52 星に願う
突然七緒が私たちに背を向けて駆け出した。
「おーい、七ちゃんどこ行くんだよ……ってうわー」
「こら、詩音。余所見すんな!」
自転車に乗っていた詩音がよろけ、吏樹さんが手を伸ばす。
転倒してすぐに立ち上がり、詩音は自転車を置いたまま七緒の後を追いかけた。
「詩音、おいこら自転車!」
七緒は、ピンク色のフリスビーがグループから遠く離れてこちらまで飛んできたので、取りに走ったようだ。
どこかにいってしまうわけではなさそうだったので、私達も揃ってゆっくりと七緒のもとへと歩いた。
向かいからフリスビーで遊んでいた三人の女の子たちが駆けてきて、七緒の少し手前で立ち止まった。
コソコソ耳打ちをしてそれから三人で七緒を取り囲む。
「かってに取らないでよ!ドロボウ!」
すごい剣幕で怒鳴る声に驚いた。
聞き覚えのある声。
香澄ちゃんの声だ。
一緒にいるのは友梨ちゃんと理乃ちゃんのふたり。
近くに千秋たちの姿は見えない。
「かえせドロボウ!」
「あっ」
友梨ちゃんがひったくるようにしてフリスビーを七緒の手からもぎ取った。
バランスを崩し七緒が前のめりに倒れる。
「こら、君たち」
「ふっざけんな、てめぇ。七ちゃんになにすんだぁ!」
詩音が駆けつけ、拳を振り上げて誠司の前に出た。
誠司は女の子たちに声をかけるのを中断し、詩音の手を掴み引き止める。
「何あれ、キモっ。ドロボウ仲間?」
「あはは。ああ、きったない。フリスビー汚れちゃった」
「ね〜」
咎められても平気な顔で、三人はチラチラとこちらを振り返り、笑いながら逃げていく。
「知ってる子だな。七緒の幼稚園で見た子たちだ」
「そうだね。……七緒、大丈夫? びっくりしたね」
七緒の前にしゃがみ込み、声を掛ける。
七緒は無言で立ち上がると、私の肩にぎゅっとしがみついた。
「飛んできたから取ってあげようと思った。ドロボウするつもりはなかった」
「わかってるよ」
平然として見えるけれど七緒は傷ついている。わかる。
抱き上げると無表情に見えた七緒の目からぽろりと一筋涙が落ちた。
「そうだ。さっき七緒が知りたがってたバッタのこと、教えてあげようか」
「ん、ショウリョウバッタ?」
「なにそれ。七ちゃんまじでバッタの種類分かんの?」
七緒がぱっと顔を上げると、詩音が七緒の言葉に食いついた。
ふたりの視線が私の脇にかかっている虫かごに注がれる。
「ブー。これはショウリョウバッタじゃないんだなあ。見比べたらすぐに分かるから、みんなで探しに行こうか。さっき莉音ちゃんが網持ってママと草むらの方に行ってたよ。合流しよう」
「はぁっ? 姉ちゃんなんで勝手に先行ってんだ」
「はは、なんでだろうねえ」
詩音が口を尖らせるのを見て誠司が苦笑する。
「莉音がずっと声かけてたのに、お前が無視して自転車乗り続けたんだろーが」
「そーだっけ? しらねぇ。さ、七ちゃん行こーぜ」
自転車を押して合流した吏樹さんが詩音の頭を叩くと、詩音は私の胸にいる七緒の手を引いた。
七緒をおろしてやると、ふたりは手を取り合って駆け出した。
振り返ると少し離れた松の木の周りで香澄ちゃんたちが走り回っているのが見えた。
抱っこ紐をかけているのは千秋だろうか。
七夕会の後、香澄は園に行けないと毎日泣いている、なんで私たちの方が園から追い出されなきゃいけないの? と迫った千秋の姿が浮かんだ。
「気にするなよ」
「ううん。でも、良かった。香澄ちゃんたちも千秋も元気そうで」
「元気っていうか……夕子はお人好しだなあ。俺だったらあんな態度取るやつ確実に呪うけどな」
誠司がため息をつく。
「お人好しじゃない。計算高いの。相手の心が平和でいてくれたら私達は安全だもん。香澄ちゃんや友梨ちゃんが元通り園のお友だちと楽しくいてくれたほうがいいのよ」
「そうかなあ。やっぱり人がいいよ。夕子は。」
愛羅ちゃんママから電話で聞いて、香澄ちゃんが元通り登園していることや、千秋が友梨ちゃんママたちと今でも一緒に過ごしていることを知ってはいた。
それでも実際に目にすると不思議とホッとした気持ちになった。
同時に私と七緒は弾かれてしまったんだという実感も湧く。
でも弾かれることなんて大した痛手ではない。
