに震えている少女の声が、雨の音を切り裂いた。


 大河内たちが驚いて振り返る。そこに立っていたのは、同じ学年の女子生徒、南雲美澄なぐもみすみだった。


 彼女は学年でも清楚で美しいと評判の女子だったが、今は恐怖で顔を真っ白にしながらも、大河内たちを真っ直ぐに睨みつけていた。


「南雲? お前、何しにきてんだよ」


「先生を呼んだわ! もうすぐここに、何人も先生が来るから!」


 美澄がスマートフォンを強く握りしめて叫んだ。大河内はチッと舌打ちをし、ハルマの顔を見下ろした。


「クソが、めんどくせえな。おい、ずらかるぞ。比良坂、明日分かってんだろうな」


 大河内たちはハルマの財布を地面に投げ捨てると、足早に去っていった。静まり返った雨の中、ハルマは荒い息を吐きながら、泥の中に顔を伏せていた。情けなくて、惨めで、消えてしまいたかった。


「大丈夫……!? 立てる?」


 美澄が駆け寄り、ハルマの肩を支えた。彼女の手は、ハルマよりも小さく、そして激しく震えていた。先生を呼んだというのは嘘だったのだろう、周囲に誰の気配もなかった。


 彼女は、ただ一人の力で、恐怖に打ち勝ち、見ず知らずの陰キャであるハルマを助けにきたのだ。 


「あ……うん。ありがとう。南雲さん、だよね……?」


「よかった、意識はあるみたい。メガネ、壊れちゃったね。はい、これ」


 美澄は地面から壊れたメガネを拾い、ハルマの手に握らせた。彼女の瞳には、クラスの連中がハルマに向けていた軽蔑の視線は一切なかった。ただ純粋な、一人の人間を心配する温かい光だけがあった。


「どうして……僕なんかを助けたの? 大河内たちに関わったら、君まで酷い目に遭うかもしれないのに」


 ハルマが問いかけると、美澄は少し困ったように眉を下げ、それから優しく微笑んだ。


「だって、誰も助けないなんておかしいじゃない。比良坂くん、いつも一人で一生懸命勉強してるの、知ってたよ。真面目で、頑張っている人が、あんな風に理不尽にいじめられるの、私、どうしても見て見ぬふりできなかったの」


 その言葉が、ハルマの冷え切っていた心に、信じられないほどの温かさで行き渡った。この学校にも、自分の努力を見てくれている人がいた。


 自分のために、命がけで声を上げてくれる人がいたのだ。この日を境に、ハルマの世界は一変した。


 美澄は大河内たちの目を盗んでは、ハルマに話しかけてくれるようになった。図書室で隣同士に座って勉強を教え合ったり、一緒にお弁当を食べたり。


「比良坂くん、この数学の問題、教えてほしいな」


「あ、これはね、この公式をここに代入すると……」


「わぁ、本当だ! 分かりやすい! 比良坂くんは本当に頭が良いね。きっと将来、素敵な社会人になれるよ」


 美澄の笑顔を見るたびに、ハルマはどれだけ大河内たちに理不尽に虐げられても、耐えることができた。


 彼女がいる。彼女が自分の存在を肯定してくれる。それだけで、陰キャとして生きる日々に、確かな幸福を感じていた。


 しかし、そのささやかな幸せは、ある日、あまりにも残酷な形で、一瞬にして崩れ去ることになる。


 ハルマの知らないところで、大河内たちのドス黒い恨みは、ハルマではなく、彼らを「脅して追い払った」美澄へと向けられていたのだ。


 その日、ハルマは他校で行われる大事な模擬試験を受けるため、放課後すぐに学校を後にしていた。


「比良坂くん、模試頑張ってね! 応援してる!」


 そう言って手を振ってくれた美澄の笑顔が、ハルマの脳裏に焼き付いていた。それが、彼女の「最後の本物の笑顔」になるとも知らずに。 

 


