第1話 その鳥の羽ばたきは、嵐を呼ぶ
──当たり前の日常、そんなものはこの世のどこにも存在しない。
夕暮れの高原に響く、叫びと悲鳴。大猿の魔物の炎から、伯父のモーガンたちを助けようと、アルエットは立ち塞がって盾になった。
魔物が吐き出す炎が『無効化』されると、霧のように砕けて、淡く虹色に輝く。霞んだ視界の向こう、開いたままの口めがけて、アルエットは農業用フォークを突き刺した。けれど、引き戻そうとしてもフォークは引っかかったように抜けない。
「このっ、返せ!」
思いのほか、深く突き刺さってしまったようだ。足に力を入れ、全体重をかけて引いてもびくともしない。その腕に、熱気を帯びた生臭い息がかかった。
アルエットの足が、ふっと宙に浮く。魔物は吼えながら頭を激しく振り始め、吹っ飛ばされないようフォークの柄に必死でしがみついた。
縦横無尽に体を振られ、抜けたフォークごと空中に投げ出される。やがて地面にぶつかった肩が砂地を抉り、背中が擦り下ろされるように地面を滑る。アルエットは土埃に塗れて地面に転がっていた。
怒り狂った魔物が咆哮し、地響きを立てながら迫る。なんとか抵抗しようと、痛みに軋む体でフォークへ手を伸ばした。そこに、真上から影が落ちる。それが太い腕を振り上げる魔物だと気づき、視線が縫いつけられた。
結局私は、何も……
『無効化』の力は、アルエット自身を守るだけ。そして魔物の放つ魔力攻撃の盾になることはできても、物理攻撃の前で無力だ。
虚無感と共に、巨大な魔物の拳に叩き潰されそうになった瞬間──魔物を大きな氷が貫く。青白い棘が胸を食い破り、魔物はもがきながら絶命した。
静けさの戻った高原の街道に、音もなく風が吹く。その静寂を破るように、土と草を踏む足音がアルエットに近づき、少し手前で止まった。
「大丈夫か?」
軋む体をなんとか起こし、顔を上げる。夕闇のような紺色に柔らかな茜を溶かしたような不思議な色の瞳。淡い金色の髪が夕日を受けて麦の穂のように白く輝いて揺れている。
白と深い青を基調とした制服は、聖騎士団のものだ。目の前にいるだけで背筋が伸びるような厳格な印象を持つ青年……彼は、いまひとつ感情の灯らない表情でぽつりと呟く。
「危うく“希望”を失うところだった」
聖騎士の青年に助けられる少し前──
アルエットは、ロートヴィル村で牛や羊などの動物たちの世話をしながら、伯父夫婦のモーガンとリタと共に暮らしている。二人は、魔竜に両親と村を奪われたアルエットに帰る場所を作ってくれた恩人だ。
「残りは私がやっておくよ」
「いいのかい? あんたは働きもんだから、あたしもモーガンもいっつも助かってるよ」
リタのカラッとした笑みに、ふっと心の奥がほぐれる。アルエットは農業用フォークを握り直し、干し草を牛舎へと運んでいく。夜の気配を帯びた風が、いつもと変わらない干し草の匂いを乗せて吹き抜ける。
そんな王国の辺境にあるこの長閑な村に、不穏の足音が迫っていた。
「リタ! アルエットちゃん! 大変、大変だよ!」
ただ事ではない切羽詰まった声が、「日常」を引き裂く。隣の家のおばさんが青ざめた顔で、こちらへと駆けつけた。
「街道でまた魔物が出て、荷馬車二台がやられちまったって!」
春になったせいか、ここ最近魔物の出没報告が多く、活発化している。王国騎士団が動き、先週討伐作戦を行ったばかりのはずなのに。
「そんな……モーガンは……?」
いつもおおらかに笑っているリタの顔が、みるみる色を失う。その場にへたり込み、背中を震わせていた。
モーガンは今朝、加工品を卸すために街へと出た。順調ならもう村に着いていてもいい頃だ。モーガンの穏やかな笑みが、アルエットの脳裏をよぎる。その瞬間、体が自然と動き始めていた。
「リタおばさん、馬借りてくから!」
「アルエットちゃん!? やめとくれ! あんたにまで何かあったら……!」
「大丈夫、様子だけ見てくる!」
厩舎にいる一番速い馬に跨り、気休めの農業用フォークを手に取る。リタの悲痛な叫びに、アルエットは振り返らなかった。
──十年前。
忘れはしない。今もなお『オヴィス村の悲劇』として語り継がれるあの日の、鮮明に蘇る光景。一匹のはぐれ魔竜に村を焼かれる、あの朱を。
苦しみも叫びも……痛みさえも残らなかった場所で、アルエットはたった一人生き延びた。その身に宿す『無効化』の加護で。
加護がなかったら、どうせ私は終わってた。
今更、命は惜しくない。
戦ったことなんかないけど、せめて逃げる時間さえ稼げれば……!
