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EP32:燻る炎と崩れた誇り。努力した男は、理不尽な星を見上げる



人気のない訓練場の片隅。


夕刻の光が、石畳を赤く染めていた。


剣戟の音も、詠唱の声も、もう遠い。


訓練を終えた団員たちは寮へ戻り、残っているのは、焦げた土の匂いと、魔力の残滓だけだった。


その中心で、一人の青年が槍を振るっていた。


エドガー・フォン・シュタインベルク。


火と土。


二属性の適性を持ち、Elemental(エレメンタル)の称号を与えられた中核魔導士。


将来を嘱望され、貴族の誇りを背負い、魔導騎士団の次代を担うとまで言われた男。


だったはずの男。


「……ハァッ!」


炎を纏った槍が、地面を穿つ。


爆ぜる火花。


盛り上がる土壁。


大岩がいくつもせり上がり、鉄壁の防御陣を形作った。


見事な制御だった。


火力も、展開速度も、防御構築も、一流と言っていい。


だが、エドガーの顔に達成感はなかった。


あるのは、歪んだ苛立ちだけだった。


「……なんなんだよ、あいつは」


低く、喉の奥で吐き捨てる。


脳裏に浮かぶのは、赤い髪の少年。


音無海おとなし・かい


異世界から現れた、頼りなさそうな男。


分厚い眼鏡。


おどおどした態度。


詠唱ひとつまともにできず、杖の扱いも知らず、騎士団の礼儀も分かっていない。


それなのに。


五属性。


光と闇。


測定不能。


百万という異常値。


詠唱なし。


杖なし。


そして、属性融合干渉弾の完全制御。


特級魔導士でさえ再現困難な課題を、あの少年は。


少し考え込んだだけで、抜いた。


「……ふざけるな」


槍の柄を握る指に、力がこもる。


「ふざけるなよ……!」


炎が槍先で膨れ上がった。


だが、怒りで制御が乱れ、火球は空中で不格好に弾けた。


熱風が頬を打つ。


エドガーはそれでも、動かなかった。


(俺様が、何年かけたと思ってる)


幼い頃から魔導書を読み込んだ。


貴族の子息として、泣き言は許されなかった。


朝は詠唱。


昼は基礎魔力制御。


夜は杖術。


手の皮が破れても、血を拭いて続けた。


同年代が遊ぶ時間に、魔法陣を写し続けた。


寝る前には、火属性の発動速度を記録した。


食事中でさえ、土壁の構築順を頭の中で組み直した。


そうやって積み上げた。


誇りも、称号も、居場所も。


全部、自分の努力で手に入れたはずだった。


「それを……」


槍の先が、石畳を削る。


「ただ召喚されただけの奴が」


海は努力していない。


少なくとも、エドガーにはそう見えた。


この世界の魔導体系を学んでいない。


騎士団の基礎訓練も受けていない。


杖も持たない。


詠唱もできない。


それなのに、結果だけを奪っていく。


まるで、世界そのものがあいつだけを特別扱いしているように。


(じゃあ、俺の努力は何だったんだ)


