第28話 小夜啼鳥は叶わぬ愛を唄う【エルシー視点】
報告書や式典行事に関する書類などに向き合い続け、エルシーは束の間の休息を取る。窓の近くに寄り、外を眺めると、屋外訓練場が見えた。今の時間はサイラスの隊が訓練に使っているようだ。
彼らもちょうど訓練の合間の休憩時間なのか、地面に座り込んで談笑している。エルシーの視線は、吸い寄せられるようにサイラスへと向けられていた。その隣には、陽を浴びて熟れたオレンジのような髪色に雨の色をした淡い青の瞳の女性……アルエットの姿があった。
「アルエットとサイラスは、とても仲がいいですね……」
ぽつりと、思考が口をついて零れ落ちる。二人で、何を話しているのだろう。くるくると表情を変えては、互いに笑い合っている。すっかり馴染み、砕けた雰囲気で接している様子に、キリキリと胸の奥が痛んだ。
「アルエットはサイラス隊での訓練が長いんですもの。当然と言えば当然ですわ。けれど、この短い間にあれだけ打ち解けて信頼されるのは、彼女の天賦の才でもありますわね」
「そうですね。アルエットと話していると、わたくしも心が明るくなるんです。サイラスが……サイラスたちが、あんなふうに楽しそうなのもよくわかります」
「えぇ。シーニュはとても良い人材を見つけたものですわ。まさに慧眼と言えますわね」
アルエットは、ロンディネからの評価も高い。ロンディネは人当たりは良いが、人を見る目は厳しく、そこに私情をあまり挟まない人でもある。そんな人からここまで絶賛されている。
けれどその評価に疑問は抱かない。飾らず素直で、ひたむきな努力家。訓練は厳しく、慣れない公務にも毎回同行しているが、つらそうにしている顔は決して見せない。彼女はあのカラッと抜ける晴天のような笑みを絶やさず、むしろ周囲に元気を与えている。
「アルエットはサイラスのことが好きなのかしら?」
「ロンディネにはそう見えるんですか?」
ロンディネの素朴な呟きに、エルシーの心臓が小さく跳ねる。ロンディネから見てそう感じるのなら、もしかしたら二人は両想いなのかもしれない。その瞬間、エルシーの心の中に、燻ぶるような小さな焦燥が生まれた。
「見えるというより……お祭りにサイラスを誘ったと聞いただけで、確証があるわけではありませんわ」
「あれはわたくしの方からサイラスを推薦したんです」
「そうでしたの? であればあたくしの勘違いかもしれませんわね」
少なくともサイラスは、アルエットのことが好きだ。だから彼を応援するつもりで、アルエットのお祭りへの同行相手として勧めた。
応援……しているはずだった。なのに今、“勘違いかも”という言葉を聞いて、ホッとしてしまった。この心には、二人が両想いになって結ばれることを喜ばない感情が潜んでいる。
「ですけど、相性は良さそうなお二人ですわ。その場にいると、ふっと緊張を解してくれる雰囲気がよく似ていますもの」
「えぇ。わたくしもそう思います」
ロンディネの言う通り、相性は良さそうに見える。二人とも感情豊かで、気さくで、よく笑う。張り詰めていた心を優しく解いてくれるような安心感も、よく似ていた。
羨ましい。
もし聖女に選ばれず、あのまま故郷にいられたら。昔のエルシーには、アルエットに似ている部分もあった。あの頃の自分のままでいられたら、サイラスは……好きになってくれただろうか。
今の自分は、あの頃に比べてすっかり変わり果ててしまった。もうどんな感情を抱いて、どんな価値観や考えを持っていたのかも思い出せない。演じることすら難しいほどに、あの頃の自分は、自分ではなくなってしまっていた。
* * *
今夜も、いつもの通りの時間にアルエットが遊びに来てくれた。エルシーの執務室の片隅に備えつけられた小さなキッチンで、アルエットが紅茶を淹れる。
