EP0:届かなかった手、0.003%の祈り [LOG_PRAYER]
——あの日の少年は、走り続けた。
泣いても、立つために。
* * *
暁暦一〇二七年。
エルディア大陸。
アストリア王国領外、双神流の里。
そこは、もう里ではなかった。
空が裂けていた。
裂け目からこぼれる光は、光と呼ぶには冷たすぎた。
触れたものの輪郭を溶かし、存在そのものを薄く削っていくような、白い侵食。
焼けた土の匂いが、肺の奥を焦がす。
倒壊した家屋。
折れた鳥居。
地面に散った、誰かの修行着。
足を踏み出した瞬間、海は異変に気づいた。
「なんだ……この、魔力の乱れ……」
膝が笑っていた。
腕に力が入らない。
指先の感覚が、厚い手袋を嵌めたように鈍い。
自分の身体が、自分のものではない。
そんな違和感が、皮膚の下を這い回っていた。
「デルタ、状態を教えて」
《スキャン開始》
耳元ではなく、頭蓋の奥で声が響く。
海の相棒。
演算支援人格、Δ。
《スキャン完了。マスター、深刻な報告です》
いつもの無機質な声に、わずかな焦りが混じっていた。
《里の全域に多重結界を確認。外部から展開された干渉結界です》
《結界内の全対象に対し、重度の弱体化効果が付与されています》
「デバフ……どの程度?」
《本来能力の、一万分の一です》
呼吸が止まった。
一万分の一。
この身体に流れる魔力も。
デルタの演算速度も。
この場にいる全員が、本来の力の1万分の1に押し潰されている。
凛さんも。
([LOG_KAI - CRITICAL])
(1万分の1)
(凛さんの能力でさえ、この結界の中では……)
(だから、あの凛さんが墜ちかけている)
(これは偶然じゃない)
(最初から、凛さんを折るために仕組まれていたんだ)
海は奥歯を噛んだ。
遠くで、白い光がまたひとつ地面を舐めた。
そこにあった家屋の残骸が、音もなく薄れていく。
燃えるのではない。
壊れるのでもない。
最初から存在しなかったものに、書き換えられていく。
「デルタ、リジェクトはできる?」
《可能です。しかし、多重結界全体の解除には膨大な演算が必要です》
「最短で?」
《47分》
47分。
凛さんの魔力が消え切るまで、そんなに持たない。
「全体は間に合わない。じゃあ、僕一人分だけでいい」
海は震える手を握り締めた。
「僕のデバフだけ、外して」
《演算範囲を単一対象に限定》
《3秒で完了します》
「頼んだよ、デルタ」
《デバフ・リジェクト開始》
1秒。
皮膚の表面を、冷たい電流のようなものが走った。
2秒。
鈍っていた指先に、感覚が戻り始める。
3秒。
デルタの蒼い光が、海の全身を一瞬だけ包み込み、弾けた。
《デバフ・リジェクト完了》
《マスターの能力値、通常出力へ復帰》
空気が変わった。
さっきまで鳴りを潜めていた魔力が、海の体内で再び脈を打つ。
身体が軽い。
頭が冴える。
世界の解像度が、一気に跳ね上がる。
だからこそ、見えてしまった。
この里を覆う絶望の全貌が。
デルタが映し出す空間マップに、光点が散らばっている。
里の生存者たちだ。
三百を超える光点が、ひとつ、またひとつと明滅している。
消えかけている。
「凛さんの位置は?」
《座標演算中》
《ただし、凛様の存在定義に深刻な揺らぎを確認》
胸の奥が、引っ張られた。
今すぐ走りたい。
今すぐ凛さんのところへ行きたい。
でも。
倒壊した家屋の下で、誰かが呻いた。
燃え残った納屋の陰で、子どもが泣いていた。
泥の中で、名前も知らない黒髪の少女が、血まみれの手を伸ばしていた。
海は目を閉じた。
一秒だけ。
「デルタ、お願いがある」
《はい、マスター》
「里の生存者全員に、強化魔法付与をかけたい」
《全員、ですか?》
「体力増強、魔法耐性、防御結界。この三つを同時展開」
《対象数、三百二十七名》
《対象ごとに体格、魔力残量、負傷度が異なります。安全展開には、三百二十七通りの個別設計が必要です》
