四. 痛定思痛
わかったとかわかってるとか、十二からの付き合いである私たちはもう何度繰り返したのだろう。
――わかってきたよ。君と夏呼さんは……――
――わかっとるけんのう!――
何度となく繰り返したはずだ。
なのにこの状況は一体なんだろうか。数や年月の問題ではないということか、などと乾いた自問の鑢で己の奥深くを擦り減らし続けている私は。
「わかってなかった、のか? これでも、まだ……?」
胸元に散っている花弁。中でも一際大きく残る赤みをさすって癒そうとするも、どうしようもなく目頭が熱くなる。男らしからぬ華奢で滑らかな質感のここへ歯を立てた彼は
『吸血鬼』
まるでそれみたいだった。だって聞いた通りなのだ。あの異国の青年が言っていた。青白くて、冷たくて、陽に弱い。きっと夏などはたまらんのだろうな。気が狂うくらい。
「私は何を間違えてしまったんじゃ……のう、ユキ」
思い出すだけで声が情けなく裏返り、ぽと、と落ちた涙の雫が傷痕に染み渡っていく。
客人を招いたあの日は和やかに一日を終えたのだ。皆が帰った後もそう。芯は潜めたまま、思わせぶりに伝えた自慢の“面白い話”にもユキは終始目を細めて頷いてくれていた。
しかし、その翌日に事態は変わった。
覚えのある言葉を背に受けたのは木枯らしが窓枠を揺らす、哀しい軋みが響く夕方。
――秋瀬……やっぱり駄目だよ。行っちゃ駄目だ――
一度は納得していたように思えたユキ。ゆえにとりとめもない話を語らいに来たのだと最初は思っていた。
思いがけない彼の切り出しに、窓際の夏南汰は目を見開き振り向いた。
「何故だ?」
問いかけるとすぐに返ってきた。危険すぎる、という返答を受け、ある記憶が引っ張り出されるまでさほど時間も要さず。
「そうか、君は船の失踪のことを言っていたのか」
「船だけじゃない」
「航空機もだろう? あの海域では数多くの機体が消息を絶っている。それくらいわかってるさ」
「だったら……!」
一歩踏み出した拍子にユキは何度かむせ返った。ゆらりと傾く細長い身体へおのずと駆け出して触れた。
「おいおい、風邪でも引いたのか? ユキ」
痛々しげな咳を続ける涙目の彼に少し苦笑してしまったくらい、このときの私は呑気なものだった。
「だからこそのあの人選だ。ユキは本当に心配性だな」
「だったら、僕も……っ」
「ふふ、まさか一緒に来たいと? いけんよ。季節の変わり目の度に体調崩しとる君にそんな無茶は」
「無茶は君だろう!? 秋瀬!」
高みから見下ろすユキの目の形はまたあの見慣れない形を成す。恐ろしくなって思わず手を引いた。
今度は容赦しないとばかりに詰め寄られた夏南汰はついに窓枠に背をついてしまう。
「ユ、ユキ……何故、そこまで」
「君を行かせたくないんだよ。なんだか嫌な予感がするんだ」
鬼の形の双眼に柔らかい潤いを見てしまった。きっと心配しているのは本当、今にも泣き出しそうなのも本当だ。私はとにかくユキをなだめなければと思った。
こんな緊迫した状況でなければ、もっと慎重に言葉を選べたのだろうが……
「危険が伴うことは夏呼だって知っとる。それでも彼女は見送ると言ってくれたぞ?」
多分私は、ここで口を滑らせた。何がいけなかったのかわからないが、ユキが豹変したのはこの後だったんだ。
「また……夏呼さん?」
「ユキ?」
「わかってないね! 君は、本当にわかってないよ。彼女のことも、僕のことも……!」
――――!