モーガンを、今日失うかもしれない。差し迫る無慈悲な現実に、フォークの柄をきつく握りしめる。何もしなければ、日々がこの瞬間に失われる。そんな予感と焦燥に駆り立てられていた。
高原の街道でモーガンたちを見つけたアルエットは、彼らを守ろうと魔物に立ち向かった。そうして殺されそうになったところで助けてくれたのが、この聖騎士の青年だった。
「先ほどの力……もしや、君がアルエット・カルミア・スティーリア殿か?」
夕闇のような不思議な色の瞳と目が合う。美しく温かみのある情景を想起させるような色とは裏腹に、感情の薄い声だった。
痛みに軋む体をさすりながら、アルエットはゆっくりと呼吸を落ち着けていく。なんとか話せそうなところまで回復し、口を開いた。
「確かに、私がアルエットだけど……君は? なんで聖騎士がこんな田舎に?」
「俺はエーテル教会聖騎士団・騎士団長、シーニュ・ピエリス・アーヴェントロート。君に用件があって来たんだが……危なかったな。馬を飛ばして正解だった」
アーヴェントロート……ロートヴィル村を領地の一部に持つ辺境伯家。その次男が聖騎士団長をしている、というのは領民の間でも有名な話だった。
シーニュと名乗った聖騎士の青年は、一息つくように細く長く息を吐く。当主は気さくな人柄だと聞いていたが、息子である彼は無表情で愛想がまるでない。丁寧だが淡々とした物言いに、思わず気圧される。
「さっき言ってた希望って?」
「君のことだ」
「私が……?」
「それより怪我は? 立てるか?」
呆気に取られて固まっていると、さも当然のように彼は手を差し出してくる。態度のわりに妙に優しくて、戸惑った。
「あ、どうも……」
手を借りて立ち上がると、ここから離れるように促される。荷馬車との距離感に、あまり人に聞かれたくない話なのだと察する。
「早速だが本題に入らせてもらう。俺たちに……君の『無効化』の力を貸してはくれないだろうか」
用があると言われたときから、薄々そんな気はしていた。『無効化』の加護は希少で、過去にもほとんど例がないと聞いたことがある。こんな田舎にわざわざ騎士団長が訪ねてくるなんて、それ以外あり得ない。
「……それ、また私に囮になってほしいってこと?」
思ったままを口にして……少しだけ後悔した。頭の中に蘇る光景に、胸の奥底にある古傷が疼く。
『オヴィス村の悲劇』の件で王国騎士団は迅速に動き、魔竜討伐に乗り出した。その戦いの際、魔竜の引き付け役として囮に使われたのだ。
無効化できるなら、“死なない囮”になる、と。
魔竜の炎も味方の魔術砲撃も容赦なく浴びせられた。それでもこの体は、生き残った。偉い人たちの目算通りに。
「違う。君の力が、聖女様を救う可能性があるからだ。俺と共に、教会本部へ来てほしい。今は話せない詳細も、そこで開示すると約束しよう」
「うーん……」
聖女絡みなら、人払いしてなお、外で話すことが憚られるというのは理解できなくもない。そもそも騎士団長が部下も連れず単身でこんな場所に来ていること自体異常なのだ。それは暗に、身内にすら緘口令が敷かれていることを示していた。
けど、なんの役に立つの?
