八. 歳寒松柏
待っていろと言われたのに私は待たなかった。今に始まったことではない。ナツメへ転生したからと言ったって、今やこの身体を支配しているのは、かつてハマの破天荒と称された秋瀬夏南汰の波長に他ならない。
無鉄砲? 向こう見ず? もうなんとでも言ってくれ。これはそう簡単に変えられる気質ではない。
「ユキ……!」
つい先程辿り着いてしまった不穏な予感が更に後押しする。君に由々しき事態が起こっていると知りながら、じっと留まっているなど、苦痛以外の何ものでも、ない……!
濡れた草木で生い茂った下りの坂道を駆け抜ける最中で、片方の下駄を失った。いや、本来はナツメ愛用のバレエシューズなのか? もうどちらだっていい。
(ユキを探さなくては!!)
君に辿り着けるのなら、この手が届くのなら、なんだって……
「…………!」
不意に、足裏への反発が、消えた。
逆さになって初めて気付いた。宙を泳ぐ私の爪先、その向こうの夕闇色。
淀んだ雲間から覗いた星々を眺めて今更に知る。これは通り雨だったのだと。
気まぐれな嵐に翻弄された末に、海の深みへと奪われた。あの夜に似ていると。
予告も無しにつん裂く稲光りを目にした私は、ついに意識を失い、現在を失い。
そして再び目覚めるのだ。
――――っ!?
あの場所で。
夢現にも感じていた。先程からやけに揺れる、落ち着かぬ。そんな矢先に貫く轟音に叩き起こされた。
昭和六年五月末。
大西洋にて。
……た……
……なた……!
遠くから呼ぶ声に気付きつつも、ただでさえ起き抜けで平行感覚も定まらぬ私は、ひたすらにベッドの縁へしがみ付いて耐えるだけ。
何が起きているかもわからない。点灯と暗転とを繰り返す船内の一室で、聴覚、視覚を可能な限り凝らそうと努めるのだが。
「あ……っ」
ひときわ大きな揺らぎに驚愕の悲鳴を漏らすと、こちらへ近付きつつあった声も同じような短い響きを上げたようだ。
「夏南汰! 大丈夫か!?」
「命……さん……っ!」
あぁぁぁッ!!
やっとドアを開け放ったその姿に手を伸ばそうとしたとき、彼の方から向かってきた。いや、落ちてきたのだ。
壁に打ち付けられた夏南汰と命は手を取り合うなり慌てて振り返る。見開かれた二人分の双眼にしかと映った瞬間、それは……
「嘘……じゃろ」
窓の外で、人が、夜空を飛んでいる……?
それも五、六人程、一気にだ。
しかしそれも錯覚だったとやがて知ることになる。
「行くぞ、夏南汰! 船上へ……救命ボートに乗るんだ!!」
命さんに手をひったくられ、這うようにして進んだ。私たちを留める重力はもはや壁の方であったのだ。
どうやって辿り着いたかなどろくに覚えてもいないが、息を切らしながらもようやっと豪雨の降りしきる船上へ出ることが出来た。
「迅さん! 夏南汰見つけたぞ!!」
あと僅かで垂直という角度まで傾いた船の全容をやっと目にした。迅さんもやっと帆の根元に縋り付いている状態だった。如何に逞しい身体と言えど、こんな状態ではひとたまりもない。無理もないことだ。
「夏南汰坊ちゃん……不測の事態です。嵐に方向感覚を失って岩壁に衝突。前方大破。船長は……流されてしまったのです。船員たちも数人程」
「な……ん……」
飛んでいたのでは、なかった、の、か。
あまりの絶望に訊き返しさえままならない私に、迅さんは普段のやんわりとした形とはまるで異なる強い眼差しで告げるのだ。
「救命胴衣はほぼ流されてしまいましたが、救命ボートならあと一台残っております。残る船員たちと共に、坊ちゃんは!」
呆然と立ち尽くす。いや、実際は手すりにしがみ付いているのだが。
口も半開きのまま見上げていた夏南汰の両の漆黒がいよいよ縮まっていく。
「迅さんは……? 命さんも……もちろん共に乗るのであろう?」
そうだと言ってくれ。切なる思いで二人を交互に見ていた、その動作さえ、砕け散る飛沫と共に形を崩してしまう。
「……船員たちと、あと一人。小柄な坊ちゃんでなければ、無理です」
そんな、そんなこと。
あってなるものか。
「計画したのは私じゃ。私には責任がある」
「夏南汰ッ!!」
咎める命さんの声の方を強く睨んで。
「私も男じゃけぇ、腹を括る覚悟くらい……っ、持ち合わせとる!!」
「坊……ちゃん」
唇を噛み締める迅さんへも同じようにした。それから。
「二人を置いていくなど、できんよ」
この状況には決して相応しくない。ここぞとばかり、ハマの破天荒に恥じぬ笑みを見せつけてやったつもりだ。
迅さん、何を……っ!
迅さん!!
やがて抗う船員たちの声を断ち切るよう、懐ろからナイフを取り出した迅さんが告げたのだ。
「ゆずり葉の名と共に歩みしこの生涯。未来へ進みゆく後世を見届けられるのならば……」
高らかに。
「この柏原っ、悔いなどございませんとも!!」
切り離された綱が揺れて、なびいて、遠のく。
救いの決断に悲鳴を上げる彼らの声がどんなに哀しくとも、切なくとも、目を伏せるつもりなど無い。
『生きろぉぉぉ!!!』
腹を括った海の男三人で、希望の小舟を海神に託したのだ。




