第332話 アヴァロンとルースキアの停戦条約
【宰相 グレン・オルデンブルク公視点】
『アヴァロン帝国歴179年 10月25日 午後 晴れ』
帝都ハーグの皇宮にある『鏡の間』は、張り詰めた緊張感に包まれていた。
私は胸ポケットから胃薬を取り出し、水なしで飲み込むと、大きく深呼吸をした。
(……まったく、陛下のせいで胃に穴が開きそうだ)
今日は、北の大国ルースキアとの停戦条約調印式である。
本来なら皇帝同士が顔を合わせるべきだが、向こうのイヴァン雷帝は「体調不良(おそらく癇癪)」を理由に欠席。
こちらのライル陛下は「カボチャの収穫が忙しいから」という理由で、私に全権を丸投げした。
結果、両国の宰相同士による調印となったわけだ。
「ルースキア帝国宰相、ヴィクトル・コルサコフ閣下の入室です」
重厚な扉が開き、ルースキアの使節団が入ってきた。
先頭を歩くコルサコフ宰相は、随分と痩せこけ、顔色が悪いように見えた。
無理もない。最強を誇った機甲師団が壊滅し、さらに首都を焼き払うという「脅迫状」を受け取ってここに来ているのだから。
「……オルデンブルク公。お招き感謝する」
「遠路はるばる、よくお越しくださいました。コルサコフ閣下」
私たちは中央のテーブルを挟んで向かい合った。
握手はなし。
冷ややかな視線が交錯する。
「単刀直入に言おう。我が国は平和を望んでいる。だが、それは屈服ではない」
コルサコフ宰相が低い声で切り出した。
「当然です。これはあくまで、現状の国境線を維持するための停戦。互いの主権を尊重するものです」
私は事務的に答えながら、条約書を広げた。
内容はシンプルだ。
即時停戦。軍の撤退。捕虜の交換。アヴァロンの保護下にあるゼナラとも停戦。
ルースキアにとっては不利な条件はない。むしろ、負け戦にしては温情措置と言えるだろう。
コルサコフ宰相が羽ペンを手に取り、サインをしようとした時だ。
ふと、彼の手が止まった。
「……一つ、聞きたいことがある」
「なんでしょうか?」
コルサコフ宰相が周囲を憚るように声を潜め、身を乗り出してきた。
「貴国の皇帝陛下がおっしゃっていた……『新型長距離砲』についてだ。あれは、本当に実在するのかね?」
ドクリ、と私の心臓が跳ねた。
来た。その質問だ。
当然、そんなものは実在しない。あれはライル陛下がカボチャ畑で思いついた、ただのハッタリだ。
だが、ここで動揺を見せれば、全てが水の泡になる。
私は表情筋を総動員して、能面のようなポーカーフェイスを作った。
そして、眼鏡の位置を直しながら、冷然と言い放つ。
「……閣下。軍事機密について多くは語れませんが、一つだけ申し上げましょう」
「う、うむ」
「我が皇帝ライルは、嘘をつくことが何より嫌いな御方です。……もし疑わしいとお思いなら、条約の調印を拒否されても構いませんよ? その代わり、帰りの空模様には十分お気をつけください」
私の言葉に、コルサコフ宰相の顔色がサッと青ざめた。
彼はゴクリと唾を飲み込むと、震える手で急いで書類にサインをした。
「わ、分かった! 疑ってなどいない! 直ちに調印しよう!」
サラサラサラ……。
乾いたペンの音が、静まり返った広間に響く。
続いて私も署名を行い、公印を押した。
「……これで、条約は成立しました」
私が宣言すると、コルサコフ宰相は逃げるように立ち上がった。
「うむ。では、我々はこれにて失礼する! ……くれぐれも、ボタンの掛け違いがないように願いたいものだ!」
彼らは嵐のように去っていった。
おそらく、一刻も早く「長距離砲の射程圏内、と思い込んでいる場所」から離れたいのだろう。
バタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、私は椅子に深くもたれかかった。
「……ふぅぅぅ」
長い長いため息が出た。
背中は冷や汗でびっしょりだ。
一国の宰相が、他国の宰相相手に壮大な詐欺を働いたようなものだ。
だが、これで数百万の市民の命が救われたと思えば、安いものかもしれない。
「まったく、ライル陛下には困ったものだ……」
私は再び胃薬を取り出した。
平和は守られた。
だが、この平和が「カボチャ畑の嘘」の上に成り立っていることを知っているのは、私と陛下だけである。
窓の外には、アヴァロンの秋空が、穏やかに広がっていた。
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