第336話 アーデル!
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴179年 12月10日 ゼナラ王国 王宮』
窓の外から差し込む柔らかな日差しが、揺り籠の中で眠る小さな命を照らしていた。
父さんたちがハーグの屋台でラーメンを啜っていた頃、僕とサラは、生まれたばかりの我が子に名前を贈ろうとしていた。
「……アーデル」
僕がその名を口にすると、サラはベッドの上で優しく微笑んだ。
「アーデル……。素敵な名前です。高貴で、そして強さを感じます」
「古語で『鷲』を意味する言葉だ。この子がいつか、自分の翼で自由に空を飛べるように。そして、広い視野を持って国を導けるように」
僕は、眠っている赤ん坊の頬を指先でそっと撫でた。
アーデルは、くすぐったそうに少しだけ顔をしかめると、またすやすやと寝息を立て始めた。その無垢な寝顔を見ているだけで、胸がいっぱいになる。
けれど、別れの時間は迫っていた。
「ごめんね、サラ。……そろそろ、僕はハーグへ戻らないといけないよ」
僕は努めて明るい声で言った。
「戦の事後処理や、父さん――皇帝陛下への報告もある。いつまでもここに留まるわけにはいかないんだ」
サラは寂しげに瞳を揺らしたが、すぐに気丈な王女の顔に戻って頷いた。
「わかっています、フェリクス様。貴方には貴方の、果たすべき責務がありますもの」
「サラ……」
「来てくれて、ありがとうございました。貴方がそばにいてくれたから、私は安心してアーデルを産むことができました」
彼女は僕の手を握りしめた。その温もりを心に刻みつけ、僕は立ち上がった。
「必ず、また来る。今度はゆっくりとな」
「はい。お待ちしております」
名残惜しさを断ち切り、僕は部屋を後にした。
港には、帝国の威信をかけた高速戦艦、僕の旗艦『ユリアン皇帝』が停泊している。
タラップを上り、甲板に立つと、潮風が頬を叩いた。
遠ざかっていくラス・バハールを見下ろしながら、僕は確信していた。
サラと、そしてアーデルがいる限り、きっとゼナラは強い国になるだろう。そんな予感があった。
「出航!」
号令と共に、巨大な船体がゆっくりと動き出す。
(……やるべきことは、山積みだ)
僕は手すりを握りしめ、この地に残した課題に思いを馳せた。
特に、地雷の問題だ。
今回の内乱で、多くの地雷が埋められた。これを放置して帰るわけにはいかない。
僕はカールたちと工兵隊の一部を現地に残し、さらにゼナラの民を雇用して、地雷除去のノウハウを教え込む手配をした。
資金はハーグから出す。「公共事業」として発注する形だ。
(さすがに、僕たちの技術で作られた兵器だしなぁ。ばらまいて、知りませんでしたでは済まないからな……)
それが、大国としての責任だ。
平和になった大地で、子供たちが安心して走り回れるようになるまで、支援は続けなければならない。
冷たい海風に吹かれていると、ふと、温かいものが恋しくなった。
「そういえば……ハーグでは今、ラーメンっていう麺料理が流行っているんだっけか」
風の噂で聞いたことがある。
父さんや母さんも、お忍びで食べに行っているとか。
「帰ったら、すぐに食べに行こう」
湯気の立つ濃厚なスープを想像し、僕は少しだけ早足で船内へと戻った。
水平線の彼方、愛する家族と、未知なる美味が待つ故郷を目指して。
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