3. 流星
月を跨ぐまでにはいくらもかからなかった。今となっては重苦しく感じる肉体を纏って物質世界を訪れた、そして君の生まれ変わりである貴方に出逢った。悪戯に翻弄させる春一番から早いものでもう八月。
ここは肉体の存在し得ない幽体世界。夕暮れ時、小さな幽体の私たち二人を囲む紅の芒が揺れている。
「早いですね」
気の利いた捻りの一つもないお決まりの台詞を呟くと、静かに確かに、頷く気配を隣に感じる。私はそのときそのときで思ったように口にするのだ。貴方に逢いたいときは……
「冬樹さん」
こちらで。
「八月ってね、僕にとっては真夏じゃないんだ。この秋蜩の声も芒のざわめきも。今に日も短くなるでしょう? 秋だなぁって思うよ」
微笑みながらも憂いを帯びていく。緩やかに形を変えていく、君に逢いたいときは……
「僕のとっての真夏は七月。六月が梅雨だから凄く短いの。気が付けばもう終わってる。気が付けば、もう、遠くに行ってるんだよ……夏は」
「ユキ」
やはりこちらだ。
カナタならきっと気付かなかったであろうな。そうじゃな、なんて、呑気に相槌を打ったりして。これでも適当に流したことなんてないのだがな、特に君の口にするものならば。
そっと手を取ったところへ遮るみたいに自身の漆黒の毛束が流れ込む。退けようとするより先に君の冷感の指先がゆっくりと梳いていく。長くなったね、なんて呟きながら哀しげな視線を落としている君に本当は言ってやりたい。
もう何処にも行かない。
君と永遠に……
「ユキ、幽体にも死があると言ったのを覚えているか?」
「うん」
「冬樹さんは予断を許さない状態だ。気を確かに持ってほしい。この世界には戦争もあるから、ある程度慣れたからと言って一人で出歩くようなことは絶対にしないでくれ」
「…………」
本当は言いたい何かを閉じ込めるみたいに唇を固く結ぶ君に胸が痛む。己のものもまた閉じ込めようと瞼を伏せたナツメは。
「この世界で君に何かあったら大変だ。もし、そんなことがあったら」
冬樹さんは……
握る手に力を込めて念を押そうとしていた。
「ナツメさーん、ユキさーん! サンプルの採取終わりましたーっ!」
遠く位置から呼びかける部下の声を耳にして、初めて続きを口に出来ていないことを知った。
柔らかい笑顔に戻るなり大きく手を振ってみせるユキはさすがとでも言おうか。なんだか強かになったと感じたあの頃の彼を実感したナツメは、離した自身の手を今度は疼く胸元に寄せて思い返すのだ。
――僕に提案……いえ、お願いが――
引き止める声にブランチ、ヤナギ、そして私が揃って振り返る頃、床の上のユキはすでに確かな眼差しをものにしていた。形そのものは下がり気味で頼りなげであるにも関わらず。
続いた言葉が彼の確たる想いを知らしめた。
「ここは生態系研究を取り扱う研究所、でいいんですよね? ここに居る間だけでも構いません。僕に何か出来ることはないでしょうか」
「え……」
あんぐりとした口から間の抜けた声を漏らしたのはブランチだ。横目で伺うと見下ろす琥珀の瞳が鋭く変わりゆく過程を見た。
“どういうつもりだ?”