胸の奥で、何かが崩れる音がした。


「俺様は、間違っていない」


自分に言い聞かせるように呟く。


「俺様は、正しく積み上げてきた。正しく学んで、正しく鍛えて、正しく勝つはずだった」


視線の先。


演習場の端に、訓練記録水晶が置かれていた。


透明な水晶の内部で、先ほどの特別訓練の記録が淡く輝いている。


海の記録。


シャルロット団長の監督下で行われた、高度制御魔法空間ルミナ・フィールドでの課題結果。


《属性融合干渉弾》


《完全制御》


《三十秒未満》


《属性相殺障壁、通過》


《命中率:100%》


エドガーの目が、ぎり、と歪んだ。


「……俺が」


声が震える。


「俺が、何度挑んで失敗したと思ってる」


その課題は、エドガーにとって壁だった。


火と土の二属性を持つ自分なら、いつか届くと信じていた。


届かなければならないと思っていた。


シュタインベルク家の名にかけて。


Elemental(エレメンタル)の称号にかけて。


だが、海は違った。


火と水と風と雷を組み、障壁を壊さず、意味をずらして抜いた。


魔法を唱えたのではない。


魔法を読み替えた。


あの瞬間、エドガーは理解してしまった。


自分が登っている山の上空を、あの少年は飛んでいる。


「……っ」


膝が折れた。


エドガーはその場に崩れるように膝をつく。


槍の柄を支えにして、かろうじて倒れなかった。


夕陽に照らされた影が、長く伸びる。


それは、勝者の影ではなかった。


折れかけた男の影だった。


「俺は……」


声が、砂を噛んだように掠れる。


「俺は、あいつを認めない」


認めれば、自分が壊れる。


努力は報われる。


血統には意味がある。


正しい鍛錬は、正しい結果を連れてくる。


そう信じてきた世界が、全部ひび割れる。


「認められるかよ……」


その時だった。


「悔しいか?」


背後から、声が落ちた。


エドガーは振り返らない。


ただ、肩だけがわずかに揺れた。


「誰だ」


「君が今、最も聞きたくて、最も聞きたくない言葉を持ってきた者だ」


闇色の長衣。


黒い手袋。


訓練教官補佐として騎士団内に出入りしている男。


ヴィルヘルム。


かつてシャルロット団長の直属として動いていたと噂される、影の薄い男だった。


薄い。


だが、消えてはいない。


気づけば背後にいる。


そういう男だった。


「ヴィルヘルム教官補佐……何の用だ」


「見ていたよ」


「趣味が悪いな」


「研究者ほどではない」


ヴィルヘルムは薄く笑った。


「だが、壊れかけた誇りほど、見逃してはならないものはない」


エドガーの目が鋭くなる。


「俺様を笑いに来たのか」


「逆だ」


ヴィルヘルムはゆっくり歩み寄る。


「君は笑われる側ではない。君は、怒っていい側だ」


その一言に、エドガーの呼吸が止まった。


「……何?」


「君は努力した。正しい努力をした。魔導士として必要なものを学び、血と時間を捧げ、二属性を磨き上げた」


ヴィルヘルムの声は静かだった。


静かすぎて、耳の奥に入り込んでくる。


「君の誇りは、偽物ではない」


エドガーは奥歯を噛む。


その言葉が欲しかった。


誰かに、そう言ってほしかった。


あの異世界人の前で自分が霞んでも。


百万という数字に押し潰されても。


それでも、自分の積み上げたものが無意味ではなかったと。


「だが」


ヴィルヘルムは続けた。


「世界は時に、正しさを踏みにじる」


エドガーの瞳に炎が戻る。


「音無海は、努力の上に立った天才ではない。彼は例外だ。理不尽だ。既存の秩序の外から落ちてきた、説明不能の異物だ」


「異物……」


「そうだ」


ヴィルヘルムは訓練記録水晶へ視線を向ける。


「異物に、正規の物差しは通じない。ならば君がすべきことはひとつだ」


「何だ」


「奴を知り、奴を超えるための別の物差しを持つこと」


風が止まった。


訓練場の片隅だけが、夕暮れから切り離されたように静かになる。


「俺に、それができるのか」


エドガーの声は、怒りと渇望の間で揺れていた。


ヴィルヘルムは微笑む。


「君にしか、できないことがある」


それは甘い毒だった。


欲しかった言葉の形をした、黒い針だった。


「君は正規の魔導教育を受けている。二属性の適性もある。誇りもある。何より、君は彼を心から超えたいと思っている」


ヴィルヘルムは、黒革の小冊子を差し出した。


手のひらに収まるほどの大きさ。