◇◆◇


 夜、模試を終えてスマートフォンを確認したハルマは、美澄からの着信が何件も入っていることに気づいた。


 血の気が引くのを感じながら折り返すと、電話の向こうから聞こえてきたのは、狂乱したような母親の泣き声だった。


『美澄が……美澄が、病院に……っ!!』


 ハルマは走った。夜の街を、息が切れるのも忘れて、ただひたすらに病院へと走った。


 病室の扉を開けたとき、そこにいたのは、彼が知っている輝かしい南雲美澄ではなかった。


 ベッドの上で、顔中を紫色の腫れと包帯で覆われ、天井の一点をただ見つめて、ガタガタと激しく震えている、痛々しい肉体の塊。


 美澄の母親が、涙を流しながらハルマに告げた事実は、ハルマの精神を容赦なく叩き潰した。


 放課後、ハルマがいない隙を狙った大河内たちは、美澄をあの旧校舎の物置裏へと連れ込み、凄惨なリンチを加えた。


 それだけでは飽き足らず、彼女の尊厳を、未来を、その身体を、獣のように、レイプしたのだという。


「……あ、あ、ああ……」


 ハルマの口から、言葉にならない声が漏れた。ベッドの上の美澄は、ハルマの気配に気づいた瞬間、恐怖に目を見開き、布団を頭からかぶって、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。


「嫌ぁぁぁぁ! 来ないで! 触らないでぇぇぇっ!!」


 それはハルマを拒絶する声ではない。彼女の精神が完全に破壊され、あの時の恐怖の真っ只中から戻れなくなっているのだ。


ハルマは病院の廊下に崩れ落ちた。


 全身の血が、ドス黒い怒りと憎悪で沸騰しそうだった。僕が大人しく、無能なガリ勉のフリをしていたからだ。


 僕が、あの時あいつらにヘコヘコと頭を下げていたから、あいつらは調子に乗り、美澄をターゲットにしたんだ。


「あいつら……あいつら、あいつら……!!」


 ハルマは床に額を擦り付け、血がにじむほどに拳を床に叩きつけた。その時、ハルマの脳の奥底で、何かがパキリと音を立てて割れた。


 心の檻に閉じ込めていた「それ」が、凶暴な笑みを浮かべて這い出てくる。


(ああ、そうだ。思い出した。俺は、元からこういう奴だったな……)


 ハルマの脳裏に、激しいフラッシュバックがよぎる。中学時代の比良坂ハルマ。それは、現在の大人しい陰キャとは真逆の存在だった。


『オメェらやられてぇのか?』


『ぐっ……比良坂、来るな……』


 狂暴性と圧倒的な戦闘センスを持ち、売り言葉に買い言葉で、地元の不良たちを何人も病院送りにしていた「狂犬」。それが彼の本性だった。


 高校に入る際、「暴力は何の生産性もない、これからは勉強して、かっこいいまともな社会人になるんだ」と誓い、髪を黒く染め直し、分厚いメガネをかけ、過去のやんちゃを完全に封印して「高校デビュー」を果たしたのだ。


 すべては、過去の凶暴な自分を紛らわすための仮面だった。だが、その仮面は今、木端微塵に砕け散った。


「我慢ならず、か。……出てきていいぞ、昔の俺」


 ハルマは立ち上がった。その時、彼の目から完全に光が消え、冷徹で凶暴な「本性」が表に現れていた。


 分厚いメガネを外し、床に投げ捨てる。その顔には、先ほどまでの怯えや情けなさは微塵もなかった。


 だが、昔のようにただ怒りに任せて殴り込みに行くわけではない。この数ヶ月、彼は猛勉強をして知識を蓄えてきた。


 法律の仕組みも、社会のルールも頭に入っている。ただの暴力で病院送りにすれば、自分が傷害罪で逮捕され、悪人になってしまう。そんなのは不条理だ。


「ただで病院送りにはしねぇよ。知識もついたんだ。相手を合法的にぶちのめさなければ、俺が損をするからな」


ハルマは冷酷に微笑んだ。


 大河内たちを、法律の枠組みの中で、完璧な「正当防衛」として肉体を破壊し、社会的に抹殺する。


「勉学だけの陰キャは無能と言われていたが……ならば、その高めた知識で、対処の復習も兼ね、復讐を始めようか」


 比良坂ハルマはこの日を境に、再び狂犬になる。それが唯一の救済なのだから……。


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