一度教えただけだったが、アルエットはすぐに淹れ方を覚えた。あっという間に上達し、今ではとても美味しく淹れられるようになっている。水色は美しく、香りもいい。一口口にすると、まろやかな渋みとすっきりとした味わいが口内に広がった。
「聞いてよ、エルシー。今日サイラスがさぁ──」
少し前から、アルエットはサイラスの話をよくするようになった。あれはちょうど、討伐任務でアルエットが大怪我を負った時期だったように思う。しばらく夜のお茶会も中止されていたが、怪我が快方に向かい、再開されるのと同時に、彼のことが話題によく上がるようになった。
『お疲れさま、エルシー』
ふと、サイラスの声が脳裏に響く。エルシーは最初その声を聞いたとき、何が起きたのかわからなかった。
ずっとサイラスは「エルシー様」と、エルシーとは聖女と騎士の関係でしか接してくれなかった。それが突然、昔のように「エルシー」と呼び捨てにして呼んでくれるようになったのだ。
嬉しくてたまらなくて、エルシーは思わずサイラスに駆け寄った。あの頃の、昔のまま何も変わらない彼が帰ってきてくれたようで。『絶対正義』を乗り越えて、自分を見てくれるようになった気がして。
『どうして急に昔のように呼んでくれたんですか?』
その問いに、サイラスは照れ臭そうに頬を少しだけ赤らめて、けれどまっすぐにエルシーを見つめて微笑んだ。木漏れ日のような彼の若草色の瞳に焦がれて、その煌めきに心惹かれて、期待に胸を高鳴らせていた。けれど、彼はこう言った。
『アルエットから……エルシーって、昔みたいに呼んだら、あなたが喜んでくれるって聞いて……』
その一言が、彼の嬉しそうな表情が……心の柔らかいところを小さく引っ掻いた。昔のように親しみを込めて呼ばれて嬉しいはずなのに、アルエットのおかげで一つ望みが叶ったのに、素直に心の底から喜べなくなっていた。あのときにはわからなかった気持ちが、今は少し理解できるようになっていた。
「──ってことがあったんだよね。サイラスってホント、みんなのことよく気にかけてるなって。フィンチ先輩とか隊長として部下のこと気にかけたりするのかな?」
「フィンチもああ見えて意外と部下思いなんですよ。言葉は……少し毒が多いですが」
「へぇ……やっぱフィンチ先輩もちゃんと隊長なんだ。まだ任務に同行したことないからちょっと想像つかないや」
アルエットは目を丸くしながら、信じられないと言わんばかりに大げさに肩を竦めた。
フィンチはまだ十六歳の未成年者であり、見た目や協調性に欠けた言動から、幼く見られやすい。戦闘は魔術を主体とした後衛で、魔物討伐のような任務よりも調査や解析を担当することが多く、隊の者もそういった任務に強い者たちで編成されている。アルエットはそういった任務につく機会がなく、彼の真の実力を知る機会もなかなかないのだろう。
「エルシーは今日なんかあった? 楽しいこととか」
「そうですね……わたくしは……あっ」
今日のことを思い出していると、ふと休憩時間に見たアルエットとサイラスの姿が頭に浮かぶ。一度思いついてしまうと、気になって頭を離れなくなってしまった。こんな話題を振っていいのか、墓穴にならないかと悩み、慎重に口を開く。
「わたくし、恋愛話を一度……聞いてみたかったのを、今思い出しました。アルエットは村にいたときとか……好きな人がいたりはしませんでしたか?」
実際、十二歳で聖女となり、『絶対正義』の影響もあって、恋愛話ができるような気心の知れた友人はできなかった。シーニュやメサンジュは異性であり、そういったことを話題にできるようなタイプでもない。この言い方なら、きっと変に勘ぐられたりはしないはずだ。
「恋なんて考えたこともなかった。私はさ、あの人とこうなりたいああなりたいみたいな……そういう未来のことは考えないんだよね」
アルエットは予想もしてなかった質問をされたせいか、面食らったような顔をして、ぱちくりと目を瞬かせている。あっけらかんと答える様子は、誰かに恋をしているようには見えない。