みんなを見殺しにして生き残るだけの力なのに……
「依頼に際し、君には聖女近衛騎士になってもらう予定でいる。待遇面での心配は不要だから、そこも安心してほしい」
「……え? 何言ってんの? 正気?」
「正気も正気だ」
アルエットは思わず耳を疑った。目の前の人物は今、堅物の生真面目な顔で“狂気”を口にしたような気がする。
「私が、聖女近衛騎士……? 無理……無理無理無理!!」
聖騎士の中でも、精鋭だけで組織されているという聖女近衛騎士。どう考えたって務まるわけがない。『無効化』一点突破でどうにかなるような役職ではない。しかもまともな戦闘経験はゼロだ。
「『無効化』を持つ君にしかできないことがある。君の力で確実に救われる者がいる。どうか俺に……俺たちに力を貸してほしい」
夕闇の色をした瞳が、真正面からアルエットを射抜く。表情にこそ愛想はないが、眼差しだけは誠実だった。
そしてシーニュは、アルエットに丁寧に頭を下げた。辺境伯家の貴族が、領主の息子が、聖騎士団長が……道端のペンペン草程度の存在に。
「わぁぁ!! 頭ッ、頭上げてっ! もうわかったから!」
どの道こんな偉い人が直々に来ているのだから、拒否権なんてあるわけもない。変にご機嫌を取られたり、無理やり脅されたりするより、余程マシだが、身分差的に頭を下げられても困惑しかない。
けれど彼の態度が、瞳が、これほどまでに本気なのだと物語っていた。
「君の思うように役立つ保証はできないよ。それでも良いなら、行く」
「ありがとう。君の協力的な姿勢に感謝する」
シーニュは表情を僅かに崩し、初めて人間味のある感情の色を見せる。微かに口元が緩み、喜びと安堵が滲んでいるように見えた。
「待って、タダで働くなんて一言も言ってないけど?」
目を眇めると、シーニュは途端に目を丸くし、それまでの無表情が大きく崩れる。注文をつけられることを意外だとでも思ったのだろうか。まさか何もなしに手伝わせようと思ってたわけじゃないだろうな、と軽く睨みつけた。
「あの家にとって私は労働力だからね。無償奉仕できるほど敬虔な信者じゃないし、抜けた穴はちゃんと補償してもらわないと」
教会の命令だとかなんとか言われ、権力で押さえつけられたらおしまいだということはわかっていても、黙ってタダ働きさせられるくらいなら交渉できることはしておきたい。もう言われるままに都合良く使われるのは御免だ。
「対価は何? ないならないで良いけど、相応の働きしかしないよ」
アルエットがいなくても、伯父たちだけで仕事は回せる。それでももし報酬がもらえたり補償があるなら、伯父たちの生活は楽になる。それでこれまでの恩を一つ返せるのではないかと考えていた。
「そんな程度で君が来てくれるなら、安いものだ」
「……え、いいの? そんなあっさり? 意外と話わかるね、君〜!」
足元見て出し渋られるかと思っていたが、まさか快諾してくれるとは。けれどそれは、『無効化』という力へかけられた期待の重さでもあった。
その後、アルエットとシーニュは改めて“対価”について話し合った。最終的に、新人の騎士と同じ給金が支払われること、伯父たちの生活費として補償金が用意されることで合意に至った。
そしてこちらに求めるものは『提示された依頼に対し、惜しみなく協力すること』の一点だけだった。
「これからよろしく頼む、アルエット殿……いや、アルエット」
「こちらこそ、よろしく」
シーニュは手袋を取ると、握手を求めてこちらへ手を差し出した。その騎士らしい大きな手をアルエットは握り返す。力強さと固い肌の感触は、農業用フォークを握りすぎて固くなったアルエットの手とよく似ていた。
聖女を救う──まるで英雄譚の始まりのような、栄光という甘い夢へと誘う響き。そして正義という名の狂気へ足を踏み入れる最初の一歩。アルエットが、歪みに絡め取られた瞬間でもあった。




