EP57:勝者の値札、敗者は怪物へ手を伸ばす [LOG_AMATERAS]
模擬戦が終わったと思ったら、今度は外交戦です。
そして海には、どうやら自分だけ知らされていなかったことがあるようで……。
戦場では動かなかった男が、別の意味で追い詰められます。
《再照会を開始します》
中央魔導書庫から届く声が、海の意識の奥で繰り返されていた。
公開研究区画ではない。
さらに深い。
幾重もの封印に閉ざされた層。
まるで、海が応じるまで呼び続けるつもりであるかのように。
海は閉じた天照へ身体を預けながら、王城の奥を見つめていた。
「海様」
フィリアの声に、意識を引き戻される。
右腕を支える彼女の指先には、まだ力がこもっていた。
「お顔の色が優れません。演算負荷が残っているのではございませんか」
「あ……はい。少しだけ」
「少し、で済ませないでくださいませ」
柔らかな声だった。
だが、逃げ道はなかった。
フィリアのアークレンズには、海の呼吸数と魔力消費量が表示されている。
歩行距離は0歩。
それでも、演算負荷は安全域を越えかけていた。
海が返事を探している間に、演習場を覆っていた拘束術式が順番に解除されていく。
ガルドの両腕を縛っていた風の輪がほどける。
ノルドを閉じ込めていた岩片と風の檻が崩れる。
リゼットの記録板へ魔力が戻る。
イングリットを包んでいた反転防護膜も、淡い金色の粒子となって消えていった。
演習場の端では、先に脱落していたヴォルクが両腕の籠手を確かめている。
五人とも負傷していない。
それでも、誰一人としてすぐには動かなかった。
視線は、ただ一人へ集まっている。
演習開始時から、一歩も動かなかった男。
閉じた傘を杖にし、宙へ浮かぶ黒い板を右手だけで操作していた、赤髪の異世界人。
海は居心地の悪さに耐えきれず、オメガフレームの位置を直した。
「ええっと……皆さん、お怪我はありませんか?」
ヴァルディア側の五人が、互いに顔を見合わせる。
敗者である自分たちを、勝者が気遣うとは思っていなかったのだろう。
ヴォルクが両腕を大きく回した。
籠手にはエドガーの剣による傷が何本も刻まれているが、その下の腕に異常はなさそうだった。
「傷はない」
「よかった」
海は素直に息を吐いた。
その安堵を、ルドベックは静かに観察していた。
勝敗が決した後も、彼の礼節は崩れていない。
しかし、先ほどまで浮かべていた穏やかな微笑みは消えていた。
彼の周囲には、演習を終えた五人が並んでいる。
ガルドは演習場に残された術式の跡を見ている。
ヴォルクはエドガー。
リゼットはエリアナと海。
イングリットは両国の負傷状況。
ノルドはカスミの足元を、それぞれ観察していた。
五人が見たものは違う。
だが、そのすべてがルドベックのもとへ集まろうとしている。
「見事な戦術でした」
ルドベックは、ゆっくりと拍手した。
乾いた音が、静まり返った演習場へ響く。
「我が国の五名も、各分野から選出した精鋭です。それを負傷者一人出さずに制圧なさるとは、正直なところ、予想を大きく超えておりました」
「いえ、僕は……」
海が答えようとした瞬間。
シャルロットが半歩前へ出た。
「今回は共同演習です。勝敗はつきましたが、双方に得るものがあったのであれば、技術交流としては成功でしょう」
海個人の功績には触れない。
しかし、否定もしない。
ルドベックは、シャルロットへ視線を移した。
「なるほど。アストリアでは、今の戦術を個人技術とは分類なさらないのですね」
問いの形をしている。
だが、答えだけを求めているのではない。
海の能力が、本人に属する技能なのか。
天照によるものなのか。
宙に浮かぶ黒い板が制御装置なのか。
フィリアとカスミが身につけた眼鏡が中継器なのか。
あるいは、アストリアが事前に構築した集団術式なのか。
シャルロットの反応から、その輪郭を割り出そうとしている。
「ヴァルディアでは、目にした技術を、その場で分類なさるのですか?」
シャルロットは微笑んだ。
「随分と結論を急がれるのですね」
「正しく評価することは、相手への礼儀だと考えております」
「評価と値踏みは、よく似た顔をしておりますものね」
二人の笑みが、正面から重なった。
