第三話
「はい、じゃあHRはこれで終わり! 全員解散!」
終業のチャイムが鳴り響く中、いち早く荷物をまとめ、教室の誰よりも早く教室を飛び出していったのは、担任の先生その人だった。
終礼もせずに帰っていいのだろうか、などと悩んでいた時期はとうに過ぎ、クラスメイトの面々は最早慣れた様子で賑やかに帰り支度を始めていた。
さて、俺も部活に行かねばならない。
そう思い、ゆっくりと椅子を引き、立ち上がった時のことである。
机の上に置いていたシャープペンシルを、誤って落としてしまった。
――硬質で、軽い音が響いた、瞬間。
俺の席に近いクラスメイト達の肩が、一斉にビクッと飛び上がるのが見えた。
時が止まったような、水を打ったような一瞬の静寂。
その後に、何事も無かったかのように会話を、帰り支度を再開させるクラスメイト達。
しかし彼らは、一切こちらに視線を向けようとはしない。
人の視線が、俺を中心として同心円状に広がっていくような感覚。
これくらいのことは、慣れている。
言ってしまえば、日常茶飯事なのだ。
立ち上がっただけ、すれ違っただけ、そこに立っていただけ。
それだけのことで、怯えられ、避けられてきたのだから。
急いでシャープペンシルを拾い、手早く荷物をまとめて、俺はその場を離れた。
こういう時、最後列の席は出口に近くて、便利だ。
――「お、今日は部活の日だっけ?」
そんな俺の背中に、声を掛ける者がいた。
「……ああ、月曜だからな」
振り返ると、翔太がひらひらと手を振っていた。
「いってら、がんばれなー」
「……おう」
まったく、毎度ながら、翔太には頭が上がらない。
この少しばかりの会話だけで、自分の足取りが少し軽くなっていることを、俺は自覚していた。
――「遅い」
部活から帰宅し、自宅のリビングに入った瞬間に投げかけられた言葉が、それだった。
しかも、その言葉を発した相手は、血の繋がった家族ではなく、言うなれば赤の他人。
「何故、小町がここにいる?」
「それはね、小町ちゃんのお家の人が今日はいないから、ご飯一緒に食べてあげて―って小町ちゃんママに言われてたからよ?」
俺の質問に答えてくれたのは、小町ではなく母親であった。
鍋掴みをはめ、大きな鍋を台所からこちらへ、えっちらおっちら運んでいる。
「危ないぞ、そんな大きいもの運んだら」
そう諫めつつ、俺は母さんからひったくるようにして鍋を掴んだ。
母さんは、小町に負けず劣らず小柄で華奢だ。俺の遺伝情報に母さんの要素がもう少し多かったならば、俺の身長は標準程度で収まっていただろう。
「あら、ありがとう。大和は優しい子に育ったわ」
「そういう気遣いが学校でも出来たら、もっとマシになるんじゃないの?」
「そんなことをしても、怖がられるのが落ちだと思うがな」
小町の言うことも理解はするが、結局は無駄だろうと思ってしまう。今日のように、ペンを落としただけであんな空気を作り出す男に何をされても、恐ろしいだけだろう。
嫌なことを思い出した頭を振り、俺は鍋を机の上に置いて荷物を下ろした。
「ほら大和、ご飯の用意できたから、手を洗ってらっしゃい。
せっかく小町ちゃんが作ってくれたんだから、温かいうちに食べないと」
「え、小町が作ったのか?」
「なによ、何か悪い? ちゃんとお母さんにも味見して貰っているんだし心配することはないわよ」
「いや、別に珍しいと思っただけだ」
可愛らしい外見とは裏腹に昔から、お人形遊びよりも鬼ごっこ、ケーキバイキングよりも焼肉食べ放題を選ぶようなあの小町が、料理をするだなんて。
「小町ちゃんも高校生だし、ご飯を食べさせてあげたい相手が出来てもおかしくない年頃よねぇ」
「えっと、いや、だからそういうんじゃないんですお母さん!」
「大丈夫、分かっているから。私はしっかり応援するわ」
「全然分かってませんよね!?」
顔を赤くしてギャーギャー騒ぐ小町と、悪戯めいた笑みを浮かべる母さんの様子に、俺は少し、安堵していた。
今日は色々あったけれど、温かい日常がここにある。
落ち込んで冷えていた感情が、温められて綻んでいく。
特別なことなんて何もない、ただの他愛もないやりとりを見ているだけなのに。
俺は少しだけ笑みを零して、手を洗いに向かった。
小町が作ったポトフは、いつも家で食べる味とは違ったけれど、美味しかった。
誰にも読まれないまま、完結まで頑張っていこうと思っていた拙作を、何故かブックマークしていただいてしまっている方が何人もいらっしゃって私は手が震える思いで執筆しておりますわ……
本当にありがとうございます乱文失礼致しました