EP0:Ω(オメガ)断章:勇者が堕ちた日
「お前、なんだよその赤髪。ヒーロー気取りかよ」
地面に押し付けられた海の視界に、アスファルトの砂粒が滲んだ。泣くな、と思った。泣いたら負けだと思った。でも、膝が震えて止まらなかった。
その時。
「ちょっと、やめなさいよ」
凛とした声が、頭上から降ってきた。
白銀の髪をした女の子が、いじめっ子たちの前に立っていた。小柄なのに、まるで壁のように見えた。
いじめっ子たちが去った後、彼女は振り返って海を見下ろした。
「ほら、泣いてばかりじゃダメでしょ。ヒーローって泣くの?」
その日から、海の中に一つの答えが刻まれた。
――僕のヒーローは、この人だ。
―――あれから、時は流れた。場所も、世界も、変わってしまったけれど。
時は暁暦1027年。
地球の物理法則とは切り離された地、エルディア大陸──アストリア王国・双神流の里。
かつて静寂が支配していたはずのその場所は今、魔力の奔流と、引き裂かれた空間が発する断末魔のようなノイズに飲み込まれていた。
《Ω:BOOT SEQUENCE INITIATED ── システム、最終深度まで再起動》
網膜に投影された無機質な文字列が、海の焦燥をあざ笑うように明滅する。オメガライザーから供給される膨大な情報が、彼の脳を直接焼き焦がすような熱を持って流れ込んでいた。
「Δ(デルタ)、全リソースを座標演算に回せ! 逃げ遅れた里の人間を捕捉、障壁のエネルギーフィールドを最大出力で展開……一ミリ秒のモニタリングも欠かすな!」
海の声は、恐怖と覚悟が混じり合い、ひどくかすれていた。
空中に展開された幾何学的な魔導コードの羅列。それは、彼がかつてペンタゴンの防壁をハックした際に見た、どんな高度なプログラムよりも複雑で、理不尽な「世界の根源」の一部だった。
《警告:マスター。現在の魔力消費率は想定許容値を300%超過しています。これは、マスターの生命保持プロトコルを著しく阻害する、過度な負担を強いる行動です》
「……いいんだ、デルタ。そんなこと、今はどうでもいい! 僕はもう、誰も死なせたくないんだ……! 僕の魔力量なら、まだ耐えられる。お願いだ、僕を信じてくれ!」
海は、キーボードを叩くかのように指先を空間で踊らせる。彼にとって、魔法は神秘ではなく「物理法則のバグ」を突くハッキングだ。誰かが決めた絶望的なシナリオを、自らの演算で書き換えてやる。その傲慢なまでの祈りが、彼を動かしていた。
《……アクセプト。マスターの生命保持プロトコルを一時解除。全周囲対象のエネルギーフィールド、再構築を開始します。……最優先保護対象:解除。全演算リソースを外部出力へ転換》
その瞬間、海の視界を埋め尽くすHUDが、血のような赤色のアラートに染まった。
《緊急アラート:1名に著しいステータス異常を確認》
海の心臓が、跳ね上がる。
「……誰だ!? デルタ、対象を特定してくれ!」
《対象個体名:凛様。……魔力残量、急激なダウンサンプリングを確認。……90%、70%、50%……下降速度、さらに加速。残り30%……10%……》
「っ……嘘だろ、凛さんが……!? 解析だ! デルタ、原因を教えてくれ!」
《すでに解析進行中。……推定要因:正体不明の魔力干渉。既存の魔法体系を逸脱した『禁魔道具(禁呪)』の影響が疑われます。対象の存在定義が、根底から剥離されつつあります》
「再演算だ! 抵抗手段はあるはずだろ!? 全文献データベースをもう一度リサーチしろ! どこかに回避ロジックが……!」
海は叫び、空中に浮かぶ不可視のコードを猛然と書き換えていく。だが、画面上に弾き出されるのは、冷酷なまでの拒絶の文字だけだった。
《……不可能です。干渉強度が特異な波形を示しており、現在の論理では干渉をキャンセルできません》
その刹那。デルタの音声に割って入るように、一際高い警報音が海の鼓膜を貫いた。
《凛様に向けて、超高密度魔力圧縮砲撃を検知。……到達まで、0.8秒。……現在の凛様の防御値では、生存確率は0.0000%。耐えられません》
「…………ッ!!」
世界が、スローモーションに沈んだ。
海の脳内では、0.8秒という刹那が、永遠のような演算時間に引き伸ばされる。計算式は、絶望を示している。間に合わない。防げない。救えない。
だが、少年の魂に刻まれた「ヒーロー」という名の不合理が、理性を上書きした。
――泣いてばかりじゃダメでしょ。ヒーローって泣くの?