言葉遣いは穏やかだった。
それなのに、周囲の温度だけが静かに下がっていく。
ルドベックがガルドを見る。
「隊長として、どのように見た?」
「我々の指揮系統は、途中から機能していませんでした」
ガルドは淡々と答えた。
「命令そのものを妨害されたわけではありません。こちらが次に守ろうとした場所を先回りされ、役割ごとに異なる対処を当てられた」
「陣形を読まれたと?」
「陣形だけではありません」
ガルドの視線が海へ向く。
「誰が何を守るために動くか。そこまで見られていました」
次に、リゼットが記録板を開いた。
術式線は回復しているが、演習中に記録された文字の一部が焼け落ちている。
「音無海が行ったのは、単純な出力強化ではありません」
「根拠は?」
「エリアナの魔力量に、大幅な上昇は確認できませんでした」
リゼットは、エリアナを見る。
「同じ魔力。同じ詠唱。同じ術者。それでも、雷が通った経路と結果だけが変化した」
イングリットも続く。
「アークライト殿とカスミの視界には、何らかの情報支援があった可能性があります。ただし、こちらから術式反応はほとんど確認できませんでした」
「つまり、あの眼鏡が中継器である可能性もあると」
「否定はできません」
ノルドは短く告げた。
「声より先に、動かれた」
ルドベックが目を向ける。
「誰が?」
「カスミ」
ノルドはカスミから視線を外さない。
「音無海の指示が届く前に、攻撃位置を知っていた」
「同じものを見ていた可能性があるということか」
ノルドは答えなかった。
否定しないことが、返答だった。
ヴォルクが籠手を鳴らした。
「俺は強くなった剣士と戦った」
「エドガー殿が?」
「ああ」
ヴォルクはエドガーを見る。
「最初の剣と、最後の剣は別物だった。腕が急に上がったわけじゃない。踏み込みも、間合いも、力が返る場所も、全部用意されていた」
エドガーの表情が固くなる。
五人の観察結果が、一つずつ並べられていく。
天照。
オメガコード。
眼鏡。
複数属性の付与。
事前構築された連携術式。
海が行った即時調整。
どれも可能性はある。
だが、どれも決定打にはならない。
海はルドベックの質問を頭の中で分解した。
装備の確認。
術式分類。
個人能力と国家技術の切り分け。
五人が得た断片を並べ、反応の違いから真実へ近づこうとしている。
ルドベックは、演習場に残る光と亀裂へ目を向けた。
「特に興味深かったのは、エリアナ殿の雷撃です」
突然名を呼ばれ、エリアナの肩が揺れた。
「わ、私でございますか」
「ええ。失礼ながら、事前資料では初級魔道士と伺っておりました」
エリアナの表情が、僅かに曇る。
ルドベックは、その変化を見逃さない。
「もちろん、資料が誤っていた可能性もあります。あるいは、アストリア独自の教育体系が、短期間で彼女の能力を飛躍させたのでしょうか」
「違います」
エリアナは、反射的に答えていた。
海が彼女を見る。
シャルロットの翡翠色の瞳も、僅かに細くなった。
それでも、エリアナは言葉を止められなかった。
自分一人の功績ではない。
海の支援を隠し、自分だけの成果として扱われることが、裏切りのように感じられた。
「私の力だけでは、あの雷は届きませんでした。海様が、私の魔法を……」
そこまで言って、息を呑む。
ルドベックの視線が海へ移った。
「届かせた?」
エリアナは唇を閉じた。
遅かった。
言葉はもう、相手の手へ渡っている。
リゼットも、記録板を持つ手を止めていた。
海は、何と答えるべきか迷う。
嘘はつきたくない。
だが説明すれば、オメガコードと支援術式の情報を渡すことになる。
「エリアナの魔法が届いたのは、彼女自身が最後まで詠唱を止めなかったからです」
シャルロットが代わりに答えた。
「魔法とは、術者の意思を形にするもの。指導者が道を示したとしても、歩いた者の功績まで奪うべきではないでしょう」
「それでは、音無殿は指導者だったと?」
「あなたには、そう見えたのですか?」
また、答えが遠ざかる。
ルドベックは小さく笑った。
「これは失礼いたしました。どうやら私は、勝因を一人へ集めすぎていたようです」
その言葉に、エドガーが顔を上げる。
