7. 夜長
思えばあのときだってそうだった。触れ合ったが最後、互いに歯止めが効かなくなって何度でも何度でも求め続けた。天の恋人の慈悲に身を委ねた七月七日。
――悪い子だね――
そう言いながら実際に罪を背負ったのは彼だ。単純に考えてもそうであろう。仮に明るみとなったところで学生の私よりか教師の彼の方が確実に非難を受けることになる。
二つの世界の仕組みなど知らなくとも、このときにはもう地獄の業火に身を投じる覚悟を決めていたのだろう。きっと私を胸に抱いたまま、自分一人が焼き尽くされるつもりで。
なんて優しくて馬鹿な人なの。
――冬樹さん。
自室のドアを開け放ったナツメは迷わずこちらを口にする。
ひんやり頬を撫でる感触に呻きそうになる。灼熱を予想した牢獄の中はもう貴方の冷気で満たされているように感じた。
「逃げてしまって……ごめんなさい」
もう気付いているでしょう。宙ぶらりんのこの手に温かい飲料なんて無いことも、蒸気したこの頬にとめどなく流れた跡があることも、誰がどう見たってわかるからこそ腹を括って詫びるのだ。
なのに貴方ときたらどうだろうか。
「何故そのまま逃げなかったの」
眉を寄せて哀しげに、茶の瞳を迷子の仔犬のように満たして、それでも精一杯笑おうとなどしている。もうやめてくれ。痛々しくて見ていられぬよ。
「逃げたって、逃げ切れはしない」
想いは何度だってここへ還る。見つめられないのなら、痛いのなら、いっそ限りなく近付いてしまえばいい。
「ナツメ、だめ」
細い悲鳴を受けてなおナツメはしかと抱き締める。こうすれば顔を見ずとも寄り添うことが出来ると気付いて。
「ねぇ、冬樹さん。私はこうしているだけでいいんです。繋がらなくたっていい。抱かれなくたって、貴方を感じていられれば十分です」
「でも」
「ユキ。命さんのことだってそうじゃ。私たちが巡り逢えたのもきっと彼のおかげじゃけ、悔やむより感謝しようではないか。そしてもう二度と繰り返さんよう、心に刻めばえーがの」
「秋瀬……」
「私かて君に与えたいのだよ」
何か安堵でもしたのだろうか、のしかかる私の重さにユキは抵抗の一つもなく倒される。まだ大部分を占めている怯えを瞳に込めた彼は、実に細い消え入りそうな声で私に問う。
「汚れてもいいの?」
冷たい指先をそっと頬に宛がわれると、つい甘く鳴いたりなんかした。やっと許された。そんな感覚を覚えたのは、みっともないくらい火照った顔で頷いた私の方だったのかも知れない。
きっと認めはしないのだろうが、もとより君は汚れてなどいないよ。
その夜は無理に先を目指そうとはしなかった。同じ寝床の中で互いに呼びたい方の名を呼んでは、触れたい場所に触れ、重なりたいように重なって。
「ユキ……ッ……」
貴方の持つ冷感に灼熱の私は容易に達するのだけど、それでも越えはしない。
“君を壊さない為に”
安らぎに落ちる間際で、それは共に同じ願いだったのだと知った。
それはまた一つの始まりで。天には恥じらうように朱に染まった楓が、地では軽やかなかけっこをする木の葉が、もう秋の気配を十分に感じさせてくれる頃まで、私たちは何度となく同じような夜を繰り返した。
――愛してる、ナツメ――
――君が居るなら僕は幸せだよ――
口付けの合間に降るユキの言葉は、ずっと感じていたくなるほど優しい安らぎの音色に他ならないのに、この平穏が却って怖いなどと思った。
“幸せ”
という響きの中に救いを求めていた。私たちの選択は間違っていなかったのだと、信じさせてくれと、長月の夜空に想いを馳せたのだって昨日までの話だ。
「この頃食欲が芳しくないみたいだねぇ、ナツメさん」
「マドカさん」
もうじき午後三時になるという頃、ナツメはほんの少しの水分補給の為に食堂を訪れた。テーブルにグラスを置いたのも束の間、ごく自然な流れで近付いてきた彼女の手によってそれは野菜ジュースへとすり替えられてしまう。満面の笑みで、有無を言わせずだ。
隣の椅子を引き、よっこらしょなんていかにもな呟きと共に腰を下ろしたのは栄養士長のマドカ。年齢は確か四十代半ばだと聞いた。
決して大柄ではないのに包み込まれるような安心感を覚えるのは、横広な体格ゆえか、はたまた枕を彷彿とさせる豊かな胸のせいか。ふくふくとした笑顔と常に血色の良いまぁるい頬がトレードマークの彼女は食堂の顔と言えることだろう。
「心配をかけてすまない」
強制的に差し入れられた野菜ジュースを流し込むと
「そうよ、せっかくの女盛りなんだから。内臓もお肌も大事にしてあげなきゃね!」
両の頬を花見団子のように隆起させ、豪快な笑い声を響かせては軽く背中をさすってくれる。
うつむくナツメは密かに頬を染める。食道をひんやり流れ落ちていく飲料よりも、背中のぬくもりからじんわりと、満たされていく感覚にほのかな息をついていた。
しかし時は刻一刻と。
得たばかりの栄養からぬくもりに至るまで
何もかもを手離すことになろうとは、まさか。
「これは」
研究室に戻ったナツメは自分宛てに届いた純白の封筒に視線を落として愕然とする。
差出人は“星幽神殿”。
全て終えた。もう一通り尋ねたし賜りも受けた。そんな風に勝手に締め括っていたことに後悔の念がふつふつと沸いてくる。
迂闊だった。まだあったではないか、一つだけ。
“試練は現世を持って乗り越えなければならない”
研究は今もなお続いている。しかし解明に辿り着いてはいない。
“途中放棄をした場合、それは許されないカルマとして天界に記憶され”
彼があの決断をしてから我が身にも立て続けに起こった情の嵐。
もういい、いいのだ。君さえ居てくれればもうなんだって……そんな風に願ったのは彼以上に私の方だったのではあるまいか。
整った書体を追うごとに血の気が引いていく。私は一体何処までふやけていたのだ。
――何故、春日雪之丞の魂は二度も同じ世に転生したのか?――
“来世、また同じ世に生まれ、同じ試練を背負う”
自らが賜りを求めたことを、こんな大事なことを、よもや忘れていただなんて。
……ナツメさん。
ナツメさん? ……
誰かが側から呼んでいる。その声さえ遠く感じる中で。
そういえばユキさん遅いですね。
地質調査に出かけたまま、もう三時間。
えっ、一人で?
だってすぐ近くの森だから大丈夫って……
「…………」
――ユキ。
その名だけが、愛しい唯一無二を示すその響きだけが私の奥深くを貫いて。
――――っ!
「ユキッ!!」
すぐさま息を切らして駆け出した、これはもう虫の知らせとしか例えようがない。
辿った道のりもまた然り。何かの導きとしか思えなかった。地質調査に出かけた……確かにそう聞いたはずなのに。
廊下の奥まった位置にある一室の前で、何やら淀んだ空気とドアの隙間から漏れる冷気を感じた気がした。
ひんやりとしたところへ触れた、捻る手がためらった。
――嘘だ。
開ける前からすでにそんな否定が浮かんでさえいた。
ほのかな冷気は確かに在った、この薬品管理室に。求めていた姿も、彼らしい香りも、近付けは近く程濃さを増す。
「ユキ……」
彼が居た。冷たい氷のような床に伏せていた。
散乱した多数の錠剤が溶けない牡丹雪のように見えた。




