第一章 湖の少女
夏休みまで、あと三日。
それだけを心の支えに、俺――峰島高野は今日もベッドから這い出た。
「だる……」
朝六時四十八分。
スマホを見るとアラームが五分前から鳴り続けていたらしい。
俺は慌てて止めて起き上がり
制服に着替えて、顔を洗って、適当に朝飯を流し込んだ。
いつも通りの朝。
いつも通りの学校。
いつも通りの一日。
そう思っていた。
「行ってきます。」
誰もいない家にそう言って、俺は玄関のドアを開けた。
そして――
「……は?」
固まった。
目の前に広がっていたのは住宅街じゃなかった。
そこは湖だった。
どこまでも青く澄んだ湖。
風に揺れる草原。
遠くに見える山々。
朝日に照らされて、水面がきらきらと輝いている。
いや待て。
おかしい。
俺んちの前に湖なんてなかったよな?
少なくとも昨日までは、
俺は一度ドアを閉めた。
深呼吸をする。
そしてもう一度開ける、
湖だった。
「は?」
閉める。
開ける。
湖。
閉める。
開ける。
湖。
「は?」
理解が追いつかない。
だが、一つだけ可能性があった。
「なるほど。」
俺は頷いた。
「夢か。」
そうだ。
夢なら説明がつく。
玄関の外が湖でもおかしくない。
学校に行かなくてもいい。
最高じゃないか!
「よし、寝よ――」
「夢じゃないよ。」
声が聞こえた。
「……え?」
俺は顔を上げる。
湖のほとり。
そこに一人の少女が座っていた、
長い黒髪、白いワンピース。
年齢はたぶん俺と同じくらい。
少女は俺を見ながら小さく笑った。
「現実だよ。」
「いやいやいや!」
俺は即座に首を振った。
「現実なわけないだろ! 玄関開けたら湖なんだぞ!?」
「でも現実。」
「いやだから!」
「現実。」
「だから!」
「現実。」
「……。」
だめだ。
会話にならない。
というか。
「学校やばっ!!」
思わず叫んだ。
少女がきょとんとする。
「そこ?」
「そこだろ!?」
湖も問題だ。
だが俺的には遅刻も大問題である、
なぜなら皆勤賞がかかっているからだ。
少女はくすくす笑った。
その笑顔を見た瞬間だった、
胸の奥が少しだけ温かくなる。
懐かしい。
この感覚。
初めて会ったはずなのに。
なぜか昔から知っているような気がした。
「ねぇ。」
少女が立ち上がる。
そしてこちらへ歩いてきた。
「君、名前なんていうの?」
「え、俺?」
周りを見渡す。
当然誰もいない。
「峰島高野です。」
そう答えると少女は嬉しそうに笑った。
「高野。」
名前を確かめるように呟く。
なんだろう。
その呼び方が妙に心地良かった。
「で、そっちは?」
俺が聞き返す。
すると少女は少し考えてから、人差し指を口元に当てた。
「秘密。」
「いやなんでだよ。」
思わずツッコむ。
「人に聞いておいてそれはずるくない?」
「だって秘密だし。」
「理由になってないだろ。」
「なるよ?」
「ならねぇよ!」
少女は楽しそうに笑う。
なんなんだこいつ。
初対面なのにやたら距離感近いな。
「それより。」
俺は周囲を見渡した。
「ここどこ?」
「湖。」
「見れば分かる。」
みやはくすっと笑った。
「すごい!」
「なにが?」
「分かったんだ。」
「馬鹿にしてる?」
「少しだけ!」
肩が小さく揺れていた。
「おい。」
絶対馬鹿にしてる。
というかこの子、俺で遊んでないか?