ルドベックは、今度は彼を見た。
「正面を突破したエドガー殿の剣も、見事なものでした」
「当然だ」
答えは早かった。
「我がシュタインベルク家の剣術は、アストリアの守護を担ってきた。あの程度の前衛を突破することなど、造作もない」
ヴォルクの眉が跳ねる。
「あの程度?」
「ヴォルク」
ガルドの一声で、ヴォルクは口を閉じた。
ただし、拳は固く握られている。
「確かに、最後の一撃は鮮やかでした」
ルドベックは頷いた。
「音無殿の補助がなくとも、同じ結果になったとお考えですか?」
エドガーの表情が固まった。
海の指示を無視し、罠へ落ちた。
石鎖に拘束され、三方向から術式を向けられた。
それを救ったのは、海の指示で動いたカスミ、フィリア、エリアナだった。
最後の一撃も、足元の硬化、背後の風、フィリアの防壁がなければ届かなかった。
だが、それを認めれば、自分の剣が海によって完成されたものだと認めることになる。
「……剣を振るったのは私だ」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「もちろんです」
ルドベックは、それ以上追及しなかった。
否定しないことで、かえって傷を深く残す。
海は、その構造に気づいた。
この人は答えを聞いているのではない。
同じ出来事を、違う人物へ投げている。
返ってきた言葉の差から、それぞれの役割と知識量を分けようとしている。
「ルドベック様」
海は静かに呼びかけた。
「先ほどから、僕たちが何を使ったのかではなく、誰がどこまで知っていたのかを確認されていますよね」
ルドベックの目が、僅かに見開かれた。
ほんの一瞬だった。
すぐに、外交官の笑みへ戻る。
「そのように聞こえましたか」
「はい」
海はオメガコードへ右手を置いたまま、彼を見る。
「同じ出来事を違う人に聞いて、説明のずれから役割を分けようとしている」
演習場に、新しい沈黙が落ちる。
シャルロットは海を見なかった。
ただ、その口元に、ごく小さな笑みが浮かんでいた。
リゼットは記録板へ、何かを書き込もうとして手を止める。
問いの裏側まで見抜かれた。
その事実の方が、模擬戦の勝敗より彼女を驚かせているようだった。
ルドベックはしばらく海を見つめた後、深く息を吐いた。
「恐れ入りました」
今度の言葉には、先ほどまでとは異なる響きがあった。
「魔導技術だけではなく、問いの構造まで解析なさるとは」
「職業病みたいなものです」
「では、回りくどい問いはやめましょう」
ルドベックは一歩、海へ近づいた。
フィリアの手に、僅かに力が入る。
イングリットは、その指先の動きを見ていた。
ノルドはカスミ。
ガルドはシャルロット。
リゼットは海の表情を、それぞれ観察している。
「音無海殿」
ルドベックの声から、探りが消えた。
「我がヴァルディア王国へ、いらっしゃるお考えはございませんか」
演習場の空気が止まった。
「……え?」
海は、問いの意味を理解するまでに数秒を要した。
ルドベックは穏やかに続ける。
「亡命を求めているわけではございません。まずは期限付きの技術顧問として招聘したいと考えております」
「技術顧問……」
「専用の研究施設をご用意いたします。研究内容への政治的制限は最小限とし、必要な資材、人員、文献へのアクセスも保証しましょう」
海は言葉を失った。
冗談ではない。
模擬戦直後の社交辞令でもない。
国家が正式に、一人の異世界人へ値段をつけようとしている。
研究施設。
資材。
文献。
技術者。
この世界には、海がまだ知らない技術がある。
会ったことのない研究者がいる。
見たことのない魔導具がある。
ほんの僅か。
胸の奥が動いた。
その反応を、リゼットは見逃さなかった。
だが、何も言わない。
自分が海を理解できる人材であるとも。
ヴァルディアには技術の言葉を交わせる者がいるとも。
交渉材料になるような言葉は、一つも発しなかった。
「それだけではありません」
ルドベックは海の隣へ視線を動かす。
フィリア。
カスミ。
エリアナ。
そして、少し離れたエドガー。
「音無殿が同行を望まれる方についても、相応の地位と安全を保証いたします」
その瞬間。
「お断りいたします」
