一章 ロンペルディア公爵家⑤
広いサロンの中央に、花の香りがふわりと漂っていた。
金の縁取りがされたティーカップと皿がきらめき、焼きたての菓子が美しく並べられている。
「これぜんぶたべていいの!?」
目を輝かせて前のめりになるレネを、転ばないように支えてやる。
(すっかり甘えん坊でお転婆な子どもに戻ってる)
リンダの息子であるハフナーが生まれてから、少し大人びてきたレネも、王都に来てからは新しいことばかりだからか、以前のようにはしゃぎ回っていた。
目が離せないのも懐かしいと思ってしまうほど、子どもの成長とは早いものだ。
「……ねぇ、お茶会って公爵夫人だけじゃないの?」
煌びやかな刺繍が施されたシャツとベストを身につけたリシャールが、隣で囁くように呟いた。
たしかに、彼の言うとおり、シェリンたち三人とアンネローゼのお茶会と考えると、用意された席が二つほど多かった。
一瞬、アンネローゼの友人でも来るのだろうかと頭をよぎったが、リシャールの事情を理解している彼女が、軽率にそんなことをするとは思えない。公爵家の中ではフードを外せても、まだその他の人間の前で、ありのままの姿でいられるわけではないからだ。
けれどそうは言っても、フュラーもカミルも今日は朝から仕事で王城に行っている。いったい何のために用意された席だろうか、と考えていると、遠くから明るい声がした。
「似合ってるじゃねぇか! お前ら!」
「カミル!」
「おいおい、走ったら転ぶぞ、レネ!」
「おしごとおわり?」
聞いているのかいないのか、トテトテと走るレネを彼は楽しそうに抱き上げた。その隣には、フュラーも。
「母からお茶会の招待があった。午前で仕事を終えれそうだったから、帰ってきた」
「じゃあ、まさかだけど、二人も参加するってこと?」
顔を引きつらせるリシャールに、追い討ちをかけるようにして上品な声が飛んだ。
「そうよ。お手本は多いほうがいいでしょう?」
アンネローゼは、ゆったりと微笑んだ。
その笑みから、単なる微笑ましさではなく好奇心や面白さをより強く感じるのは、シェリンの気のせいだろうか。
「遅くなってごめんなさい。さぁ、みなさん。座って。今日は私たちがお手本を見せるから、よく学んでちょうだいね」
アンネローゼは優雅に腰を下ろし、まるで舞台に立つ女王のような微笑みを浮かべた。
こうして、お茶会という名の「礼儀作法の実践授業」が幕を上げた。
***
「まずはカップの持ち方ね。……リシャールさん、それは違うわ」
「えっ!? こ、こう……ですか?」
「残念。力を入れすぎよ。カクカク動くお人形みたいになってるわ」
ぷっと吹き出すレネとカミルを横目に、リシャールは顔を真っ赤にしてカップを置いた。
「だ、だって! こんな小さな取っ手、指が入らないんだよ!」
「無理に入れる必要はない。添えるだけでいい」
フュラーは見本を見せるように、静かにカップを持ち上げた。
それを見ながら、シェリンもティーカップを口もとへ運ぶ。
(この紅茶……)
スゥと息を吸い込むと、口に入れる前から鼻の中に華やかな香りが広がった。少しだけお茶を口にすると、よりその香りを強く感じる。でも、決してきつすぎて嫌になるものではなく、スッと静かに消えていくような上品な香り。
もう幾度も口にしたこの風味を、間違えるはずがない。
『花みたいな甘い匂いがするだろう? 私はこれが好きなんだ』
そう言って、彼は毎朝あの小屋の中に香りを漂わせていた。
普通の店には売っていない珍しいものなのだと笑って。
(たぶん高級品なんだろうなとは思ってたけど、まさか公爵家で嗜まれるような茶葉だったなんて)
彼は何も気にせず薬草の調合に使う鍋や器具を使ってお茶をいれていたが、もっとしっかりしたティーセットを使うべきだったのではないだろうかと、今さらながら思う。
さすがに茶葉に失礼だ。
「まあ! シェリンさん、とてもお上手ね! 所作も相まって、高位貴族にしか見えないわ!」
「ほんとだ! シェリンお姉ちゃん、すごーい!」
「誰かに教わったの?」
アンネローゼの問いかけに、シェリンは一瞬、言葉を探した。
「……そうですね。私を育ててくれた人が。姿勢を正すこととか、手先を丁寧に使うこととかをよく注意されました」
「すげぇな。貴族の人なのか?」
カミルが不思議そうに首を傾げた。
そういえば、三年も彼と関わりがあったが、保護者の話はしたことはあまりなかったかもしれない。
シェリンはカップをそっと置き、苦笑した。
「恥ずかしながら……私は保護者のことを何も知らないんです。どうしてあんな森の中で生活をしていたのか、そのいろいろな知識はどこで身につけたのか。過去のことは、何も知らないんです。私が知っているのは、『シン』っていう名前だってことと、不思議な人だってことくらいで」
半分本当で半分嘘の、あらかじめ考えておいた設定を静かに呟く。
重苦しく張り詰めた、静かな空気が、この場を支配していた。
誰も次の言葉を見つけられず、ティーカップの中で揺れる紅茶の水面だけが、微かに震えていた。
「でも――」
しばらくして、張り詰めた空気を和らげるように、アンネローゼが優しく声を重ねる。