「なぁ。」
「なに?」
「ここから出る方法知らない?」
少女はあっさり頷いた。
「知ってるよ」
「マジで!?」
肩から力が抜けた、
本当に助かった。
「どうすればいい?」
すると少女は右手を差し出した。
「手を繋ぐ。」
「はい?」
「それで目を閉じる。」
「待って。」
「待たない。」
「いや待て。」
「待たない。」
「頼むから待って!」
少女の手が、すっと離れた。
少女は不思議そうに首を傾げた。
「なにか問題ある?」
「問題しかないだろ。」
「なんで?」
「初対面だぞ?」
「うん。」
「男女だぞ?」
「うん。」
「手だぞ?」
「うん?」
話が通じない。
「もしかして…」
少女が少し意地悪そうに笑った。
嫌な予感しかしない。
彼女はにやけながら言った
「女の子と手繋ぐの初めてー?」
「あるわ!」
反射的に叫んでいた。
「彼女いたことあるわ!」
「ほんと?」
「ほんとだよ!」
「じゃあ繋げるね。」
「ぐっ……!」
しまった。
罠だった。
完全に、罠だった。
少女は勝ち誇ったようにくすくす笑う。
「ほら。」
右手を差し出してくる。
俺は数秒悩んだ。
だが学校もある。
他に方法もない。
「……わかったよ。」
観念して手を差し出す。
「これでいいんだろ。」
少女はその手を見つめた。
そして。
なぜか少しだけ嬉しそうに笑った。
「うん。」
そっと手が重なる。
温かかった。
驚くほど。
人の体温だった。
夢とは思えないほどに。
「目閉じて。」
「おう。」
言われた通り目を閉じる。
風が吹く。
湖の匂いがする。
そして。
握られた手が少しだけ震えていた。
「……?」
気のせいだろうか。
「どうした?」
俺が聞く。
だが返事はなかった。
数秒後。
小さな声が聞こえた。
「なんでもない。」
どこか寂しそうな声だった。
「もう目開けていいか?」
「うん。」
俺はゆっくり目を開いた。
そして。
「……戻った。」
見慣れた住宅街。
いつもの電柱。
いつもの道路。
いつもの景色。
湖はどこにもなかった。
「おぉ……。」
思わず感動する。
だが。
「ん?」
隣を見る。
少女はいない。
さっきまでそこにいたはずなのに。
どこにもいなかった。
「……マジでなんだったんだ?」
しかし考えている暇はなかった。
時計を見る。
七時四十三分。
「やっべぇぇぇぇぇ!!」
俺は全力で学校へ向かって走り出した。
当然。
遅刻した。
◇
「おーい高野」
教室に入った瞬間、聞き慣れた声が飛んできた。
「珍しいじゃん」
田島優斗。
小学校からの友達だ。
「お前が遅刻とかさ」
「聞いてくれ。」
俺は席に座るなり言った。
「今日な。」
「うん?」
「玄関開けたら湖だった。」
数秒の沈黙。
そして。
「ぶはっ!」
田島が吹き出した。
「お前朝から飛ばしすぎだろ!」
「マジなんだって!」
田島は机に突っ伏して笑った、
腹を抱えて笑っている。
「おま、大丈夫か?」
失礼なやつだ。
俺だって信じたくない。
その後も俺は朝の出来事を全部説明した。
湖のこと。
謎の少女のこと。
手を繋いだこと。
みやという名前だったこと。
話しが終わる頃には、田島も少し真面目な顔になっていた。
「それ、本当に夢じゃないのか?」
「俺もそう思ったんだけどさ。」
俺は自分の手を見る。
「あの手の温かさだけは覚えてるんだよ。」
夢だったとは思えないほど鮮明に。
田島はしばらく考え込んだ。
そして。
「アニメ見の過ぎじゃね?」
「……否定できないのが辛い。」
◇
放課後。
帰ろうとした時だった。
「そうだ、」
田島が声をかけてきた。
「高野!」
「ん?」
「土産やるよ!」
「土産?」
「親が旅行行ってたんだー」
「どこ?」
「知らん。」
「知らんのかよ」
「聞き忘れたー」
適当すぎる。
田島は鞄をごそごそ漁り、小さな袋を取り出した。
「ほれ。」
俺は受け取る。
「なんだこれ?」
入っていたのは不思議な籠だった。
紙でできた筒状の籠。
表面には海や花火や祭りの絵が描かれている。
どこか懐かしい雰囲気を感じた。
「俺も知らん。」
田島が言う。
「母さんが高野にって」
「なんで俺向けなんだよ。」
「知らん。」
「知らんばっかだなぁ、」
「まぁ飾っとけ。」
俺は苦笑した。
「ありがとな。」
そうして紙筒籠を袋に戻す。
この時はまだ知らなかった。
この紙筒籠が。
この夏の全てに繋がっていることを。
そして。
俺自身が忘れてしまっている大切な記憶へ続いていることを。
夏休みまであと二日。
第二章へ続く。