海より早く答えたのは、フィリアだった。
普段の柔らかな声ではない。
刃のように澄んだ拒絶だった。
ルドベックが静かに彼女を見る。
「フィリア」
海が小さく呼ぶ。
だが、彼女は引かなかった。
海を支えていた手を離し、ルドベックの正面へ立つ。
「海様は、国家が所有する魔導具ではございません」
「所有するつもりはございません。音無殿ご本人の意思を尊重した招聘です」
「でしたら、海様が大切になさる方々の地位や安全を、条件として並べる必要はないはずです」
フィリアの声は震えていない。
「海様は、ご自身より他者の安全を優先なさいます。そのことを理解したうえで、同行者の待遇を提示なさったのでしょう」
ルドベックは否定しない。
フィリアの瞳に、僅かな怒りが浮かぶ。
「海様が誰を大切になさり、誰を守ろうとなさるのか。それを交渉材料としてお使いになるのは、おやめくださいませ」
海を人間ではなく、技術資源として扱うことへの反発。
研究と聞けば、自分の身体さえ忘れて踏み込む海への心配。
そして。
海がアストリアを離れるかもしれないという、個人的な恐怖。
三つの感情が重なっていた。
ルドベックの目が、フィリアから海へ移る。
そして、再びフィリアへ戻った。
「なるほど」
その一言に、別の意味が混ざる。
「アストリア王国ではなく、アークライト殿がお引き留めになるのですね」
フィリアの頬に、僅かに赤みが差した。
自分の感情を、外交の材料として拾われた。
その事実に気づき、唇を結ぶ。
だが、視線は逸らさない。
赤面だけで、先ほどの拒絶まで取り消されるわけではなかった。
「他国の臣下の心まで調査なさるのが、ヴァルディア式の技術交流なのかしら」
シャルロットが、二人の間へ入った。
笑みは残っている。
だが、翡翠色の瞳は笑っていない。
「音無海は、アストリア王国の客人です。本人の意思を無視した拘束も、所有もしておりません」
「でしたら、我々の申し出を妨げる理由もないはずです」
「ええ」
シャルロットは海を見た。
「ですから、本人がお答えします」
拒否しろとも。
残れとも言わない。
決めるのは海だと、ルドベックへ示していた。
視線が集まる。
海は息を整えた。
ヴァルディアがどのような国なのか、まだ知らない。
研究施設。
資材。
自由な環境。
技術者として、心が全く動かなかったと言えば嘘になる。
この世界には、自分がまだ知らない技術がある。
だが。
中央魔導書庫は、今も海を呼んでいる。
天照には、分からないことが残っている。
フィリアとカスミのアークレンズも、完成したわけではない。
エリアナは、自分の魔法を信じ始めたばかりだ。
エドガーの剣にも、まだ届いていない場所がある。
何より。
海は、この国で研究設備だけを得たのではない。
自分が無理をすれば怒る者。
言葉が足りなくても、意図を拾ってくれる者。
怖がる自分を笑わず、前へ進むことを支えてくれた者。
一人では得られなかったものを、ここで受け取ってきた。
海は、自分を支えているフィリアを見る。
少し離れたところで腕を組むカスミ。
不安そうにこちらを見るエリアナ。
無言で立つシャルロット。
苛立ちを隠せずにいるエドガー。
「申し訳ありません」
海は、ルドベックへ頭を下げた。
「お断りします」
「理由を伺っても?」
「僕は、この国でまだやるべきことがあります」
海は顔を上げる。
「それに、研究施設より大事なものを、ここで見つけました」
フィリアの瞳が揺れた。
カスミは何も言わない。
エリアナは、少しだけ微笑んだ。
リゼットは海を見つめたまま、記録板へ何も書かなかった。
今の言葉は、技術資料へ残すものではない。
そう判断したようだった。
エドガーだけが、海から視線を逸らす。
安堵したのか。
失望したのか。
自分でも分からなかった。
海が他国へ行けば、目の前からいなくなる。
フィリアも、海から離れる。
そう考えた瞬間が、確かにあった。
だが同時に。
ヴァルディアが求めたのは、自分ではなかった。
剣を振るった自分でもない。
シュタインベルク家の後継者でもない。
一歩も動かず、戦場を変えた男だった。
エドガーの拳が、音もなく握られる。
アルフレッドは、その横顔を静かに見ていた。
