9. 寒波
――秋瀬……なのに、夏?――
――面白い矛盾だね――
もうどうなってしまったかもわからない私は、今、君の柔らかな音色に包まれている。あんなに遠く感じていた前世が、今、すぐ傍に在るみたいに。
“夏”
出逢ったあの日にそう口にした君がやがて夏生まれであることを知った。纏わりつく湿気とたまらない熱気が実にうずろうしい季節。決して好きではなかったのに、私はいつしかこの季節を愛おしく感じた。
見繕った贈り物を手にして走る。困ったような君の笑顔に逢いに行けるから。
“冬”
君の名にその意味が在ると気付いて、もとより雪合戦などが好きだった私はなおのことこの季節を好きになった。
そこに君が居てくれる。君の響きを確かめるだけで、私は……凍てつく痺れ以上のぬくもりを抱き締めた。
薄い色付きの花弁が届けば、学校の帰りに公園の八重桜を眺めに寄り道をして。
蝉の声を聴きながら、いつか海の近くに住みたいねなんて、汗だくの苦笑を見合わせて。
哀愁の気配を振り払うが如く、食欲の秋じゃ! などと言って柿の実に喰らいつく私を君が心配そうに眺めてる。
雪合戦に疲れ果てた私がふと遠くに目をやると、小さな雪ウサギをこしらえた君が垂れ下がった瞼を細めていた。
君と駆け抜けた春夏秋冬。二分した響きをそれぞれに持つ私たち。
君が最も多く口にしたのは
“秋瀬”
これなのだが。
私はいつしかあの矛盾の続きが聞きたくなった。そちらではなく、夏……その続きを君はなんと言う?
口にすることも無かった問いに答えは返らない。
何処か空白のような寂しさを抱えたまま、私は死して。時を超え、世界を超えた今、やっと、やっと、確信するのだ。
続きはすでに在ったことを。
――早く元気になって、夏南汰――
熱に倒れたあのときも。
――嘘だ、嘘だよね、夏南汰? 死んだなんて、そんな……!――
指先一つになった私が残留思念で聞いた、あのときも。
――夏南汰……――
――誰よりも君を愛してるよ。待っていて……夏南汰……!――
もうずっと前から在ったことを。肉体こそ眠っていても、粉雪のように砕けて形を無くしても。
君のくれた夏の続きは、確かに。この魂に染み込んでいったのだ。
――のう、雪之丞。
ユキ。
……逢いたいよ。
皮肉なことに私はあれでも生きていた。
あおった劇薬の作用を早急に解毒されたのか、あるいは羽交締めにしたブランチの制止によって飲み下すことも叶わなかったのか。
目を覚ました頃には冷えたベッドに手足を固定されていて、舌を噛まぬよう猿轡までされていた。
ここまでせずとももう逆らう気力すら湧いてこないというのに……完全なる脱力状態の中で唯一まともに残った聴力が捉えた。
ごめんなさい……
ごめんなさい、ナツメさん!
(この声は……ナナか?)
あのぶれないマイペースっぷりで知られている部下がドアの向こうで詰まりがちな声を張り上げている。
「私がユキさんを止めていれば……!」
「ナナ、落ち着いて! あなたのせいじゃないわ」
……そうだ。
その通りだ。
ゆっくりながらも確かに戻っていくナツメの感覚がドアの向こうの彼女へ頷く。両の漆黒を滲ませて。
もういいのだ。沢山だ。
隔たりの向こうに居る君も、君も、
今は亡き君も、貴方も……
今更ながらに己を恥じる。目の前の事態が受け入れられないが為に、一度は誰の仕業かなどと疑ったりした。こんな優しさの溢れる中で、よくもそんな馬鹿げた発想に逃げられたものだ。
誰のせいでもないのだ。背負うべきは私一人で十分。お願いだ、もう、誰も、自分を責めないでくれ。
苦痛に握り締めた拳の内側には鋭利な爪が食い込んで、どうやら血を滲ませたらしい。心配そうに手当てを始めた先生を見上げた私は。
「厠へ」
ナツメでは不得意だからとカナタに託した。あの無意識の故意が為せる技。
「お願いじゃ。身体は淑女なんじゃ。人前でなど……恥ずかしいよ」
「し、仕方ないですね」
ここぞとばかりに見せつけた潤いで先生を説得した私は、女子トイレの小さな小窓から身を乗り出してついに研究所から抜け出した。きっともう帰りはしない。
こんな優しい場所になど居られない。
九月の夜風ともなれば微弱に震えるくらいの冷気を感じさせる。向かっている方向からしてそれはなおのことと言えるだろう。
外へ出るにはあまりに無防備な白い衣服一枚のナツメは、トラックの積み荷から行き先を確かめるなり躊躇の一つもなく乗り込んだ。
肌寒さと潮の香りが一層増したところでちょうど停車してくれた。煙草をふかしている運転手の目を盗んでひらりと軽やかに舞い降りる。
スリッパを危うく引きずって辿り着いたそこは、死の間際のユキから感じ取った光景によく似ている……断崖絶壁。あんなものを見せたのも、君が凄まじい罪悪感と共に手にしたシャーマンの霊力によるものなのだろう。
――父さん、母さん。
……ごめんなさい。
性が転じてなお、淑女と呼ぶべき振る舞いにはなれなかった。満足に孝行もしてあげられなかったどころか、私は今、最大なる親不孝へと足を進めている。
実に無念。そして面目無いよ。だけどそれ以上に悔やまれるのだ。
真夏の雪と共に散った君を独りにしてなるものか。
スリッパを脱ぎ捨てるとゆっくりゆっくり進んでいった。吸い寄せられるような自然な歩み、その途中で。
――其方、ナツメと申したな?
人影など無かったはずなのに。疾風に遮られたほんの数秒のうちに現れた。
「君、は」
呆然と目を奪われながらもすでに知っている気がしたのだ。
あのときは一面白い布で覆われていたけれど、そう、この幼い少女の声に覚えがある。
潮風に踊る白銀の長い髪に、深海を閉じ込めたような深い青の瞳が片方。流れを変えた風によってもう片方見えた色は、夕暮れの紅。
全てを際立たせる雪の白。あの世界のあの国では死者が着るような装束と、それに一体化するように馴染んだ白い肌。
「伝達人」
「驚いたか。まぁ、そっちはこの世界で違和感なく存在する為の仮とでも言おうか。本来はお前が失った者の先祖とでも言おうか」
「え……?」
今なんと? 続きを口にする前に、平たい装束の前を正した幼女が真っ直ぐこちらを見据えて。
「遠い昔じゃ。幽体世界だけでは補いきれぬと、物質世界にも輪廻を動かす子孫を残してきた。彼奴ら、今では磐座と名乗っているようじゃな」
母なる海と執念にも近し愛を司る一族。
「光と星幽の間に立つ。人は私をワダツミと呼ぶ」
もう何もかも覚悟したはずだった場所で、こんな見過ごせない存在と出くわしてしまうとは。人生とは最期までわからぬもの。




