第44話 『絶対正義』の聖女は──【エルシー視点】
処刑執行日以降、エルシーは自身の執務室兼私室に軟禁状態になっていた。アルエットの処刑が“無事失敗”に終わったことで、エルシーが神託通りに死を迎えないようにと言われ、従うしかなかった。
神託の信憑性に疑念があると訴えても、誰も耳を傾けてはくれない。皆が「エルシー様はお優しすぎるあまり、自身を犠牲にしようとしていらっしゃる」と、勝手に決めつけた。
みんなに会いたい……わたくしの言葉に耳を傾けようとしてくれる、みんなに……
近衛騎士たちとは、目を見て、声を聞いて、会話ができていた。『絶対正義』に影響されていたとしても、ここまで端から決めつけてはこなかった。
一人部屋に閉じ込められてしまったエルシーの傍には、メサンジュがついてくれている。教会の取り計らいによって、友人であり、兄のように慕い、神官側で最も親したかった彼を選んでくれていた。心を許せる人が一人いてくれるだけで少しだけ楽になれたが、気が晴れることはなかった。
「サイラスやロンディネはどうしていますか? まだ会えないんですか?」
「申し訳ございません、エルシー様……彼らは罪人たちと関係が深いので、会わせられません。もし二人が裏切り、罪人の代わりに君を暗殺しようとしたらどうするのです」
「サイラスもロンディネも……アルエットたちもそんな人ではありません! メサンジュ、どうしてわたくしの言葉を信じてくれないんですか?」
処刑執行日から一週間、この問答を毎日毎日何度も繰り返しているが、これまでに一度も聞き入れてもらえていない。サイラスとロンディネは作戦決行後も教会に残れるよう立ち回っていたはずだが、ずっと会うことができず、本当に無事なのか心配は募るばかりだった。
「信じていないわけではありません。ですが、私たちは君を守らなければならないのです。どうかご理解ください」
「では窓から、遠くから一目だけでも二人に会わせてください!」
「なりません。結界は十分に施してありますが、神託が下っている以上何があるかわかりません。それに、アルエット殿は『無効化』で結界すら物ともしないのです。窓にも決して近づかないようにと……こんなことを君に強いるのは心苦しいのですが、これは大司教からの命令でもあるのです」
カーテンで締めきられた窓を見て、エルシーは項垂れる。太陽の光も、もう一週間浴びていない。カーテンの隙間から僅かに差し込む日差しがたまらなく恋しかった。
これでは、まるでわたくしの方が罪人みたい。
「君には私がついています。どうかもうしばらくご辛抱を」
メサンジュにそっと手を掬われ、励ますように優しく握りしめられる。日を追うごとに、心が固くなっていく。メサンジュを信頼していたのに、あまりにも話を聞いてくれないことに腹が立ち、その手を強く振り払った。
「エルシー様……」
メサンジュの水色の瞳が、悲しく切なげに細まる。その奥に秘めた傷心を隠すように彼は目を伏せた。
エルシーの願いを何度もこうして断る彼も大変なはずなのに、配慮が足りていなかった。大人げなく、駄々をこねる子供のような真似をしてしまったと自身を恥じた。
「ごめんなさい、メサンジュ……あなたは何も悪くないのに、わたくしは……」
その瞬間、頭に鋭い痛みが走る。頭の奥から焼けついていくような熱さと、内側から突き破られるような痛み。エルシーはたまらず頭を押さえ、膝から崩れそうになる。
「……っ、あぁ……!」
「エルシー様、大丈夫ですか!?」
メサンジュに体を支えられ、ゆっくりとその場に座わる。それでもなお、頭痛が止むことはない。
『生命より出でし力を無に帰する者、人の形を成して人にあらず。罪深き災いの芽となりて、混沌を唄う。災いの唄、聖の声を告げる者を冥府へ誘い、光は閉ざされる。銀の刃にて断罪せしとき、その罪は洗われ、人々の安寧は守られるだろう』
まただ。またあの神託が、鐘を叩きつけるように頭の中で響く。立ち眩み程度だった神託の予兆は、日に日に悪化し、今はこうして立っていることもままならないほどの頭痛を伴うようになっていた。
なぜ神は、わたくしにこのようなことを強いるんだろう。
わたくしは一体どんな罪を犯して、こんな痛みに苛まれているのだろう。
それは『絶対正義』によって人心を歪めた罰か。それとも神託を疑う穢れた心への罰か。
「サイラス、ロンディネ……」
痛みの中、愛する人の名前を呼んでいた。大切な仲間の名前を呼んでいた。縋るように、一縷の望みに賭けるように。一目でも会えたら、救われるような、そんな気がして。