声はかけない。
息子の中に生まれた安堵と嫉妬。
その亀裂が、さらに広がったことだけを確認している。
「残念です」
ルドベックは、落胆を表へ出さなかった。
「ですが、我が国の扉はいつでも開いております。音無殿のお考えが変わる日を、お待ちしております」
「変わりません」
フィリアが、再び即答した。
「フィリア」
「……失礼いたしました」
反省しているようには見えなかった。
ルドベックは小さく笑い、シャルロットへ一礼する。
「本日の共同演習、心より感謝申し上げます」
「こちらこそ。ヴァルディアの技術と外交、その両方を十分に学ばせていただきました」
最後まで、互いの笑顔は崩れなかった。
だが、握手は交わされなかった。
◆
視察団が王城内の迎賓区画へ戻った後。
演習場には、アストリア側の者だけが残っていた。
海は閉じた天照へ体重を預けたまま、遠ざかる一団の背を見送っている。
「疲れました……」
「模擬戦と外交、どっちが?」
カスミが尋ねた。
「両方です」
「外交は戦ってない」
「僕の中では、かなり戦っていました」
シャルロットが近づいてくる。
先ほどまでの外交官としての笑みは消えていた。
「海」
「はい」
「一つ、謝らなければならないことがあるわ」
その言葉に、海は身構えた。
シャルロットが右手を上げる。
親指と中指を重ねた。
ぱちん。
乾いた音が響く。
同時に。
海の右脚を包んでいた見えない何かが、細かな光となってほどけた。
「……え?」
海は反射的に右脚へ体重をかけた。
痛みがない。
膝も崩れない。
足首を曲げる。
脚を引く。
何の違和感もなかった。
「治ってる……?」
「正確には、以前から治っておりました」
フィリアが申し訳なさそうに答えた。
海は彼女を見る。
「以前から?」
「昨夜の治療で、骨格と周辺組織の修復は完了しておりました」
「では、今までの痛みは……」
「私が重ねていた歩行制限術式よ」
シャルロットが答えた。
海は、シャルロットと自分の脚を交互に見た。
「どうして……」
「あなたが万全の状態で視察団の前へ出れば、必ず余計なことをすると思ったから」
「余計なこと」
「走る。飛び出す。誰かを庇う。自分の身体を計算から外す」
一つずつ、否定できなかった。
「負傷中と思わせておけば、ヴァルディアはあなたを直接戦力として評価しにくい。少なくとも、そう考えていたわ」
シャルロットは演習場を見回す。
砕けた石畳。
空へ開いた雲の穴。
まだ解除作業の続く拘束術式。
「結果は、見てのとおりだけれど」
カスミが淡々と口を開く。
「言った」
シャルロットが額へ手を当てた。
「ええ。あなたは言っていたわね」
「脚が動かなくても、ミュートは頭で余計なことをする」
「余計なことでは……」
海が反論しかける。
カスミが見る。
「した」
「……結果的には」
海は右脚をもう一度動かした。
完全に治っている。
自分だけが、それを知らなかった。
フィリアも。
カスミも。
エリアナも。
エドガーも。
全員が知っていたらしい。
「つまり、知らなかったのは僕だけですか」
誰も、すぐには答えなかった。
シャルロットは僅かに視線を逸らし。
エリアナは口元を押さえる。
エドガーに至っては、なぜか天井を見ていた。
その不自然な沈黙が、何より雄弁な答えだった。
海はオメガフレームを押し上げた。
「ああ……はい。なるほど」
なるべく平静な声を作る。
ここで動揺してはいけない。
少なくとも、最初から何も知らなかった人間に見られるのだけは避けなければならない。
「もちろん、僕も途中から気づいていました」
カスミが即座に尋ねた。
「いつ」
「模擬戦が始まる少し前くらいに」
「天照を杖にしてた」
「演技です」
「ずっと脚を引きずってた」
「演技を徹底していました」
「終わった後も庇ってた」
「視察団が残っていましたから。情報管理の一環です」
海はそう言いながら、何でもないことを証明するように右脚へ体重を乗せた。
そのまま二歩、歩く。
念のため膝を曲げる。
足首も回してみる。
あまりにも滑らかに動いたことが嬉しくなり、もう一度だけ軽く踏み込んだ。
カスミが、その一連の動作を無言で見ていた。
海は静かに足を戻す。
