5. 青紅葉
薬品くさい空間が思いがけず一面の祝福で満たされたあの日から数日後の今日。
――ねぇ、冬樹さん。
今日はとりわけ彼と共に歩みたい。決意を決めた今でも愛おしくてたまらない名を口にしたナツメは商店街を越えた閑静な田舎町を進みながら、ぽつり、ぽつりと零していく。
「この世界に勿忘草は無いんです。春になったら一緒に見たかったけれど」
「そうなんだ」
「でも物質世界と共通点する植物も沢山あるんですよ。もうじき、ほら」
晴れやかな白昼の空にサワサワと揺れる方を指差して、まだ青いながらもありありと主張しているその形を知らしめる。わぁ、とため息のようにしてこぼす貴方にまた一つ、この世界の希望を教えてあげるのだ。
「楓、だね」
「はい。もうじき紅葉が見られますよ」
叶うところまで。まだ答えなるものは導き出せていないけれど、めくりめく季節を行けるところまで一緒に追いかけては眺めたい。
逸る気持ちゆえに踏み外しやすいカナタをようやっと胸の奥へ納めて、今日はのんびり行くと決めた。目指す先は決して娯楽の類ではないけれど、ほんのわずか散歩気分を味わっても許してはもらえぬだろうか、などと。
すでに目と鼻の先に現れ始めている、白い建造物を見据えて。
一歩中へ踏み入るなり硬直する全身で緊張を示したユキの手を引いて進んだ。嗅覚を刺激するのは普段と至って近いもの。しかし目的が目的なのだから無理もない。
面会の手続きを終えてエレベーターに乗り、二階の南側にある棟の一室へ。ゆっくり引き戸を開くと、窓際で半身を起こしたその人がこちらを振り返る。
片側へ流した白髪混じりの髪のかつては漆黒。私によく似た。いや、違う。私が似たというのが正しいか。
「母さん」
懐かしい響きで呼ぶと白目が見えなくなるくらい細めて、細めて。斜陽で更に白く薄く感じる、今や私にとって唯一の肉親だ。
「久しぶりね、ナツメ。忙しいのなら無理をしなくても……」
あら、短くと続いたところで察した。おずおずと後を着いてきたタイミングが容易にわかってしまう。
「ナツメ? もしかして……」
実に嬉しそうに頬を染めたりなんかする。こんな状態になっても何処か少女じみた今世の母へ、ためらいがちに頷いたナツメはついに。
「私の……逢いたかった人だよ」
なんのことはない一言のようだけど、所謂“例外”である私にとってはそうとも言えない。
――ユキちゃん――
いつかそう解釈したこの人に、この事実を知らしめるというのはなかなかこたえるものがあった。だって本当に稀なのだ。数多くの生態系研究を重ねた母でさえ私のような例に出会ったのは初めてだったと言うのだから。
見紛うこともない“彼”。細くても青白くても、少々頼りなくても姿形がそのものだ。前世がどうであったかなど一目でわかることだろう。
「そうだと思っていたわ」
「母さん……」
思いがけない返答に目を見張ったのも束の間。じんわり滲むように微笑む母は、ねぇ、と呟いて震える指先を宙に泳がせただけなのに。意図するところがすんなりとわかったナツメは導かれるようにユキの手を引いて近付いていく。
「ほら、やっぱり」
呆然と見入るユキの前、ふふ、とこぼした母が満足げに続ける。
「澄んだ優しい色の目をしているわ。ナツメ、活発なあなたが好きになりそうな人ね。きっと落ち着くのでしょう? 何度でも帰りたくなるくらい」
優しい声色をじっくりと噛み締めて。うん、と頷きながら返す声がわずかに震えてしまう。
私の両の漆黒の揺らぎに気付いたのだろうか。微笑む母のそれは同じ色でありながら随分と柔らかい色調に見える。その血管の浮かび上がった白い手で、私とユキの手を寄せて、重ね合わせ。
「カナタくんも。よかったわね、やっと逢えたのね」
「あぁ、母上……!」
まるで童心に還ることを許されたみたいで、おのずと顔中がくしゃっと崩れた。
――あの……
「お母様」