突如両肩を掴まれた夏南汰は細い悲鳴の後、やっと上げることのできた顔を一瞬で強張らせる。見下ろすユキの表情が、想像していた形とはまるで違っていた為だ。
聞いたこともない早口で、ユキは激しくまくし立てる。
「わかってるわかってるって言って、結局君はわかってないから。ねぇ、秋瀬……どうして……!」
「ユキ、やめ」
「わからないんなら教えてあげるよ」
上目で見上げても、懇願しても、震えたってもう届かない。いつか一晩中温めてくれた優しい両手がこの胸ぐらを掴み上げ、爪で裂くように着物の襟を左右に割る。
胸元まで露わになった私の身体を見下ろしたユキの……ユキの目が、大きく見開かれみるみるうちに血走った。
「まっ、て」
意味も理解出来ないまま本能が告げる。危険だと。全て壊される、奪われるぞと。
もう元には戻れなくなるぞと。
だけど、逃げるにはもう遅すぎた。
「やっ……いやぁーーーーッ!!」
鎖骨の下あたりに強く噛み付かれると、激痛が走り涙が込み上げた。身体の奥から湧き上がった灼熱に私の全てが飲み込まれていく。
「やだ、あぁ……ッ!」
――可愛いよ、秋瀬は――
――僕は秋瀬が好きだから――
――僕に出来ることならなんでも言って――
どういう訳か、こんなときにユキの優しい囁きが幾つも聞こえた。
だけど今まさに壊れつつあると感じた。温かい思い出が更に遠く、触れられないものになっていくのがわかった。
獣と化したかつての優しい親友に貪られながら。
「痛い、痛い!」
「秋瀬が言うこと聞かないからだよ。悪い子だね!」
「ゆる、して……! は……ぁ、ユキ……ううっ」
なんだこれは、なんなんだと、自分で自分の声色に驚いたくらいだ。何ヶ所も吸い付き噛み付かれた肌は身悶えする程に痺れてたまらないはずなのに、溢れ出る息は何故こうも甘さを帯びるのか。
いつか異国の森林で見た小さな吸血鬼みたいにぬるぬると這いずるユキの舌は、首筋を舐め上げ漆黒の髪を割って耳にまで。硬い感触に挟まれるとまた悲鳴が喉から突き上げる。
怖くて怖くてたまらない。それなのに、仰け反る身体に反して両腕だけが求めるみたいに彼の首に縋ってしまう。
「いっそ壊してしまいたい」
いつの間にか髪留めが解けていた。冷感の手は耳を覆う漆黒の毛束さえ邪魔だとばかりに、聞けとばかりに、ぐしゃぐしゃに掻き乱して、叫ぶ。
「嫌いになれたらどんなに楽か……!」
「嫌じゃ、ユキぃ! こんなの、嫌じゃあ!!」
どれくらい経ったのかはわからない。いつからだったのかも。
静まり返った空間。
迫り来る夕闇、その中で
夏南汰はただ呆然と佇んでいた。
乱れた着衣は帯だけでなんとか留まっていた。
下は、無事だったけど、華奢な胸から首筋にかけては小さな内出血が幾つも残っている。
ずっ……
啜り上げる情けない音の出処が己だと気付いたのは、霙みたいに重く降りる大粒の滴りを幾つか頰に受けたときだ。
「あき、せ……なんで、そんな、泣いて……」
「ユキ……」
歯型をなぞる指先の優しい動きを見たときだ。
ユキは心底驚いたように目を見開いていた。泣いている私を心配する彼の顔もまたぐっしょりと濡れていた。
「……僕、が? こんな……こんな、こと」
――――っ。
「待ってくれ、ユキ!」
顔面をみるみる蒼白させるなり立ち退こうとする彼を、私は裏返る涙声と非力な腕で引き止めた。
それでも敵いはしない。ごめん、ごめん、と繰り返して足掻く彼には、何もかもが私より大きな彼には。
「離して秋瀬。お願い、もう僕に近付かないで!」
「ユキ!!」
無情にもすり抜けてしまう。変わらず小さな私は、本当に、非力だったのだ。
そうして一週間ほど経った現在に至る訳なのだが……
(さすがに元通りとはいかない、か)
呼び鈴の鳴らない日々を重ねるに連れて遅すぎる実感が沸いてくる。
(このまま元に戻れないなんて、やっぱり嫌だ!)
腫れの引かない胸の傷を襟で覆った夏南汰は深く息を吐いた後、意を決して身を翻す。
下駄を鳴らして駆け抜ける道中、それなりの覚悟はしていたつもりだった。こちらがどんなに望んでも、もう彼は受け入れてくれないかも知れない。だけど何もせずに過ごすなんてもう限界だった。
そうして辿り着いたユキの下宿先の集合住宅の前。夕闇迫る秋空の下で行ったり来たりをしていたのだが。
「春日の友達?」
何処ぞから現れた同年代と思しき男の問いかけに遅れながらも頷いた。ユキ……いや、雪之丞はまだ帰らないのかと、こちらも問いを返そうとしたときだ。
「今は実家だよ」
まるで見透かしたみたいに男が告げる。更に続ける。何やら神妙な面持ちで。
「行かない方がいい。もとより、追い返されるだろうけど」
「何故、ですか?」
不穏な予感がいつまでも続くなんて御免だ。次第に深さを増す男の眉間に向けて、早く終われ、聞かせてくれ、と願い続けた。その思いに変わりはなかったけれど。
「あいつは多分……結核だ」
蚊の鳴く程度の声さえ発することが出来ず、身体だけが小さく揺れた。その拍子、まるで計ったみたいに懐からこぼれ落ちた欠片が足元へ。
りん、と鳴る。ユキとお揃いの鈴。
私と君の“約束”までもがこんな哀しい音色で鳴くなんて、あんまりではないか。