とでも問いたいのだろう。
私だってもうさすがに察している。口を噤んだまま視線と視線でぶつかり合う、この二人は相性が悪い。ブランチが私に恋愛感情を抱いているとは到底考え難いのになんとも不思議な話なのだが、互いに信頼し合っていない、それだけは確かに感じるのだ。
緊迫した空気に嫌な汗が滲んでしまう。しかしだ。
「僕は春日雪之丞。まだ学生の立場ではあったけれど、実家では東洋医学、大学院では西洋医学を学びました」
「ああそうか。それで。なんじゃ」
「そして磐座冬樹でもある。国立大学で生物学部准教授をしています」
「…………」
「おわかり頂けましたか? ブランチさん」
ユキは負けなかった。おのずと目を見張った。彼の言わんとすることを察するなり、まるで煌びやかな夏の欠片がこの漆黒の中央へ集まっていったような感覚だ。
「お世話になっているんだ。居候だけなんて嫌なんです。何かさせて下さい。きっと役に立ってみせますから」
「おめぇ……」
「ナツメと共に在るこの世界も、あなた方も、僕にとっては大切な存在だ! それではいけませんか?」
――ユキ。
「ああ、ユキ……ッ!!」
私からしたらもう十分であった。あ、という太く短い声をすり抜けると逸る気持ちのまま君の元へ駆け寄って。
「ありがとう。ほんまに……ありがとう、ユキ。君はやはり立派じゃよ」
何度も何度も。季節外れの静電気を纏った君の柔らかな髪を撫でたのだ。
もとより人当たりの良いユキは、初めこそ戸惑っていた皆の中にもわりかしすんなりと馴染んでいったように思える。もちろん所長であるベクルックス氏の了承も得た上でだ。
今では私と同じ生物研究班にてサンプルの採取、データ解析、通達などの職務に明け暮れる日々。必要に応じて獣医班や医務室の補助にも駆り出される彼は、こちらまで誇らしくなってしまうくらい頼りにされている。ついにはこのまま居てくれたらいいのに……なんて、囁きまで聞こえてきたくらい。
むしろ不利な立場となったのは……
「も~、ブランチさん元気出して下さいよ。そんな難しい顔して」
「ナツメさんを取られて悔しいのはわかりますけど」
もうすっかり知れ渡ってしまった。そして反論する気もとうに失せたかのよう。誤解ゆえに哀れみの対象となってしまったこちらの方だ。面目ない。
昼休憩の度に研究室を訪れていたヤナギも今となっては大人しいもの。多くを語らない桜色の小さな唇を噤んで、時折案ずるように見上げるくらい。胸が軋みを立てるくらい、彼女なりに精一杯な気遣いをひしひしと感じるのだ。
「このままじゃいけないって思う」
「うむ。だからこそ早急に突き止めなくてはな。君が元の肉体に戻る方法……星幽神殿にも賜りの申請を出しているが、探り当てるのはあくまで我々だ」
ここまで状況を引っ掻き回し波乱を起こした私たち二人は、言うまでもない、多くの者に大いに世話になっている。ゆえに後悔は口にしないのが暗黙の了解となりつつあって。
それでも。
「それでも……僕は」
――――!
「ユキ」
呼びかける方へ向かおうと踵を返したところへ届く。もしや続くのかも知れない“何か”の気配を背中に感じたナツメはすぐさま振り返る。
目に飛び込んだあまりに幻想的な姿に息を飲む。完全にこちらへ移りきってはいない春日雪之丞の幽体は、波長の強さ、あるいはあちらに残された肉体の微妙な変化で濃さを変えると知った。
今は……沈みかけの夕日を透かす半透明。今にも消えてしまいそうなくらい儚げな。肉体が回復に向かっているのか? 戻れるときが近いのか? それに越したことはない、と、思っている、はずなのに。
「君は今、磐座冬樹なのだよ。自分でも言っていたではないか」
「…………」
「冬樹さん」
静かなのに。音も無いのに、炎が灯っていくかのよう。
柔らかな茶から紅へ、そしてついには鎮まりの藍の色へ。変わりゆく垂れ下がりの瞳へ、君へ、私は弱々しくかぶりを振った。
今まさに感じている怖れは君の中に吸血鬼を感じたあのときによく似ている。何故我々はこうも繰り返すのか。
「君と一緒に居たいよ」
「ユキ!」
「考えてもみて、ナツメ。あの肉体は瀕死の重傷なんだよ。おそらくは脳の一部が機能しない程の重大な損傷を負ってる。元に戻れると思う? 君の居ない世界で、君に触れることも守ることも叶わないまま……一人きり」
「…………っ」
「僕はそんなの望まない。わかるんだ、磐座冬樹も同意してるって」
胸が苦しくて、苦しくて。たまらず襟元を握るナツメは声にもならない微弱な呻きを漏らすだけ。
本当はこう言うつもりだった。
冬樹さんは他でもないナツメが愛した人。
愛する貴方を見捨てないでくれ。
「…………」
言うつもりだったのに。実際はいくら口を開けてみても声帯を震わしてみても紡げやしない。実にもどかしい沈黙をついに君は破ってしまうのだ。
――僕はここを選ぶよ。君の傍に居ることを。
「……磐座冬樹の人生を捨てたとしても」
もうすっかり藍に染まってしまった短い真夏の夜空の下で、ほんのわずかの光を拾ってキラキラと輝いている。君を囲む芒の穂の彼方に、一つの終わりを示す一瞬ばかりの流星を見た。