「……状態確認です」
「初めて動かした顔してる」
「顔から、そこまで読み取れません」
「さっき『治ってる』って言った」
海の口が止まる。
「それは……」
カスミの目は、瞬きもしない。
逃げ道を探して、海は一度だけオメガフレームへ触れた。
「治っていること自体は想定していました。先ほど、それが確信へ変わったという意味です」
「いつから想定してた」
「模擬戦が始まる少し前です」
「最初の答えに戻った」
「説明に一貫性があるということです」
「同じ場所を回ってるだけ」
「解析では、仮説を繰り返し検証することも重要で……」
「知らなかった」
「可能性としては認識していました」
「知らなかった」
「正確には、確定情報として共有されていなかっただけで」
「知らなかった」
海は口を閉じた。
カスミは待っている。
シャルロットも。
フィリアも。
エリアナも待っていた。
エドガーまで天井から視線を戻し、海を見ている。
四方からの沈黙に包囲され、海はようやく肩を落とした。
「……はい。知りませんでした」
エリアナの肩が小さく揺れた。
笑いを堪えきれず、口元を両手で覆っている。
シャルロットも額へ指を添え、僅かに顔を背けた。
カスミだけが、勝ち誇ることもなく一言だけ告げた。
「知ってたふり、下手」
「途中までは、うまくいっていたと思います」
「最初から崩れてた」
「……そうですか」
そこで。
フィリアの表情から、笑みになりかけたものが消えた。
彼女は海の前へ進み、深く頭を下げる。
「申し訳ございません、海様」
「フィリアさん」
「海様のお身体を守るためとはいえ、ご本人へお伝えせず、治療の状況を偽ってしまいました」
フィリアの声が沈む。
「模擬戦への参加には、本当に反対でした。歩行が可能でも、演算負荷と精神負荷は別の問題でございます」
アークレンズ越しに見た数字を思い出すように、指先が僅かに震える。
「ですが、海様のご意思を後回しにしたことに変わりはございません」
シャルロットも、海を正面から見た。
「国を守るための判断だった。それでも、あなたの身体を、あなたへ黙って利用したことは認めるわ」
言い訳はしなかった。
海は二人を見る。
怒っていないわけではない。
自分の身体のことなのに、自分だけが知らなかった。
その事実は、胸の中へ小さな棘を残した。
守るため。
国のため。
危険を減らすため。
理由は分かる。
それでも、正しい理由があれば本人へ黙ってよいとは限らない。
「次からは」
海は、ゆっくりと言った。
「僕も計画に入れてください」
フィリアが顔を上げる。
「僕は、隠し事が上手くないかもしれません」
カスミが小さく頷いた。
「そこは認めます」
「ですが、自分の身体のことまで知らないのは……少し困ります」
「はい」
フィリアは強く頷いた。
「必ず、お伝えいたします」
シャルロットも小さく頭を下げる。
「約束するわ」
海は右脚を一度だけ踏みしめた。
今度は、自分の意思で。
「それと」
壊れた演習場を見回す。
「視察団には、結局どこまで知られたのでしょうか」
シャルロットがため息をついた。
「あなたが何をしたのかは、理解できていないでしょうね」
「では、隠せたのでは?」
「隠したかったのは、あなたが単独で国家級の戦力になり得ることよ」
カスミが続ける。
「見せたのは、動かなくても周りを国家級にすること」
海は黙った。
「前より悪い」
「……すみません」
「謝る場所、そこじゃない」
「先ほども言われた気がします」
視察団は、天照の正体を掴んでいない。
オメガコードも。
アークレンズも。
Deltaも。
だが、もっと厄介な答えだけを持ち帰った。
音無海一人が強いのではない。
音無海のそばにいる者が、強者へ変わる。
海を弱く見せるための策は。
海本人の前線能力を隠すことには成功した。
その代わり。
一歩も動かず、仲間全員を本来の限界より先へ運ぶ異常性を露呈させた。
勝者につけられた値札は。
一人分の戦力に対するものではなくなっていた。
その時だった。
遠くで、鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
王城の時鐘ではない。