「同時に、いける?」
《推奨しません。マスターの残存魔力量を著しく消耗します》
「……ううん。いこう」
海は顔を上げた。
「僕とデルタなら、いける」
一拍の沈黙。
そして、デルタが答えた。
《了解しました》
海の両手が、虚空を叩いた。
十本の指が同時に走る。
蒼白い光が、海の足元から放射状に広がった。
一つ目の魔法陣が、三十メートル先の地面に浮かび上がる。
倒壊した家屋の下に閉じ込められた男の足元。
二つ目。
燃え残った納屋の陰で震えている母子の周囲。
三つ目。
泥の中で手を伸ばした黒髪の少女の胸元。
四つ。
十。
五十。
百。
海の指が動くたびに、蒼い光が里のあちこちに灯っていく。
一つとして同じ形はない。
大人には大人の。
子どもには子どもの。
重傷者には三倍の密度で。
魔力の残り火がわずかな者には、負担をかけない薄い膜を。
出血が止まらない者には、体温と脈を守る細い輪を。
三百二十七の個別設計が、一人の少年の指先から同時に紡ぎ出されていく。
空から見れば、それは星空だった。
焼けた里の闇の中に、蒼白い光の星が、一面に散りばめられていく。
光が触れた場所から、温もりが戻った。
震えていた子どもの泣き声が、少しだけ静かになった。
《三百二十七名、全対象》
《エンチャント完了》
海は手を下ろした。
指先が震えていた。
鼻から垂れた血を、袖で乱暴に拭う。
視界の端が、暗くなり始めている。
《マスター。残存魔力、12.3%》
十二パーセント。
彼女のもとへ飛ぶには、足りないかもしれない。
海は笑った。
笑うしかなかった。
「デルタ、凛さんの位置を」
《座標を演算中》
《しかし、対象の存在定義そのものが不安定です》
《緊急アラート》
《凛様の魔力残量、急激な低下……いえ、存在出力のダウンサンプリングを確認》
《残り三〇%》
《一〇%》
数値が落ちていくたびに、海の胸の奥で何かが千切れていった。
「原因は!?」
《推定要因、正体不明の魔力干渉》
《対象の存在定義が、根底から剥離されつつあります》
存在定義の剥離。
エンジニアの脳が、その意味を正確に理解した。
消えるのではない。
殺されるのでもない。
「いなかったこと」にされようとしている。
([LOG_KAI - INNER VOICE])
(最終回の前に、主人公が間に合わない展開がある)
(観てる側は知ってる)
(あの瞬間が、いちばん怖い)
(画面の向こうでどれだけ叫んでも、届かない)
(でも)
(これは、画面の中じゃない)
海は顔を上げた。
「デルタ、救出成功率は?」
《0.003%》
その数字が、網膜の裏に焼き付く。
海は数字を見た。
見て、理解した。
理解した上で、走り出した。
「通常の座標転送プロトコルじゃ間に合わない。術式を一から書き直す」
《マスター、それは危険です》
「座標そのものが信用できないなら、凛さんの魔力残滓を追う。残り香を辿るんだ」
《理論上は可能です》
《しかし、波長同期の精度が0.01%でもずれれば、マスターの身体は空間の狭間に分解されます》
「だから、ずらさない」
海の指が動いた。
虚空を叩くように、十本の指が走る。
見えないキーボード。
けれど、その指先が触れた空気が、蒼く発光した。
一行目のコードが、空間に刻まれる。
文字ではない。
光だ。
海の指が弾くたびに、蒼白い光の線が空間を走り、交差し、幾何学的な紋様を編み上げていく。
この世界の魔導士たちが長い歳月をかけて積み上げてきた術式構造を、一人の少年が、数秒で再定義していた。
円陣の中心に、座標関数。
外周に、波長同期のパラメータ。
さらに外側へ、デルタの演算リソースを物理空間へ展開するためのブリッジ構文。
三重の円環が、海の足元から広がっていく。
地面に刻まれた光の構文が、焼けた土を蒼白く照らした。
四重。
頭上の空間にも蒼い光が走り、海を中心に球体状の術式が組み上がっていく。