星誕祭の日、エルシーの「来年も花火を見よう」という提案を、アルエットは、「そんな先の話をしてどうするのか」といった様子だった。あれはやんわりと拒否されたのだと思っていたが、どうも違うらしい。アルエットはそもそも、未来というもの自体を考えていないようだった。
「考えないんですか?」
「うん。どうなるかもわからない未来なんかより、今日を後悔なく楽しく生きる方が大切じゃない? 私はそこに、毎日全力を注ぎ込んでるから!」
アルエットが、なぜ皆から好かれるのかがわかる。エルシーが地を這うかたつむりなら、アルエットは空を舞い、朝を告げる雲雀のようだ。
未来への不安や自分のことで手一杯でうじうじとしている自分と、余計なことは考えずに朗らかで前向きなアルエットでは、どちらが好かれるかなど一目瞭然だった。サイラスが彼女に心惹かれるのも、納得でしかない。
今からもし、サイラスに想いを告げたらどうなるのだろう。以前であればきっと、『絶対正義』の影響で想いを押しつけて実らせることができたかもしれない。けれどアルエットを想うようになった今は、『絶対正義』でどこまでその想いを歪めて、こちらへ向けさせることができるのだろうか。
もし仮にそんなことができたとしても、そんなふうには愛されたくない。だからこそ想いを諦めて、ひた隠してここまでやってきたのだから。
諦められたと思ってたのに……やっぱりダメですね……わたくしは。
サイラスの想いがアルエットに向いて初めて、幼い頃からの恋が終わっていなかったことにハッキリと気づいた。小さな火種のように燻って、息を潜めて、アルエットという薪が焚べられて……再燃してしまった。
わたくしの想いは、もう叶わない。
けどせめて、サイラスの想いだけでもどうか──
未来を見ない、恋を知らない彼女に、彼の想いが届きますように。そう、ささやかに祈ることしかできなかった。
「エルシーは恋とかしたことないの?」
「わたくしですか? わたくしは、十二歳から聖女として役目に追われる日々だったので。そんな余裕もないですし、『絶対正義』のせいでまともな人間関係すら築けない状態ですから、恋愛なんて夢のまた夢ですね」
サイラスへの想いを隠しながら、自分の置かれている現実を話す。改めて、自分に恋愛なんて無理なのだという現実をつきつけられた。恋をしたって、想いがあったって、『絶対正義』のせいで歪んで偽物に変わっていく。これほど虚しいことが、他にあるだろうか。
笑顔を作っているのも苦しくて、今アルエットに向けて上手く笑えているのかもわからない。震えそうになる指先を誤魔化そうと握りしめた手に、アルエットの手がそっと重なる。ぽかぽかと、毛布に包まったときのような穏やかな温かさだった。
「『絶対正義』……必ずなんとかしようね。エルシーが、めいっぱい恋できるように!」
本当に……本当に、あなたには敵わないですね。
どうして彼女は……どこまでも希望を見つめていられるのだろう。叶うかもわからない希望は、希望ではない。ずっと焦がれて見つめ続ければ、その眩さに目を焼かれて光を失うほどの絶望でしかないのに。
光を失いかけたエルシーに、それでもアルエットは光を見ようと言う。何度も見つめては、そのたびに心を折られてきた……この心に。残酷で、けれど優しくて、彼女なら導いてくれるのではないかと縋りたくなる。一人では見つめられなくても、彼女と一緒なら今度こそ見つめ続けられると信じたくなる。
「ありがとう、アルエット。そうですよね……せっかくロートヴィル村から、遥々あなたが来てくれたんですから。わたくしがここで諦めてはダメですね」
「そうそう、その意気だよ。長期戦になるかもだけど、私は諦めないから! ね?」
優しく、諭すように笑いかけてくれるアルエットの笑みが、希望そのものに見えた。目を焼くような残酷な希望ではなく、温かく日の当たる場所へと誘うような、柔らかな光のように。