「フィンチ、アルエット……」
苦しいこともあった。けれど確かな温かさと笑顔があった。暗闇の中に明かりが灯るように、皆との記憶が蘇る。
「──シーニュ……」
彼がいてくれたら、いつものように励まして正しく導いてくれるだろうか。助けを求めるように、無意識に伸びた右手を誰かが握りしめる。
「エルシー様、お気を確かに」
「メサンジュ……また迷惑をかけてしまいましたね」
「迷惑だなんてとんでもございません」
手を握ってくれたのはメサンジュだった。彼に支えられ、近くのソファへと腰を下ろす。グラスに水をもらって一口飲むと、緩やかに頭の痛みも引いていった。
「……エルシー様、君の傍には私がいます。どうかもう、彼らに縋るのはおやめください」
「あなたのことは信頼しています。ですが、皆のことも……信頼しているのです」
どちらの心にも嘘はない。信じている。大切なものを天秤の両側にかけてどちらかを選ばなければならないような状況……きっと今が一番の苦境なのだ。ここを耐え忍び、乗り越えられたら──雨上がりの空のような明るい世界で、また皆で笑いあえる日々が戻ってくる。そう言い聞かせて、心を奮い立たせた。
「エルシー様、申し訳ありませんが……その……シーニュ殿は、ずっと君を裏切り続けています」
言いにくそうに視線を彷徨わせながら、メサンジュは絞り出すような声で静かに呟いた。その言葉の意味が信じられず、驚きの声すら出なかった。
「君を傷つけたくなくて、ずっと黙っていました。彼の『攻撃反射』は、恐らく『絶対正義』を反射しています。エルシー様は異様なほど、シーニュ殿に傾倒していることにお気づきでしょうか?」
『攻撃反射』が『絶対正義』を反射している……?
嫌な予感にゾクリと背中が震え、途端に体が芯から冷えていく。体温を逃さないよう、きつく自身の腕を抱きしめた。
「申し訳ございません。当時、力のことは半信半疑でしたが……君の救いになるならと彼を引き入れてしまいました。軽率さが招いた、私の失態です」
どうして今まで一度も考えなかったのだろう。シーニュの加護の『攻撃反射』の性質を考えれば、彼自身は干渉されなくとも、無効化しているというわけでもない。必ずどこかへ向かって跳ね返っていたはずなのに。
実態を伴っていないものは大抵は相手に返る、とシーニュが話してくれていたことを今になって思い出す。
違う……気づいてしまったら壊れてしまうから、意識の外へ押し出していただけなのかもしれない。
その瞬間──薄氷を踏み砕くように、必死に保ってきた心の外殻が割れた。心の中の柔らかい部分は腐り落ちた果実のように潰れ、その悲鳴が外殻のヒビ割れから漏れ出して伝い落ちる。緩やかに握り潰されていくようにぐちゃぐちゃに混ざり、形が失われていくようだった。
「そんな……いえ、でも……それでも、シーニュはそんな人ではありません」
「清廉で正しい人だと、『絶対正義』によって思い込まされているだけではありませんか? どうして彼を、そこまで盲信できるのですか?」
信じていたはずのシーニュの姿が崩れていく。見えていた彼が、本物ではないとしたら、シーニュの真の姿とはどんなものなのか。
「アルエット殿を聖騎士団に招いたのはシーニュ殿です。アルエット殿も『自分がエルシーに成り代わろうとした』と自白していたでしょう。シーニュ殿は『無効化』を持つ彼女と結託し、君を裏切ったのです」
「そ、そんなはず……そんなはずはありません! だってシーニュもアルエットも、いつもわたくしに……」
「であればなぜ、シーニュ殿はエルシー様に反射の事実を黙っていたのですか? 黙っていることを不誠実だと感じないのですか? 君はどこまでシーニュ殿を盲信するおつもりですか! シーニュ殿は君の『絶対正義』による信頼を利用し、君の感情を操っていたも同然なのですよ!」
エルシー自身、自分が『絶対正義』に影響されているなんて疑いもしていなかった。他者の目が歪むことはあっても、自身の目や心だけは正しいものが見えていると……信じていた。
シーニュには何年も支えてもらってきた。彼がいなければ、きっと心が折れていた。彼だけが唯一『絶対正義』の影響を受けずに接してくれる人だと信じていた。
アルエットはいつも話を聞いて笑ってくれて、心に明るさを取り戻してくれた。彼女を中心にして『絶対正義』を乗り越えるために協力してきた。対等な友人だと信じていた。
──自分の感情すら歪められた偽りなら、わたくしは一体何を信じればいいのですか……?