短く。
激しく。
間隔を詰めて鳴らされる警戒鐘。
シャルロットの表情が変わる。
演習場の外から、兵士の叫び声が聞こえた。
「団長!」
駆け込んできた騎士の呼吸は荒れている。
「王都東区にて爆発! 市場周辺で複数の武装集団が市民を襲撃しております!」
「所属は」
「不明です! 全員が覆面で顔を隠し、装備にも紋章はありません!」
直後。
さらに遠く。
薄暮の空へ、黒い煙が立ち上った。
続いて、別の方角から光が弾ける。
一か所ではない。
海の意識の奥で、Deltaの警告が重なる。
《緊急事態を確認》
《王都内、複数地点で同時襲撃》
《魔導通信中継所との接続が途絶》
《西区避難路に障害物を確認》
《騎士団、交戦開始》
通信遮断。
複数地点への同時攻撃。
市民の多い区画。
避難路を塞ぐ配置。
偶然に集まった賊ではない。
王都の警備と通信。
人の流れ。
騎士団の初動まで知ったうえで組まれた作戦だった。
海は治った右脚で、まっすぐに立った。
シャルロットが即座に命じる。
「全員、指令室へ移動! 騎士団と魔導師団を各区画へ展開します!」
「僕も行きます」
海が言った。
シャルロットは振り返る。
「あなたは王城内で待機よ」
その一言が、胸の中に残った小さな棘へ触れる。
また、自分を守るための判断が、自分より先に下される。
けれど、今度は理由が分かる。
この襲撃が、誰を引きずり出すためのものなのか。
「ですが」
「この襲撃が、あなたを引きずり出すためのものかもしれない。分からないの?」
海は言葉を失う。
分かっている。
模擬戦を終えた直後。
視察団の前で、能力の一部を見せた直後。
複数地点へ、準備されていたような襲撃が始まった。
偶然と判断する方が不自然だった。
黒煙の向こうで、もう一度爆発が起きる。
《王都東区、騎士団第一陣と接敵》
《敵戦力を再評価》
僅かな処理遅延。
そして。
《警告》
《敵装備に複数地域の混成規格を確認》
《統一紋章なし》
《指揮信号のみ共通》
《偽装された傭兵団と推定》
《通常騎士団戦力による早期制圧は困難です》
シャルロットの表情がさらに険しくなる。
「フィリアは東区の救護班へ。負傷者の受け入れと治療術師の配置を指揮して」
「承知いたしました」
フィリアは答えながらも、海を振り返った。
「海様。どうか、こちらでお待ちくださいませ」
「……はい」
「無理をなさらないと、お約束ください」
海は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「約束します」
フィリアは海の表情を確かめる。
完全には信じていない。
それでも、遠くから新たな救護要請が届いた。
アークレンズへ、複数の負傷者情報が流れ込む。
フィリアの顔から迷いが消えた。
「必ず戻ります」
海の腕から手を離し、救護班との合流地点へ走り出す。
「カスミは中央通信中継所へ。破壊箇所と侵入経路を確認して。可能なら通信網を復旧させて」
「了解」
カスミも海を見る。
「動くな」
「分かっています」
「今の間」
「今度は本当に分かっています」
カスミは数秒、海の顔を見つめた。
「嘘、下手」
「今回は嘘ではありません」
「まだ」
「今から疑うんですか?」
カスミは答えず、工具を取り出しながら演習場を後にした。
「エリアナは指令室で通信補助。現場から届く魔力反応と被害情報を整理して」
「はい!」
エリアナは杖と記録板を抱え直す。
海へ一度だけ不安そうな視線を向けたが、シャルロットの後を追った。
「エドガーは東区防衛隊へ合流。市民の避難路を確保しなさい」
「承知した!」
エドガーは剣を抜き、演習場の出口へ駆ける。
アルフレッドも騎士たちへ短く指示を出し、別の通路へ姿を消した。
次々と足音が遠ざかっていく。
最後まで海を気にしていたフィリアの姿も、回廊の向こうへ消えた。
シャルロットは出口で一度だけ立ち止まる。
「海」
「はい」
「待機は、あなたを信用していないから命じるのではないわ」
海は黙って聞く。
「相手の狙いが分からないからよ。今は、動かないことにも意味がある」
「分かっています」
「本当に?」
先ほどのやり取りを思い出したのだろう。