表紙には、何の装飾もない。


だが、触れなくても分かる。


そこには、普通の魔導書にはない冷たさがあった。


「……これは」


「団の一部しか知らない研究指針だ」


「禁術か」


「禁術と呼ぶ者もいる」


ヴィルヘルムは否定しなかった。


「だが、技術とは使い手次第だ。君が誇りを守るために使うなら、それは君の刃になる」


エドガーは、黒革の小冊子を見つめた。


開いてはいけない。


その直感はあった。


だが、それ以上に。


このまま終わりたくないという炎が、胸を焼いた。


彼は震える手で冊子を受け取る。


ページを開いた。


そこには、細かい文字と魔法陣が刻まれていた。


見慣れた術式とは違う。


神性反応。


外来魂魄。


異世界召喚体。


魔力異常値。


そして。


《対神性存在対応魔導開発計画》


E・G・Sエゴド・ジェネシス・シフト


《Egod Genesis Shift》


エドガーの眉が動いた。


「対神性……存在?」


「音無海を、ただの魔導士として見ている限り、君は追いつけない」


ヴィルヘルムの声が、静かに沈む。


「ならば、神性に近い異常存在として解析し、対抗する術式を組めばいい」


「そんなことが……」


「可能かどうかは、君次第だ」


ヴィルヘルムは顔を近づけるでもなく、声を荒げるでもない。


ただ、逃げ道だけを少しずつ塞いでいく。


「さあ、エドガー・フォン・シュタインベルク」


黒い問いが、夕暮れに落ちた。


「君はどうする?」


エドガーは冊子を握りしめる。


「見上げたまま終わるのか」


その言葉が、最後の杭になった。


胸の奥で、何かが燃え上がる。


誇り。


嫉妬。


劣等感。


怒り。


努力を否定されたくないという叫び。


全部が混ざり、黒い炎になった。


「……終わらない」


エドガーは立ち上がった。


膝は震えている。


けれど、その目にはもう、先ほどまでの敗北の色はなかった。


「俺様は、終わらない」


槍の先に、炎が灯る。


今度の炎は、先ほどより暗かった。


赤ではない。


橙でもない。


土の奥で燻る、黒ずんだ火だった。


「音無海」


その名を、呪いのように呼ぶ。


「お前がどれほど理不尽だろうと、俺様はお前を超える」


ヴィルヘルムは笑った。


その笑みは、誰にも見えない薄闇の中でだけ、満足げに歪んだ。


「いい目だ」


彼は背を向ける。


「君の努力は、まだ終わっていない。正しい形に変えればいい」


「正しい形……?」


「憎しみも、魔力になる」


ヴィルヘルムはそれだけを残し、訓練場の影へ消えていった。


エドガーは一人、黒革の小冊子を握りしめていた。


開いてはいけない扉がある。


踏み越えてはいけない線がある。


そんなことは分かっている。


だが、あの少年はすでに空の上にいる。


ならば。


地面を掘り返してでも、別の道を作るしかない。


「俺様は、見上げて終わる男じゃない」


夕暮れの訓練場で、燻る炎がゆっくりと形を変え始めた。


それは努力の火ではなかった。


誇りを守るために、誇りを焼こうとする火だった。


◇ ◇ ◇


その頃。


音無海は、別の夢を見ていた。


白い空間。


上下も、奥行きも、距離も分からない場所。


足元には、淡く輝く円形の紋様。


玉座のようなものがあり、その上に女神が座っている。


長い髪。


穏やかな微笑み。


現実離れした美しさ。


だが、その声は、不思議なほど事務的だった。


「では、望むものをひとつ授けましょう」


女神は微笑んだ。


「どんな武器でも、どんな知識でも。あなたの望むものを」


海は、ぽかんとしていた。


状況が理解できていない。


死んだのか。


召喚されたのか。


これから異世界に行くのか。


情報が多すぎて、脳内の処理が完全に追いついていなかった。


「望むもの……」


彼は、しばらく考えた。


剣。


槍。


魔法の杖。


伝説の鎧。


普通なら、そういうものを選ぶ場面なのだろう。


海にも、それくらいは分かる。


けれど、彼の頭に最初に浮かんだのは、それではなかった。


「……じゃあ」


海は、おずおずと手を上げた。


「ノートパソコン、ください」


女神の微笑みが、初めて止まった。


「……ノート?」


「はい。ノートパソコンです」


「武器ではなく?」


「武器……ではないですけど、僕にはたぶん、その方が合ってます」


女神は、ほんの少しだけ首をかしげた。