あの日、彼女がくれた言葉が、胸の奥で燃え上がった。
「座標転送、フルバースト! デルタ、今すぐ僕を、凛さんの前へ!!」
《了解 ── 転移モード、全回路接続。……跳べ、マスター!!》
空間が一閃。深紅の軌跡を引いて、海の姿がその場からかき消えた。
衝撃波が里の土を撒き散らす。
海が辿り着いたその場所は、死の静寂と、焼けつくような魔力の残滓が支配する地獄だった。
「……凛、さん?」
網膜に投影されたエラーログが、激しく明滅している。
その中心に、彼女はいた。
白銀の髪は泥と鮮血に汚れ、かつての高慢なまでの輝きを失った紺碧の瞳が、虚空を彷徨っている。凛は、自らの胸元を貫いた「理不尽な空白」を、信じられないものを見るように見つめていた。
「デルタ、お願いだ、すぐに回復の再演算を……! 損傷部位の構造データを取得して、再生魔法の干渉定数を……ッ!」
海は膝をつき、震える手で彼女を抱き寄せた。
指先に触れる肌は、急速に「命という名の熱」を喪失し、冷たい物質へと変わりつつある。
《……マスター。対象の魔力回路が完全破断しています。再生術式の受理を確認できません》
「なら、全文献データベースをもう一度リサーチしろ! 何でもいい、凛さんを助ける方法が、どこかに記録されているはずだ……。僕の演算能力のすべてを、検索だけに同期させるから……!」
海の声は、もはや悲鳴に近かった。
モニターに並ぶのは「生存確率:計算不能」という無慈悲なゼロの羅列。
「……貴方……。……そんな、顔……しないで……」
凛の唇が、微かに、震えながら動いた。
焦点の合わない瞳が、ようやく目の前の少年を捉える。
彼女の記憶にある音無海は、いつも自分の背中の後ろで怯えていた、頼りない少年のままだったはずだ。
だが、今自分を抱きしめる腕に宿る、この圧倒的な魔力は何。
自分さえ届かなかった領域で、彼が流してきた血と汗の匂いが、死にゆく鼻腔を微かに掠めた。
「……ふふ。……貴方も、貴方なりに……必死で、頑張っていたのね……」
血を吐き出しながら、彼女は慈しむように口角を上げた。
自分だけがこの世界の不条理と戦っていると思っていた。けれど、目の前の少年もまた、自分とは違う場所で、自分と同じように牙を剥き、足掻き、強さを求めていたのだ。
「……成長してたのは、私だけじゃ……なかったのね。……ふふ。……少し、見直したわ……」
凛の手が、力なく海の頬をなぞろうとして、砂利の上に落ちた。
指先から、魔力の残滓が蛍のように夜空へ溶けていく。
「凛さん? 凛さん……っ!!」
その時、後方からフィリアとシャルロットが駆けつけた。
「海っ……!」
「どいて、私が……『この世に生きとし、生ける者よ。我が命に応じて──リ・ジェネレーション!』」
聖なる光が凛を包み込む。だが、その光は「器」を失った砂のように、彼女の身体を虚しく通り抜けていった。
「……そんな。蘇生魔法が、受理されない……? 心拍が、確認……できない……」
シャルロットの、鋼のように冷たい呟き。
海の頭の中で、積み上げてきたすべての「論理」が音を立てて崩壊した。
「嘘だ……計算は合っていた。転移のタイミングも、魔力の出力も完璧だったはずだ……。なのに、なんで……なんで、凛さんは笑って逝っちゃうんだよ……ッ!!」
海は泥を掴み、天を仰いで絶叫した。
その声は雷鳴を呼び、空を覆う雲を引き裂いた。降り始めた黒い雨が、誰の涙とも区別がつかないまま、戦場を濡らしていく。
「何のために……僕は、力を……」
愛機である魔剣《天照》が、彼の手から滑り落ちた。
それは大地に突き刺さり、周囲の魔力を吸い込むように鈍く、重く震えている。
「こんなに強くなっても……。どんなに演算しても……。守れなきゃ、意味なんか、ないんだ……っ」
嗚咽が、さらなる絶望を呼ぶ。
膝をついた海の背を、色彩を失った灰色の空が静かに見下ろしていた。
それは雨か、涙か──。
ただひとつ確かなのは、この瞬間、海の心は音もなく崩壊し、その瞳から光が消えたということだ。
この瞬間。
アストリアの空が泣き、**“二人の勇者が堕ちた日”**として、人々の胸に刻まれた。




