第338話 笑ってはいけない近衛兵
【近衛兵オットー視点】
『アヴァロン帝国歴180年 1月2日 ハーグ皇宮前 晴れ』
俺の名はオットー。アヴァロン帝国が誇る精鋭部隊、『ブルーコート』の一員だ。
かつて大陸を席巻し、数々の伝説を打ち立てた蒼き軍団。その末席に名を連ねることは、戦士としての最高の誉れである。
だが、現在の俺の任務は、敵を倒すことではない。
このハーグ皇宮の正門前に立ち、石像のごとく微動だにせず、警備を行うことだ。
ハーグは平和だ。
平和すぎて、皇宮前は完全に観光地と化していた。
「見て見て! あれが噂のブルーコートよ!」
「うわー、かっけー! 本物の軍服だ!」
「ねえねえ、一緒に記念撮影してもいい?」
観光客たちが、俺の横に並んでポーズをとる。
俺は眉一つ動かさない。視線は真っ直ぐ前へ。瞬きすら最小限に留める。
それが、近衛兵としての矜持だ。
俺たちには、鉄の掟がある。
動いてはいけない。喋ってはいけない。
そして――何があっても、笑ってはいけない。
もし任務中に歯を見せて笑おうものなら、即刻『減俸』処分。
最悪の場合、給料一ヶ月分が吹き飛ぶ。
これは、俺たちの生活がかかった、想像を絶する過酷な任務なのだ。
「ふふふ、この兵隊さん、全然動かないわね」
「こちょこちょしてやろうか?」
「やめなさいよ、捕まるわよ」
一般の観光客なら、まだいい。彼らは遠巻きに見ているだけだ。
問題は、俺を笑わせることを「日課」にしている常連たちだ。
午後二時。最大の試練がやってきた。
「あ! へいたいしゃん、いたー!」
この愛らしい声は……。
俺の視界の端に、最高権力者であるライル陛下と、そのお孫さんであるルーカス様が映り込む。
(げっ……! ライル陛下とルーカス様だ……!)
俺の背筋に冷や汗が流れる。
ライル陛下は、ニコニコしながら俺の目の前で立ち止まった。
「やあ、オットー君。正月早々、ご苦労様。寒いだろう?」
陛下、話しかけないでください。返事ができません。
俺は心の中で敬礼しながら、無表情を貫く。ここで口角を上げたら、今月の酒代が消えるのだ。
「あうー! へいたいしゃん、おこってる?」
ルーカス様が、純粋無垢な瞳で俺を見上げ、首を傾げる。
その仕草が破壊的に可愛い。だが、俺は表情を崩すわけにはいかない。減俸だ。減俸だけは避けねばならない。
「いやいや、ルーカス。彼は怒っているんじゃないんだよ」
ライル陛下が、ルーカス様に優しく語りかける。
よし、そうだ。説明してやってください、陛下。
「彼はね、今、必死にお尻の穴を締めて、オナラを我慢している最中なんだよ」
(ブフォッ!?)
俺の喉の奥から、変な音が漏れそうになった。
ち、違います! 何という冤罪ですか陛下! 俺の給料を減らす気ですか!?
「ちたの? おなら、ぷーなの?」
「そうだよ。だから、話しかけると『ぷー』って出ちゃうから、静かにしててあげようね」
「わかった! へいたいしゃん、がんばれー! しめろー!」
ルーカス様が、小さな拳を握って応援してくれる。
「しめろー!」じゃないんです、ルーカス様。周りの観光客が「えっ、あの人そうなの?」みたいな目で見てくるじゃないですか!
やめてくれ、その純粋な応援が、俺の腹筋と給料袋を切り裂いていく!
俺の顔面筋肉は、笑いと羞恥と理不尽さで、痙攣寸前だった。
笑ってはいけない。否定してもいけない。
ただ、オナラを我慢している人として、立ち続けなければならない。
これが……これが給料をもらうということなのか……!
「じゃあね、オットー君。任務、頑張ってね」
ライル陛下は、ニヤリと悪戯っぽくウィンクをすると、ルーカス様を肩車して去っていった。
去り際に、ルーカス様が手を振ってくれた。
「へいたいしゃん、でたら、おしえてねー!」
(……くっ、ううううっ……!)
俺は、唇を噛み締め、奥歯をガチガチと鳴らして耐えた。
体は小刻みに震えていたかもしれない。
だが、俺は笑わなかった。近衛兵としての威厳と、明日の生活費を守り抜いたのだ。
夕日が沈む頃、交代の鐘が鳴った。
俺は深く息を吐き、誰もいない詰め所で、膝から崩れ落ちた。
「……給料を守るのも、楽じゃねえなぁ」
今日もまた、ハーグの一日は平和に過ぎていく。
俺は明日もまた、この場所で笑いと減俸の恐怖と戦うのだろう。
笑ってはいけない近衛兵。
その戦いは、戦場よりも過酷である。
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