「その方が残してくださった教えが、こうしてあなたを輝かせているのね。……素敵なことだわ」
そして彼女はふと、ティーカップを持ち上げるシェリンの所作を見つめ、遠い目をした。
「シェリンさんを見ていると……少しだけね。あの子を――オスカーのことを思い出したの」
「オスカーさん……」
この家に来てから、よくその名前を聞く。当然と言えば当然のことなのだが、もういない人の話をこうしてみんなが口にできることが、何だか不思議な気がした。
「もうフュラーから聞いた? この子の兄、私のもう一人の息子――オスカーも、紅茶の香りが大好きな子だったの。シェリンさんみたいに、飲む前から香りを楽しんでいる子だった」
アンネローゼは、シェリンを見て微笑んだ。
「あんな痛ましい事件は……もう起きてほしくないわ」
彼女の言う「事件」が、何を指しているのかは言葉にされずとも分かった。
凛として明るい彼女の、あんなに辛そうな表情は初めて見た。これをフュラーは、どう感じているのだろう。
「シェリンさんは、研究所の近くに住んでいたのでしょう? 大丈夫だった?」
「……私は、大丈夫でした」
シェリンが答えると、彼女は「そう」と目を伏せる。
「あの日ね、私は――」
「……母上。シェリンもあの事件の被害者遺族です。この話はもう――」
「そう、なの……?」
先日、シェリンが「あまり思い出したくない」と言ったことを覚えていてくれたのだろうか。
フュラーが気をつかって話を変えようとしてくれたのだが、逆にアンネローゼは目を丸くしてこちらを見つめる。
あなたも? と、彼女の視線はそう言っていた。
「……様子を見に行くと出ていって。そのまま、巻き込まれてしまったようです」
シェリンがそう告げると、彼女だけでなく、リシャールからも強い視線を感じた。
どう言っていいか分からない、そんな気持ちを二人から感じる。
「……私にとって、王立研究所は特別な存在なの。もちろん息子を奪われた恐ろしい場所でもあるけど、救われた場所でもある」
「救われた、ですか?」
「母上、それは……」とフュラーが言いかけたが、アンネローゼはゆっくりと首を振った。
「いいの。今さら隠すようなことではないわ。それに……シェリンさんには、同じ遺族として話しておきたいの」
アンネローゼの瞳は、しっかりとシェリンをとらえていた。
「私ね、昔、毒殺されかけたの」
「ど、毒殺……っ!?」
紅茶を飲んでいたリシャールが、ゴホッと吹き出した。
「オスカーが研究所に配属されてしばらくしてからね。強い毒で死を覚悟したときがあったの。王城から派遣してもらった医師たちでさえ匙を投げたそのとき……手を差し伸べてくれたのが研究所だった」
紅茶の表面に揺れる自分の顔を見つめながら、彼女は懐かしむように言葉を紡ぐ。
「オスカーが懸命に頼みこんで、私が飲んだ毒を元に解毒薬を三日で作ってくれたと聞いてるわ。彼らのおかげで、私は後遺症もなく生き延びた。あの子と研究所は、私にとって命の恩人なの。だから……あなたにとっては、研究所そのものが憎いかもしれないけど、どうか――」
シェリンは紅茶を口に含みながら、テーブルに視線を落とした。
以前から、胸の奥にずっと引っかかっていたことがある。
(どうしてあの人は、あんなにも……私を見捨てようとしなかったのか)
目を逸らしていれば楽だったはずなのに、彼は何度も、そっと世話をしてくれた。
放っておけばいいと言ったら、困ったように、あいまいに微笑んで。
それが、ずっと不思議でならなかった。
だが、今、アンネローゼの言葉を聞いて、ひとつの線が繋がった気がした。
(……傷つけたくなかったんだ)
アンネローゼは、公爵夫人として申し分ない人だ。
賢く、こんな平民にさえ笑いかけてくれる、優しい人。
だからこそ、聡い彼女なら少し話せば分かってしまう。そして、傷つけてしまう。
だから彼は、隠すことを選んだ。
でも同時に、見捨てることもできなかった。
(公爵夫人の優しさをちゃんと受け継いだ結果、自分の人生を失ったんだ)
家族を捨てるという決断までして、すべてをなかったことにする選択をした。
(たぶん……私が公爵家と接触することは想定外だったはず)
後ろめたさは少しある。けれど、あの人がそこまで覚悟を持ってくれていたならば、シェリンは何も言わず黙っているほうがいい。
(優しい人たちに限って、どうして苦しいことばかりが起きるんだろう)
アンネローゼも、フュラーも、オスカーも。カミルやリシャール、レネだって。
いつだって大切なものを奪われるのは、何の罪もない人たちだ。
そんなことを考えていると、視界でチラリとオレンジ色のドレスが動いた。
「シェリンお姉ちゃん、かなしい?」
きっと話の内容の詳細までは分かっていない。
シェリンの気持ちだって、分かるはずもない。
けれど、些細な空気の流れを感じ取ったのか、レネがこちらを心配そうに覗きこんだ。
「……少し。でも、もう今は大丈夫ですよ。レネとリシャと騎士団の人たちが、助けてくれたので」
小さく笑ってみせると、レネは心配そうに首を傾げたまま、手を握ってくれた。




