EP15:双神流の師匠を求めて、試練の果てに
王城の謁見の間には、息をするだけで背筋が伸びるような緊張が満ちていた。
磨き上げられた大理石の床。
天井から垂れる深紅の旗。
玉座に座すレオポルド三世の眼差しは、静かでありながら、鋼のように重い。
その脇には、軍務大臣バルドウィン・フォン・アーレンスバッハ。
宰相アルフレッド・フォン・シュタインベルク。
そして神官長セラフィム・アークライト。
王国の中枢を担う者たちが、たった一人の少女を見つめていた。
謁見の間の中央。
そこに立つのは、高円寺凛。
異世界に召喚された勇者。
そして、いつしか白金の舞姫と呼ばれ始めた少女である。
「凛よ」
王の声が、広間に低く響いた。
「双神流。かつて神と竜にすら技を刻んだとされる、伝説の武術がある」
その名が告げられた瞬間、控えていた騎士たちの間に、かすかなざわめきが走った。
双神流。
この世界において、その名は単なる武術ではない。
王族でさえ詳細を知らず、騎士団長ですら口にする時は声を潜める。
歴史書では半ば神話として扱われ、実在そのものを疑う者さえいる。
「その技を受け継ぐ者たちは、辺境の果てに身を隠している。彼らは誰にも教えぬ。才ある者にも、権力ある者にも、ただ強いだけの者にもな」
王は静かに続けた。
「真に選ばれし者にのみ、門を開くという」
凛の瞳が、青く鋭く光った。
恐れではない。
興味でもない。
それは、値踏みされる側の目ではなかった。
値踏みする側の目だった。
「つまり、私に相応しい場所ということね」
謁見の間が、ぴたりと静まった。
バルドウィンがわずかに目を細める。
アルフレッドは鼻を鳴らしかけて、王の前であることを思い出したように口を閉じた。
セラフィムは、祈るように目を伏せる。
王だけが、わずかに笑った。
「恐ろしく傲慢だな」
「事実を述べただけですわ」
凛は一歩も引かない。
むしろ、顎をわずかに上げ、謁見の間の空気ごと踏みつけるように立っていた。
「伝説だか神話だか知ないけど、必要なら行くまでよ。どんな山でも、荒野でも、化け物でも、まとめて踏み越えるだけよ」
それは宣言だった。
祈りでも、嘆願でもない。
高円寺凛という少女が、この世界に対して初めて突きつけた挑戦状だった。
王は深く頷く。
「よかろう。ならば向かうがよい。無慈悲の峰へ」
その名を聞いた瞬間、騎士の一人が息を呑んだ。
「無慈悲の峰……」
それは人里離れた山岳地帯の果て。
昼は灼熱。
夜は氷獄。
空気は薄く、魔物は強く、道は常に人を殺そうとしてくる。
そこに住む者がいるとすれば、それはもはや人ではない。
そう語られる場所だった。
凛は涼しい顔で髪を払う。
「無慈悲、ね。ずいぶん失礼な山ね!」
「失礼?」
王が問い返す。
凛は当然のように言った。
「私を試すなら、せめて礼儀くらい覚えてから出直すべきだわ」
その場にいた者たちは、誰ひとり笑わなかった。
笑えなかった。
この少女は本気で言っている。
その本気が、謁見の間の荘厳さを少しだけ置き去りにした。
* * *
旅立ちの日。
凛は王都の門を、一人でくぐった。
豪奢なドレスは脱ぎ捨てている。
身にまとっているのは、動きやすい旅装。
袖は絞られ、裾は軽く、腰には最低限の装備だけを備えている。
だが、その立ち姿から漂う気品は隠しようがなかった。
布が変わっても。
宝石がなくても。
凛は凛だった。
歩くだけで、砂利道の方が道を譲るように見える。
王都の喧騒が背後に遠ざかり、やがて道は荒れ始めた。
草原は岩場へ。
岩場は崖へ。
崖は、牙を剥いた山岳地帯へと姿を変えていく。
無慈悲の峰。
その名にふさわしく、山は凛を歓迎しなかった。
切り立った崖。
鎌首をもたげるような尖岩。
足を置く場所を誤れば、そのまま谷底へ落ちる細い道。
高山特有の薄い空気が肺を締めつけ、吹き荒ぶ風が頬を打つ。
「……ふぅ。なかなかのハードモードじゃない」
凛は小さく息を吐いた。
だが、足は止めない。
額に汗が滲んでも。
靴底が岩に削られても。
風が髪を乱しても。
凛は、前へ進む。
「この程度で足を止めるなら、高円寺の名が泣くわ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
しかしその声には、どこか過去の自分へ言い聞かせるような響きがあった。
かつて彼女は、家名に縛られていた。
高円寺家の娘。