神の首かしげ。


世界創造級の困惑だった。


「なぜ、それを望むのですか」


海は視線を落とした。


白い床に、自分の影はなかった。


「僕、剣とか槍とか、たぶん無理です。運動神経ないし、人を斬る覚悟もないし」


「では、強大な魔法知識は?」


「それも、いきなり頭に入ってきたら怖いです。僕、たぶん使いこなせないと思います」


女神は黙って聞いていた。


海は、少し恥ずかしそうに笑う。


「でも、調べたり、書いたり、考えたり、組み立てたりするのは好きです」


彼の声が、ほんの少しだけ自然になる。


「分からないものを、少しずつ分かる形にするのが好きなんです。あと、メモできると安心します」


「メモ」


「はい。できればメモリ大きめで、充電いらなくて、タッチパッドの反応がよくて、フォントも切り替えできて、検索も速いやつだと嬉しいです」


「……要求が急に具体的ですね」


「すみません。そこは譲れなくて」


女神は沈黙した。


神域に、妙な間が生まれた。


剣でもなく。


聖槍でもなく。


神の叡智でもなく。


少年は、ノートパソコンを望んだ。


それは臆病で、実用的で、あまりにも彼らしかった。


「本当に、それでよいのですか」


女神は確認する。


「この選択は、あなたの魂に合わせて変質します。元の形そのものが与えられるとは限りません」


「はい」


海は頷いた。


「それが一番、僕っぽいので」


女神は、しばらく海を見つめていた。


その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か別の光がよぎる。


憐れみではない。


期待でもない。


もっと遠い場所から、答え合わせをしているような光。


「……なるほど」


女神は、そっと微笑んだ。


「あなたは、剣ではなく記述を望むのですね」


「記述?」


「世界を壊す刃ではなく、世界を読み、書き換えるための器」


女神の手が、ゆっくりと上がる。


白い空間に、光の線が走った。


それはノートパソコンの形を取ろうとして、途中で崩れた。


キーボード。


魔法陣。


回路。


古代文字。


青紫の光。


それらが混ざり合い、ひとつの不定形な輝きへ変わっていく。


《SYSTEM SEED》


《願望情報を解析》


《対象魂魄との適合処理を開始》


海は目を見開いた。


「え、今、何か鳴りました?」


女神は答えない。


光はさらに圧縮される。


ノートパソコンだったものは、もはや機械ではなかった。


本でもない。


杖でもない。


武器でもない。


それは、少年の知識と憧れと恐怖に合わせて形を変える、可能性の器だった。


「あなたに最適な形で、具現化しましょう」


女神の声が、白い空間に響く。


「名を、Ωコード(オメガ・コード)


海の胸元に、光が沈んだ。


熱い。


けれど痛くない。


何かが自分の奥へ格納される感覚。


使い方は分からない。


けれど、それは確かに自分のものになった。


「これは、あなたが何者になるかによって形を変えるでしょう」


女神は言った。


「道具にも、記録にも、術式にも、武器にもなり得ます」


「そんなすごいものを、僕が……?」


「あなたが望んだのです」


「僕、ノートパソコンって言っただけなんですけど……」


「神域での願いは、言葉通りには叶いません」


女神は、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。


「魂の奥にある意味で、叶います」


海は言葉を失った。


胸の中に沈んだ光が、静かに脈打つ。


まるで、自分の心臓とは別の場所に、もうひとつの起動音が生まれたようだった。


《OMEGA CODE:STANDBY》


その音を最後に、白い空間が遠ざかっていく。


女神の姿が光に溶ける。


海は、落ちていく感覚の中で、かすかに思った。


ノートパソコンが欲しかっただけなのに。


どうして、こんなことになっているんだろう。


だが、答えはもう、彼の中に格納されていた。


Ωコード(オメガ・コード)


それは、剣ではない。


槍でもない。


誰かを斬るための武器ではない。


世界を読み、世界に問い、世界の仕様へ手を伸ばすための、少年だけの変身ギア。


そして。


その原初を、海はまだ完全には思い出していない。

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