シャルロットの声には、僅かな疑いが混じっていた。
海は右脚を踏みしめる。
「今度は、本当に分かっています」
シャルロットは数秒、海の目を見る。
やがて小さく頷き、指令室へ向かった。
扉が閉じる。
広い演習場に残されたのは、海一人だけになった。
警戒鐘。
断続的な爆発。
王都を覆い始めた黒煙。
助けを求める声は、ここまでは届かない。
それでも、海には見えてしまう。
どこで通信が切れたのか。
どの避難路が塞がれたのか。
騎士団が、どの方向へ分断されているのか。
オメガコードを開けば。
もっと詳しく分かる。
天照を使えば。
もっと遠くへ届く。
けれど、動けば相手の狙いどおりかもしれない。
海は、動けなかった。
怖いからではない。
命令へ従うべきだと理解しているからだ。
それでも。
誰かが傷つく可能性を、ただ待つことだけはできない。
海の右手が、静かに握られる。
先ほどまで動かなかったはずの脚は、もう自由だった。
走れる。
戦える。
誰かのところへ向かえる。
それでも今度は。
命令が、海をその場へ縫い止めている。
王都の空に、三本目の黒煙が立ち上った。
海の指が、閉じた天照の柄へ触れる。
《マスター》
Deltaの声が響く。
《待機命令を確認しています》
(分かってる)
《王都内の被害予測、上昇》
(それも、分かってる)
《追加命令を待機しますか》
海は答えなかった。
オメガコードの画面へ、王都の簡易地図が展開される。
通信の切れた地点。
爆発の位置。
騎士団と魔導師団の配置。
一般市民の推定避難経路。
複数の情報が重なり、赤い警告線が増えていく。
《東区救護班、到着》
フィリアの識別反応が、小さな光点として表示される。
《中央通信中継所、カスミ到着》
別の地点に、もう一つの光。
二人とも、自分の役割を果たすために戦っている。
エリアナも。
エドガーも。
シャルロットも。
海を守るためだけに残った者は、もういない。
だから。
誰にも見られず。
誰の役割も奪わず。
相手に音無海だと知られない形で戦えるなら。
待機命令を破らずに、という理屈は成立しない。
それは分かっている。
だが、命令が禁じたのは音無海が標的として現場へ向かうことだ。
ならば。
音無海ではない何かとして現れれば。
海の思考が、その可能性へ触れた。
《マスター》
Deltaの声が、僅かに低くなる。
《新規処理の開始を検知》
「まだ何もしてない」
《既存装備の接続順序を変更しています》
海はオメガコードから手を離した。
「考えてるだけだよ」
《天照内部機構への照会を確認》
「確認してるだけ」
《Ω-Frameとの統合経路を検索しています》
海は口を閉じた。
言い逃れが、もう残っていない。
王都の空で、四度目の爆発が起きる。
窓ガラスが震えた。
海は閉じた天照を見る。
オメガコード。
オメガフレーム。
Delta。
これまで別々に使ってきた装備と機能。
それらを、一つの戦闘形態へまとめる。
姿を隠すため。
誰かを守るため。
そして。
自分が何者なのかを、まだ世界へ知られないために。
海はオメガコードへ両手を置いた。
「Delta」
《はい、マスター》
「外見を隠せる装備構成を作る」
《待機命令との競合を確認》
「まだ行くとは決めてない」
《設計目的が出動を前提としています》
「準備だけ」
短い沈黙。
《アクセプト》
海の指が動き始める。
王都の空に黒煙が広がる。
その下で。
怖がりながらも、何度も憧れ続けてきたヒーローの輪郭が、設計図へ変わっていく。
誰かに命じられたからではない。
勝てると分かったからでもない。
怖くないから、進むのではない。
助けを求める人がいるなら。
怖くても、前へ出る。
静まり返った演習場で。
まだ名もない黒い戦士が。
一行ずつ、実装され始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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この物語は、異世界ファンタジーに変身ヒーロー要素と高飛車令嬢コメディを混ぜ込んだ作品です。
凛と海の全力変身を、これからも見届けていただければ嬉しいです。