高円寺財閥の令嬢。
後継者争いの駒。
兄の影と比べられる存在。
けれど今、ここにいる凛は違う。
この異世界で、彼女は初めて「高円寺家の娘」ではなく、「高円寺凛」として歩いている。
その足取りは、誰かに命じられたものではない。
自分で選んだ一歩だった。
(令嬢の心得)
(どれほど道が悪くとも)
(歩き方まで貧しくしてはならない)
(背筋は、最後まで私の所有物よ)
凛は唇の端をわずかに上げた。
昼は、太陽が容赦なく肌を焼いた。
岩場は熱を帯び、足元から灼けるような熱が上がってくる。
夜は一転し、骨の髄まで凍りつく寒さが襲った。
吐く息は白く、指先は痺れ、身体の芯が冷えていく。
それでも凛は、焚き火の前で膝を抱えたりはしなかった。
岩陰に背を預け、外套を羽織り、空を見上げる。
異世界の星は、地球で見た夜空よりも近く、冷たく、美しかった。
「……悪くないわね」
誰もいない山中で、凛は小さく笑う。
「星空だけは、なかなか趣味がいいじゃない」
翌朝。
彼女はまた歩き出した。
* * *
何日も山道を進んだ末、景色は突然変わった。
岩山の先に広がっていたのは、灰色の空と、果ての見えない砂の海。
死者の荒野。
無慈悲の峰へ至る者をふるい落とす、第二の試練である。
砂嵐は視界を奪い、風は耳元で亡者のように泣いた。
一歩進むたび、足元の砂が崩れる。
踏ん張れば踏ん張るほど、身体は沈む。
目を開けていれば砂が入り、閉じれば方角を失う。
「……まったく」
凛は口元を覆った布についた砂を払う。
「山の次は砂場? 試練というより、嫌がらせの詰め合わせね」
その声には疲労が滲んでいた。
だが、屈辱はなかった。
彼女は進む。
足を取られても、立て直す。
風に煽られても、踏み止まる。
視界を奪われても、勘と意地で進路を読む。
その背中に、令嬢らしい優雅さはない。
けれど、美しかった。
泥に塗れ、砂を被り、それでもなお前を見る者の姿は、宝石よりも硬い輝きを放っていた。
その時。
砂の底が、蠢いた。
凛の足元から、低い振動が伝わってくる。
「……来る」
次の瞬間。
砂海が爆ぜた。
ゴアアアアアアアアアッ!!
砂の中から現れたのは、巨大な魔物。
砂竜。
全身を硬質な砂鱗に覆い、蛇のように長い胴をうねらせる怪物だった。
その顎には岩を砕く牙が並び、爪は鉄板すら裂くほど鋭い。
砂竜は凛を見下ろし、咆哮を上げた。
凛は顔についた砂を指で払う。
「ずいぶん大きなトカゲね」
砂竜の尾が、唸りを上げて振るわれる。
風圧だけで砂嵐が割れた。
凛は跳んだ。
身をひねり、空中で軌道を変え、尾の一撃を紙一重でかわす。
その動きは舞のようでありながら、刃のように鋭い。
砂竜はさらに爪を振り下ろす。
「遅い」
凛は砂を蹴った。
次の瞬間、彼女の身体が竜の懐へ滑り込む。
拳を握る。
狙うのは鱗ではない。
筋肉でもない。
喉元の奥、魔力の流れがわずかに乱れる一点。
凛の青い瞳が、獲物の急所を射抜いた。
「そこね」
一撃。
轟音はなかった。
ただ、空気が裂けた。
凛の拳が砂竜の喉元に叩き込まれた瞬間、竜の咆哮が途切れる。
巨体が硬直し、次いで砂の中へ沈み始めた。
ズズズ、と地響きを立てながら、砂竜の身体が崩れ落ちていく。
砂塵が晴れた時、そこに立っていたのは凛だけだった。
「……ったく、時間の無駄ね」
凛は髪についた砂を払い、ため息をつく。
「せめてお茶くらい出してから襲いなさいよ。礼儀がなっていないわ」
返事はない。
砂漠は沈黙している。
凛は再び歩き出した。
荒野を越えた先に現れたのは、巨大な石柱が無数に林立する異様な地帯だった。
天を突くような石柱。
ねじれ、削れ、折れた岩の群れ。
その合間を冷たい風が通り抜け、耳元で囁く。
まるで、何かがこちらを見ているようだった。
「ここ……本当に人が住んでいるの?」
不安を滲ませない声。
だが、凛の視線は一瞬たりとも周囲から外れない。
石柱の影。
風の流れ。
砂の沈み方。
足元の違和感。
すべてを観察しながら、彼女は進む。
やがて、石柱の奥に一軒の小屋が見えた。
古びた木造の建物。
屋根は苔に覆われ、壁には蔦が絡み、長い年月をそのまま着込んだような姿をしている。
だが、煙突からは、かすかに煙が上がっていた。
人がいる。
凛の瞳が細くなる。
「やっと見つけた……あれが双神流の」
小屋へ近づいた、その瞬間。
足元の地面が、消えた。
「っ!」
陥没。
