九. 相思相愛
――……カナタ……――
――夏南汰……っ……――
頬に伝わる振動と跳ねる音は、水たまりの上で足踏みをして鳴らす幼き日の遊びを思い起こさせる。
ユキの失踪を受け、我を忘れたがゆえの迂闊だった。あんなとてつもない高さから滑落して、さすがにどうにかなってしまったのだろうか。滴る雫と化していく。己もまた地に染み込んでいくかのよう。
もうぐったりとして、動けない。こんな状況だからこそ私はまた夢見るのだろうか。天へ願いを込めるのだろうか。
幻想だっていい。君に抱かれる私のまま、逝かせてくれ、と。
私の我儘に付き合わせてしまった生き残りの船員たちを放った後、海神の救いの手はもう一度だけ我々に差し伸べられたのだ。
「これ、は……!」
荒波に揺られる振動で滑り落ちてきたそれを命さんが素早く受け止めた。一つだけ。そう、正確には、あと一人だけに向けられた希望の一欠片だった。
「夏南汰!!」
まさかと思った直感が見事に的を得た。ほんの少しまともな角度に向き直った船上を這う命さんは、迷うことなくそれを、私に、突き出して。
「早く着ろ。まだ間に合うかも知れない」
「で、も……」
「お前が選ばれたんだよ! お前は……っ、本来生き延びなきゃならねぇんだ!」
虚ろな私の視界にただ一つ残った救いの手、命さんが推し進める一つっきりの救命胴衣が映った。一か八かとは言え、このまま留まるよりかは望みがある。確かに……そうなのだが。
「春日と夏呼が待ってんだろうがッ!! どちらがどちらだっていい。お前は二人を愛してんだろう!」
――――っ!
ユキ……
夏呼。
迷いを見透かし断ち切らんとする命さんの叫びは、遠く離れた愛しい者の姿をありありと思い起こさせる。
やがて這いずって進み出した夏南汰は一抹の希望へ恐る恐る指先を伸ばした。潤んでどうしようもない瞳に満ちた想いは、二人に逢いたい、それに他ならなかった。
(……待て)
触れるか触れないかという瞬間、砕けて頬を打つ飛沫が微睡みそうな意識を覚まして、響かせる。
――お前が選ばれたんだよ――
(何を。この人は、何を言っているのだ)
静止した指先から伝わった冷感はぞくりと音を立て、瞬く間に背筋を駆け上がっていく。
荒れ狂う波が、振動が、胸の奥までをも激しく揺さぶる。これ程の試練を与えておきながら再び手を差し伸べた海神の思惑はわからない。しかし、己ならどうか、と自身に問いかけてみたのだ。
――ハニィを愛する俺の為だ――
そう、もし私が海神ならば、一人を選んだと言うのなら、その定めた者の手の中へ確実に受け渡すのではあるまいか。
――誰だって己が可愛い己か、誰かを愛する己の為に動くもんじゃねぇのか?――
そして今まさに、頼もしげな海の男の笑みを保っているこの人の中にも在る。切なる願い。未来への希望。
“逢いたい”
愛する者への想い。
――迅さん。
見出した夏南汰の決意はついに一つの形を為した。じっと見つめ上げた先に居る人の困惑がやっと消えたところで口を開いた。
強く握った拳に震えを閉じ込めた。こうなったが最後、もう止まれはしない。
「命さんを押さえて」
大きく目を見張り、はっと息を飲んだ命さんは、何か口にするよりも先に背後から動きを封じられてしまう。夏南汰もまたそれに劣らぬ勢いで動き出す。
ひったくった救命胴衣は迷うことなく囚われの彼に着せた。
「どういうつもりだ! 迅さん、かな……」
…………っ!!