気持ちの変化に自分で驚く。
「あんな事件、学校に上がる頃にはみんな忘れてるわ」
「まぁ七緒の居場所なんて他にいくらでもある。やっぱり詩音くんたちと七緒は馬が合うよな。喧嘩もするし、いいときばっかじゃないだろうけど」
詩音たちがしゃがみ込み草をかき分けている姿が映る。
七緒が自然と打ち解け、笑い合っているのを見るとホッとする。
「見なさい。こんなに捕まえたんだから」
莉音が網を小脇に抱え、大威張りで虫の入ったスーパーのビニール袋を開いて見せる
「わあっ、すごいいっぱい! ショウリョウバッタ。トノサマバッタもいる」
「姉ちゃんずりー。今度は俺の番だぞ」
「やめて!」
詩音がひゅっと莉音の網を奪い取ると、すぐさま後ろに立っていた吏樹さんが黙って網を取り上げた。
「見てご覧。ショウリョウバッタは足が茶色で長いの。かごの中のおんぶしているのは足まで全部緑でしょ。これはオンブバッタっていうの」
隣に虫かごを置き、袋の中にいたショウリョウバッタを指さすと、三人は急に静かになった。
頭を突き合わせて虫かごと袋を覗き込む。
「何だそのなまえ。まんまじゃん」
「オンブバッタ……じゃあこの子はずっとおんぶしているの? 大変だね」
「えーっ、おんぶしてるからオンブバッタなの? じゃあショウリョウバッタはなんでショウリョウバッタっていうの?」
「私、知ってるよ。それはね……」
得意げな顔をした七緒のトークが始まり、私はそっとその場を離れた。
ここからは子どもたちの世界だ。
同じように子供から開放された大人たちがなんとなく近くに寄り合う。
「あの、姉ちゃんが嫌じゃなかったらさ、七ちゃんタンポポ幼稚園に来たらどうかな。詩音も喜ぶしさ」
「うん……」
三人の姿を眺めながら朝子が言った。
妙に真剣な口調だった。
詩音の自転車は口実で、朝子はきっと最初から七緒をタンポポに誘うために、今日私達を河川敷に呼んだのだろう。
また幼稚園に通うことを考えると、ひかり幼稚園での出来事が浮かんで、すっと胸に不安がよぎった。
莉音に負担をかけてしまうんじゃないか。
詩音に恥ずかしい思いをさせて、嫌われてしまわないだろうか。
朝子が嫌な思いをしないだろうか。
香澄ちゃんや千秋みたいに……。
「夕子」
誠司の声にハッと顔を上げた。
目をあわせ、不安をふるい落とす。
完璧な私がいないように完璧な環境もありえない。
先のことなど誰にもわからない。
「うん。詩音くんたちと一緒に通えたらいいな。でも二学期は行事も多いし、七緒はまだまだ集団にはいる準備ができてない。新しい場所も苦手だし。もう一度プレから園に慣らしておきたいから、だから春になったらきっと……」
不安に怯える私を支えようとするように、誠司がぎゅっと手を握る。
三人の子どもたちは頭まで草まみれになりながらじゃれあって、もう虫取りやら自転車やら何で遊ぼうかなんてことはどうだって良くなっている。
一緒にいられれば、それだけで楽しい。
それで十分だ。
「あ! 白いお月さまがある。なんで?」
「俺なんか一番星みっけたし!」
「はぁっ? 嘘ばっか。こんな明るいのに星なんか見えるわけないじゃん」
「俺には見えんだよっ!」
三人は草むらに倒れるようにして寝っ転がり、空を見上げた。
一斉にバッタが音を立てて跳ね上がる。
「ホントだ、お月さまが出てるね」
空を見上げるとうっすら軽石みたいな月が浮かんでいた。
「星は? 見える? 見えないでしょ?」
「そうねぇ、星は見えないかなあ」
飛び起きた莉音にせっつかれ目を凝らすも、星までは見えない。
清々しいくらい真っ青な空。
そこにあるだろう見えない星々に向かって私は願う。
どうか、もう不安に脅かされて完璧を目指したりしない私であることができますように。
どうか、私には家族を大切にする力があると信じられますように。
七緒を守ることができますように、どうか……揺れる私を好きになれますように、と。
完結です。
長い間追ってくださりありがとうございました!
また数日後執筆雑感(あとがき)を『にけノート』に残しました。
よろしければご覧いただけると嬉しいです。
ランキングタグに入れてあります。
本当にありがとうございました!