同時に、穴の底から無数の針が突き上がる。
凛は反射で跳んだ。
空中で身体を捻り、針の隙間を見極める。
着地できる場所は、ほんのわずか。
指先ほどの石片。
彼女はそこへ、片足で降り立った。
針の先端が、足首のすぐ横をかすめる。
普通なら、それだけで死んでいた。
凛は軽く息を吐き、前髪を払う。
「……玄関前に針山?」
呆れたように小屋を見つめる。
「ずいぶん趣味の悪い歓迎ね。客人を迎えるなら、せめて紅茶と菓子を用意なさい」
言いながら、彼女は次の足場へ跳ぶ。
その瞬間。
空気が張り詰めた。
凛の背筋に、冷たいものが走る。
前方の石柱の影から、黒い影が走った。
轟音。
風を切り裂き、巨大な岩石が砲弾のように飛んでくる。
「っ……!」
凛は地面を蹴り、横へ跳ぶ。
だが、岩石は軌道を変えた。
まるで意志を持っているかのように、凛を追尾する。
「へぇ」
凛の口元が、わずかに吊り上がった。
「ただの岩じゃないのね」
岩石はさらに加速する。
避ける。
追ってくる。
もう一度避ける。
また追ってくる。
凛は空中で体勢を整え、目を細めた。
「しつこい男は嫌われるわよ」
次の瞬間、凛は逃げるのをやめた。
正面から、岩へ向かって踏み込む。
岩石が迫る。
衝突まで、あと一瞬。
凛は片手を伸ばした。
ドガァァァンッ!!
轟音が石柱の森を揺らした。
大地が裂け、爆風が周囲の砂を巻き上げる。
視界は一瞬で土煙に覆われ、木々の葉が震え、石柱の表面に亀裂が走った。
数秒後。
風が砂煙を払う。
その中心に、凛は立っていた。
片手には、粉々に砕けた岩の残骸。
服には砂埃がついている。
頬にも小さな擦り傷がある。
だが、瞳は一切揺れていなかった。
凛は、砕けた岩の欠片をぱらぱらと地面へ落とす。
「いきなり、何なのこの岩」
呆れたように言う。
「挨拶ができない上に、距離感まで最悪ね」
その時だった。
石柱の森の奥で、空気がわずかに震えた。
誰かがいる。
旅人ではない。
山賊でもない。
魔物とも違う。
獣のような荒々しさと、鍛え上げられた武人の気配。
その二つが、薄暗い森の奥から凛を見据えていた。
凛はゆっくりと顔を上げる。
「……出てきなさい」
風が止まった。
石柱の影の向こうで、金色の瞳が光る。
低く、鋭い声が響いた。
「驚いたな」
その声には、敵意と興味が混じっていた。
「殺すつもりでやったんだがな」
凛は片眉を上げる。
「物騒なご挨拶ね」
森の奥で、黒い影がゆっくりと動いた。
大柄な青年だった。
竜のように鋭い金の瞳。
褐色の肌に、鍛え上げられた四肢。
背には淡く光を返す鱗があり、周囲の空気そのものが彼の呼吸に合わせて震えている。
人でありながら、人ではない。
獣でありながら、獣でもない。
凛は直感した。
これは、ただの門番ではない。
試練そのものが、形を持って立っている。
「名乗る前に客人を殺そうとするなんて、教育が行き届いていないのね」
青年は、低く笑った。
「客人? ここまで来た奴は、たいてい死体になる。だから客扱いする必要がなかっただけだ」
「残念ね」
凛は砕けた岩の粉を手から払う。
「私は死体になる予定を入れていないの」
その返答に、青年の金色の瞳がわずかに細まった。
「面白い女だ」
「よく言われるわ」
「名は?」
「人に名を尋ねるなら、自分から名乗るのが礼儀でしょう?」
青年は一瞬、黙った。
そして、唇の端を上げる。
「スカイゼル・ヴァルドラグ」
空気が、わずかに重くなる。
その名には、この地に根を張る獣の王のような響きがあった。
「双神流の門番、というところだ」
凛は一歩、前へ出た。
「高円寺凛よ」
風が、彼女の銀白の髪を揺らす。
「双神流の師匠に会いに来たわ。通しなさい」
スカイゼルは、笑った。
それは歓迎ではない。
獲物を前にした獣の笑みだった。
「通すかどうかは、俺が決める」
「そう」
凛は、ゆっくりと構える。
「なら、早く決めなさい。私は待たされるのが嫌いなの」
一瞬。
石柱の森から、音が消えた。
スカイゼルの金色の瞳が、凛を射抜く。
凛の青い瞳が、それを真正面から受け止める。
(令嬢裁定)
(この男は、敵ではない)
(けれど、味方でもない)
(ならばまず、礼儀を教えるところから始めましょう)
高円寺凛は、砕けた岩の残骸を踏み越えた。
双神流の門は、まだ開かれていない。
だがその前に。
門番の鼻っ柱を、少しばかり整える必要がありそうだった。