有無など言わまいと海へと放った。
「選ばれたのはあなただよ、命さん」
こんな簡単なことはない。これこそが今の私の望み。明確に示された海神の慈悲に他ならないのだろう。
「こんなの駄目だ! 夏南汰……っ、夏南汰ぁ……ッ!!」
落とされた遠い水面で、もはや豆粒のようになった命さんが何度も何度も、悲鳴に乗せて私を呼ぶのだが。
「良かったのですか、坊ちゃん」
「もちろんじゃ」
数多の海を乗り越えてきた迅さんの逞しい胸に埋まりながら思ったのだ。後悔など、無意味だと。
切なる悲鳴も、もう届かない。
垂直に傾いで飲み込まれていく。
帆の柱を背に何とか留まっている迅さんの上で、私は。
「おっ、と」
強風にはだけた着物の裾からあわや奪われそうになった一つを寸前で受け止めた。なんとか手に治ったそれを見下ろすと、君と過ごした日々が鮮やかに駆け巡る。
「勿忘草の栞、ですね」
「ああ。迅さんの言った通り、押し花にしておいて良かった」
そう、これは是非とも連れていきたい。最期の瞬間までこの胸に抱いておきたい大切なものだ。
“私を忘れないで”
……か。
忘れる訳がなかろう、と。薄く微笑みをこぼしていた私へ、やがて届いたのだ。
――きっと違います。
「え?」
柔らかく目尻を垂らした迅さんが教えてくれた。中央へ集まり形を為していく記憶の欠片たち。四方八方へ、そして私へ、乱反射するその眩さに戦慄いた。
――僕は秋瀬が好きだから――
あれも……
そういう……こと、だった、のか。
「ユキ……ッ!!」
もう泣かないつもりだったのに、どうしようもなく溢れる“今更”が涙腺を容赦なく突き刺す。私は何故かここで一つの出来事を思い出した。
夏呼と引き離そうとするユキに私は初めて嫌い、と言った。恋人でも夫婦でもないのだから、という彼の主張が理解できなくて、私を置いて大人になっていく彼が遠く感じて、怖くって。
それでも何処にも行かぬと言ってくれた。
好きと言って抱き締めてくれた。あの長い両腕で、しっかりと。
ユキの大きな手は確かに私の眼下にあった。なのに、確かにこの頭へ、触れたのだ。
そんなのが為せるのなんてただ一ヶ所しかないではないか。何故友情などと解釈したのだろう。どれだけ鈍かったのだ、私は。
あのときからユキは私を想ってくれていた。
いいや、違う……?
――可愛いよ、秋瀬は――
もっとずっと前から
――何処にも行かない――
私ばかりを見てくれて
――嫌いになれたらどんなに楽か……!――
私の為に心を痛めて
「ユキ……ユキ……ッ、すまん、のう」
私は今まで何度彼の想いを踏みにじってきたんだろう。今ではどれもこれもが愛の囁きに聴こえる。
いつも何処か解釈がずれてしまっている私だけど、やっと、やっと、わかってきたよ。きっと、きっと、私が女のようだからとかそんな理由ではなかったんだ。男に目覚めた? 違う。そういう意味じゃなかったんだ。
そして私は薄々気付いていた。認めるのが怖くて知らないふりをしようとしたんだ。自分を誤魔化して。
今、より強く実感しているのは、君の気持ち以上に実は自分の気持ちなんだろう。
気付くのが遅くなってすまない。逃げてばかりですまんかったのう、ユキ。
どうやら私も、ずっと前から、君に惹かれていたらしい。
丸めた背中を震わせて、溢れる嗚咽と共に青い花を抱き締める。そんな私を更に上から包み込む迅さんは子守唄の如く語りかけたのだ。
「想って下さい、坊ちゃん。その人のことを」
こんな荒れ狂う状況にも関わらず、低い調べが心地良かったのを覚えている。長らくの眠りへ向かう私へ実に相応しいと言える、癒しの音色であったことを。
「呼んで下さい、その人の名を。海神は聴いて下さいますから。きっと海中に降りしきる雪が愛しき者の姿となって坊ちゃんを包んでくれることでしょう」
「うん……」
「もちろんこの柏原も。灯火消えるときまで傍におりますとも。独りではありませんよ、坊ちゃん」
「ありがとう」
沈みゆく船体、間近へ迫る唸りの上にて、私は君を想い続けようと心に誓う。
ユキ。いや……
「雪之丞」
何度でも、何度でも、呼び続けようと。
「君がまた私を受け入れてくれると言うのなら、そのときは……私かて、離しはしないよ」
凍て付く痺れもろとも包み込む海中の雪は微生物の死骸なのだといつか話に聞いた。
生と死を繰り返す。時に猛獣の如く牙を剥き奪っていく、海は確かに優しいものではないだろう。
それでもやがて君の姿を見せてくれた。
抱かれる私のままでいさせてくれた。
光の届かぬ底に落ちてまで、鮮やかに残り続けた。
君がくれた勿忘草。それは……
“真実の愛”