裂けた空から降り注ぐ白い侵食の光を、蒼い構文の光が押し返していた。
二つの光がぶつかる境界線で、空気が焼ける。
「僕は今から、この世界の空間を、ほんの一瞬だけ書き換える」
《承知しています》
「成功しても、僕はたぶん立てなくなる」
《はい》
「それでも、凛さんの前に届けばいい」
海は息を吸った。
肺が軋む。
吸い込んだ空気の中に、凛さんの魔力の匂いがした気がした。
遠い。
けれど、確かにそこにいる。
「届いてからのことは、届いてから考えるよ」
海の指が、最後の一行を打った。
コードの終端。
関数の閉じ括弧。
四重の円環が同時に回転を始めた。
蒼白い光が渦を巻き、海の身体を包み込む。
髪が逆立つ。
眼鏡のレンズに術式の光が反射し、その奥の瞳が見えなくなる。
《魔力残滓の波長同期、完了》
《マスター。あとは、跳ぶだけです》
海は、血の味がする口で呟いた。
「届け」
それは祈りだった。
命令でも、演算結果でもない。
ただ、届いてくれという、祈り。
《マスターの緊急空間座標転移を即時発動》
海の身体が、光に呑まれた。
四重の術式が同時に崩壊し、蓄えられた全エネルギーが一点に収束する。
空間が裂けた。
今度は、海自身の手で。
* * *
辿り着いた場所は、地獄だった。
死の静寂。
焼けつく魔力の残滓。
そして、その中心に、凛がいた。
白銀の髪は泥と鮮血に汚れ、かつて光を宿していた碧眼が、虚空を彷徨っている。
あの日の少女の面影は、どこにもなかった。
けれど、海にはわかった。
目の前で壊れかけているこの人が、自分の前に立ってくれた、あの人だと。
「……凛、さん」
海は膝をつき、震える手で彼女を抱き寄せた。
指先に触れる肌は、急速に熱を失っている。
命が、冷たい物質へ変わっていく。
あの日、手を差し出さなかった少女。
「立てるでしょ?」と言った少女。
その手が、今、こんなに冷たい。
「……そんな顔、しないで」
凛の唇が、微かに動いた。
焦点の合わない瞳が、ようやく目の前の少年を捉える。
「人は……死にかけると、案外、相手の顔ばかり見るのね」
血に濡れた口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
笑おうとしたのだ。
「困るじゃない。最後にそんな顔を置いていかれたら……私の美意識に、傷がつくわ」
「凛さん……っ」
「泣かないで、とは言わないわ」
凛の声は、今にも風に溶けそうだった。
それでも、その言葉の芯だけは折れていなかった。
「泣いた顔って、情けないもの。でも……立つなら、少しだけ見られる顔になる」
海の喉が詰まった。
「強くなっていたのは……私だけじゃ、なかったのね」
凛は、慈しむように目を細めた。
「少し……見直したわ」
凛の手が、力なく上がる。
海の頬をなぞろうとして。
届く前に、砂利の上へ落ちた。
指先から、魔力の残滓が蛍のように夜空へ溶けていく。
「凛さん」
返事はない。
「凛さん……っ!」
海は泣いた。
喉が壊れるほど、名前を呼んだ。
けれど、泣きながら。
震える膝を押し。
泥を掴み。
それでも、立ち上がった。
脳裏に、遠い日の声が蘇る。
ヒーローって泣くの?
泣く、かも。
でも、泣いても、立つ。
ヒーローとは、泣かない人のことではない。
震えても、怖くても、泣いても。
それでも、誰かの前に立てる人のことだ。
これは、堕ちた日の話ではない。
立ち上がった日の、始まりの話だ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
いいねやリアクションは、
海が勝手にログへ保存しておきます。
凛には「当然ですわ」と言われそうですが、作者は普通に喜びます。
続きが気になりましたら、
下のお星さまを、ぽちっと光らせていただけると嬉しいです。
いただいた星は、次回の変身エネルギーに変換されます。
たぶん爆発はしません。




