8. 雪
補充用のエタノールからホルマリン、使用頻度の少ない劇薬に至るまでが保管されている薬品管理室は、鍵を所有する研究班、あるいは警備班でないと入室することを許されていない。倒れたユキの傍らには確かに見覚えのある鍵が転がっている。
膝を曲げた滑稽な体勢のまま彼に近付いていくナツメはもはや瞬きの一つだって忘れている。漆黒の奥は次第に収縮し、対象を確かに捉えようとしているのだが。
あ……
あ、あ……
震える唇から紡ぎ出せるのはこんな言葉ですらない呻きくらいだ。目の前の光景がどうしたって信じられない。
(やはり気に入らぬ者が居たのか)
一体誰が……!!
細い肩へやっと縋り付いたときはそんな推測が浮かんだ。そんな訳がない、そんな訳が……うわ言のように繰り返すも震える漆黒の眼差しはやがて捉えていった。
動きはまだある。
まだ息のある彼が
散らばった錠剤を未だ掻き集めては
その口に
運ぼうとして、いる。
「やめろユキ!!」
叫んだらもうたかが外れたようだった。たまらず上から覆い被さったナツメはユキの白い手から錠剤を奪い取って半狂乱で投げ捨てる。
「なんで……なんで、こんなこと……ッ!」
奪っては捨て、奪っては捨て……繰り返す最中で視界を巡らせる。転がっている茶色の瓶は劇薬の類。よく見れば床に、そして彼の口元に、泡を吹いた跡まである。
「なん、で」
もう何回目かの繰り返しのところでナツメは小さく息を飲んだ。誰の仕業でもない彼自身がやったこと。それならばもうこれしかないと結論付けて。
「わかった。わかったよ、ユキ」
細かな痙攣を続ける手を握って、うつ伏せの頭に向かって微笑む。そう、君はこれを望んでいたのだろう、と。
「大丈夫だ、一人にはしないよ。私もすぐに行……」
――――!
強く握り締めた錠剤をあおろうとしたナツメの腕にブレーキがかかった。
それは紛れもなく君の方から。何錠と飲み下して今まさに重篤状態にある者とは思えない力強さ。
やっと反転し、見ることが出来た。真っ直ぐこちらを見上げたユキが細めた目にいっぱいの潤いを溜めてかぶりを振る。
――幸せだよ――
そう言ってくれた昨夜のように微笑んで、うっすら血液で滲んだ薄い唇から。
……た……
囁くのだ。
「かな、た」
「ユ……キ……?」
かつて何人に何度となく呼ばれた響きなのに、こうも鋭く身体を駆け抜けるのは、きっと、この声を通して受けるのが初めてだったからだろう。
しかしやがてすぐに知ることになる。
――夏南汰ぁ……ッ!!――
これは初めてなどではなかったのだと。
「やっと、呼べた。君に……いえ、た」
そんなことを言って笑ってくる。濡れたこの頬へゆっくりと触れてくるユキの手を握り締めた瞬間のことだった。
あ……ぁ……ッ!
とてつもない速度で流れ込んできたものが彼の情念であると気付く頃、私はすでにあの時代、あの世界に飛ばされていた。
打ち寄せる波が高みの断崖にまで及ぶ飛沫を上げる。そこにはユキが立っている。ただ一人で、随分と小さく見える背中をこちらに向けて。
感じる温度でなんとなくわかる。これはきっと夏。ゆっくり白みがかっていく晴れの空は明け方のものか。
やがて大きくしなるようにして君が膝を着く、瞬間。
真夏の空に雪が舞う。
「まさ、か?」
一筋の予感は私を変動へと導いた。視界はぐるりと一転する。
君の背中を見つめていたはずの私が、今度は宙から君を見下ろしているのだ。
――夏南汰……――
散り散りになって、チラチラと。
――ねぇ、一緒に居たいよ。夏南汰――
あらゆる角度から君へ向かって降り注ぐ。
溶けはしない真夏の雪。こんな風に粉々に砕いた後、本当はきっと皆の手で大海原に放たれるはずだった一欠片。これは……私だ。
はらはら流れ落ちていく君の涙を、ひらひら舞うばかりの雪と化した私は止められない。止められないまま、君の声が続いてくるのだ。
――君の居ない空虚の世で、僕は如何にして僕となることが出来よう――
――居させてくれまいか、君の傍に――
――許してくれまいか、この軟弱者を――
――カナタの君よ。この世の誰よりも愛した君と一つである為に、僕は――
――君と共に、真夏の雪になる――
「ユキーーーーッ!!」
舞い散る私よりも遥か深みへ落ちていく君へ、形も無いはずの手を伸ばして理解するのだ。
秋瀬夏南汰の死後間もなく、春日雪之丞も死んだ。
私と同じ場所を目指して
断崖絶壁から身を投げた。
「私を追ったんじゃな? のう、ユキ……結核ではなく……?」
「ごめ、んね」
「違う、違うて! 何を言いよる。謝るのは私の方じゃけ……っ、頼むよ、ユキぃ、死なないでくれ。私かて君なしでは生きてゆけんのじゃよ!」
絶えない涙と共に切なる願いを口にするのだが、皮肉なことにそれは与えれば与えれる程、君を満ち足りた笑みへと導いていく。やめてくれ、そんな、そんな。
「好きだ、よ、夏南汰。ずっと、前から、今の、ナツメも、これから、も」
「あぁ、好きじゃユキ。愛しとる。今すぐ助けを呼んでくるけぇ、気を確かに」
「行かない、で」
「だけどユキ!!」
立ち上がることも許さない君が精一杯の力を振り絞って私の唇を奪った。軽く浅く触れる程度に重なった後は、こちらに移った血液を冷たい指先で拭い取り、限界の力を、全てを、私に注ぎ込むように抱き締めて。
「生まれ、変わらな、きゃ。僕は、君を、守る、ため、に……っ、強く……待って、て、かなら、ず」
「嫌じゃ、ユキ、ユキ……!」
「強い男、に、なるからね」
解せぬ。あまりに解せぬよ、ユキ。
強くなる為? 私を守る為に……何故こんな道を選ぶ?
死んでナツメに出逢えたからか?
だけどこうなっちゃどうしようもないではないか。のう、ユキ。
がくりと重くのしかかってきたユキの身体が鮮明になっていく。もう半透明でもない。きっと切り離されてしまった。
「嫌じゃ……」
磐座冬樹も、春日雪之丞も、もう居ないのだ。
「嫌じゃ……ぁ……ッ!!」
確信を覚えると決意もすぐ固まって、繰り出す手にも迷いは無かった。
けたたましい複数の足音と
「ナツメ!!」
呼び止める叫びと、羽交締めにする圧力と。
噛み砕いた錠剤の苦味と血液の味が、愛するただ一人を救えなかった私が最後に覚えた感覚だった。