異なる音色が奏でられたのはおそらく数分が経った頃だ。
見上げてみるとためらいがちに口を結んだユキ。そんなことをしたって、もう君だとわかっているというのに。
しかし切り出された言葉で私は容易に納得へ至る。確かにそうなるだろう。
「僕は……凄く特殊な状態でここに居ます。この世の誰よりもナツメさんのことを愛しているけれど、いつどうなるかわかりません。守りたいけれど……いつまで、できるか」
無理もないことだと。
「そう、貴方もなのね」
さすがにこれはと覚悟したものの、結果は予想の範疇を超えていた。穏やかな笑みの母の顔に悲しみの色が全く見えなかった訳ではない。わずかばかり滲んではいた。それでも。
「ナツメは愛を知っている子よ。だけど孤独も知り過ぎてしまったの。だから、ね、ユキさん。この子にいっぱい与えてあげて?」
「お母、様」
「時を超える愛があることを。長さじゃないことを貴方が証明してあげればいいと思うわ」
言葉に詰まっていた君の肩がやがて小刻みに震え出す。
きっと今、君の瞳は、私に尊い魔法を伝授してくれたこの母にも劣らぬくらい優しい色をしているのだろうと思うと、私は更に恐れ慄いてしまいそうだ。
優しさは時に……痛いのだ。
「ユキ、今日はありがとう」
帰路を辿る頃、天つ彼方は夕暮れ時。
断片的な私の語りかけに、うん、と答えてはくれるものの、高い彼の肩幅がやけに小さく見える。もとより草食動物を思わせるくらいの撫で肩ではあるのだが。
「父が病死して以来、母には苦労をかけてしまったからな。少しは励みになるといい、な」
「…………」
「…………」
――ユキ……ッ!!
それ程の距離ではないにも関わらず、一目散に駈け出すみたいにナツメは大きく身を乗り出す。
とっさに背中からしがみ付いたのは、ただでさえ危ういユキの輪郭が今までで最も薄まったからだ。
「のう、ユキ」
木々を騒めかせる疾風がやけに冷たく感じて更に身を寄せる。紅の空の下。
何故か今、聞かなければならない気がした。おのずと口を開くまでのそれは実に不思議な流れであった。
「ユキは何故死んだんじゃ?」
君の鼓動は高鳴りでもしたのだろうか。どんなに重なり合ってみても、背中だけではわからない。
「こちらの世界に渡った幽体は、現在の肉体に相当する年齢となって現われるそうじゃ。ならば三十二歳のはずなのに……君は若いままじゃけぇ、もしや私のすぐ後、だったのでは」
「結核だよ」
「ユキ?」
「君にうつさなくて良かった。あのときは確かに肺炎だったんだけど、半年後、くらいかな。本格的にかかってしまってね」
「そう、じゃったか」
ヒナ兄のときもだったが、自分の亡き後くらいは平穏にと願っていただけに、残された者の生涯が短かったという現実はなかなか胸を抉るものだ。
しかし落ち込むのはまだ早かったかと、私はすぐに知ることになる。
「僕もね、思い出していってるんだよ。ほら、またすぐそこまで」
背中から響く声色は優しいのに、穏やかなのに、何か形を変えていく気配にナツメは強張る。
「僕は特殊な転生をしてるんでしょう? 覚えているよ。本来、物質世界での生涯を終えたらこちらの世界に生まれ変わるって、言ってたよね」
「あ、ああ。実に不可解だな。だが心配するな。それについては我々が一丸となって」
解明……
「秋瀬。僕から離れて」
「え……」
背中越しに貫かれる感覚にナツメは目を見開く。今、なんと。理解が追いつかない、消化はおろか飲み下すことさえ。
ゆっくりと振り向いた、瞬きも無く血走った君の笑みと。
“強行手段”
何処ぞで聞いたような気がする響きがあまりに哀しく、背筋が凍る。
「思い出したんだ。やっぱり君は、僕に関わってはいけない」
「ユキ、何を言っ」
「君を穢してしまうんだ……!!」
ユキ……
ユキ。
知識などいくら詰め込んだって、理解できぬことがあるのだよ。この恐れが先を遮ってしまうんだ。




