5-1. 涪(ふ)での致命的な躊躇
景耀6年(263年)、ついに魏の巨大な軍事機械が蜀漢を圧殺すべく動き出す。鍾会が率いる十万を超える魏の主力軍に対し、大将軍・姜維は剣閣の天険に陣を敷き、これを完璧に食い止めていた。兵力と物量で圧倒的に劣る蜀が巨大帝国を退けるための唯一の正解、すなわち「要害を利用した徹底的な遅滞戦闘」である。事実、魏軍は食糧の補給線が限界に達し、鍾会は撤退すら検討し始めていた。姜維の「攻勢防御」の延長線上にあるこの軍略は、最後の最後まで正しく機能していたのである。
しかし、蜀漢の息の根を止めたのは正面からの力押しではなかった。魏のもう一人の猛将・鄧艾が、道なき陰平の険しい山岳地帯を越えるという、軍事の常識を覆す狂気の奇襲作戦に打って出たのである。
突然の別ルートからの敵の出現に成都は恐慌状態に陥り、ついに宮廷の奥深くに鎮座していた「虚像のプリンス」が戦場に引きずり出される。諸葛瞻である。彼は成都の最後の防衛戦力たる中央軍(近衛部隊を含む予備兵力)を率いて、涪の地へと進軍した。
ここで、歴史の残酷な神は諸葛瞻に「蜀漢を救う最後のチャンス」を与えている。
陰平の山越えを果たした鄧艾の部隊は、凄まじい疲労と飢餓に苦しむボロボロの状態であった。重火器もまともな補給線もなく、ただ「奇襲の速度」だけを頼りとする決死隊である。彼らが最も恐れていたのは、険しい山を抜けきらないうちに、蜀の正規軍によって狭いルート(要害)を塞がれることであった。山中で足止めを食らえば、鄧艾軍は戦わずして飢えと疲労で全滅する。
諸葛瞻の陣中には、かつて劉備に仕えた名将・黄権の息子である黄崇が尚書郎として従軍していた。軍事の要諦を理解する黄崇は、敵の弱点と地形の利を瞬時に見抜き、諸葛瞻に対して血を吐くような進言を行う。陳寿は『蜀書』黄権伝に付された黄崇の記録において、その生々しいやり取りを次のように描写している。
「崇勸瞻速行、據險無令敵得入平地。瞻猶豫不行、崇至於流涕」
(黄崇は諸葛瞻に対し、速やかに前進して険阻な要害を占拠し、敵を平地に入らせないように勧めた。しかし諸葛瞻は躊躇して進まず、黄崇は涙を流して懇願するに至った)
「速やかに前進し、要害を塞げ」――これは高度な戦術でも何でもない。軍事の基本中の基本である。圧倒的に有利な防衛側が、敵の最も苦しい場所(山中)を塞いで息の根を止めるという、極めてシンプルかつ絶対的な最適解であった。
だが、蜀漢の軍政のトップである諸葛瞻は、ここで「猶豫って動かない」という致命的な無策を晒す。
なぜ彼は躊躇したのか。臆病だったからか。否、それ以前の問題である。彼は、軍隊の動かし方も、地形の価値も、兵站の概念も、実戦の肌感覚も「何一つ理解していなかった」のだ。
第三章で述べた通り、彼は父・諸葛亮の威光という温室の中で純粋培養され、宮廷内の人気投票とドロドロの派閥闘争(姜維排斥運動など)しか経験してこなかった男である。安全な成都から前線の姜維に向かって「無駄な戦争をやめろ」と批判するのは簡単だっただろう。しかし、いざ自らが血と泥に塗れた戦場の意思決定を下さなければならない局面に立たされた時、机上の空論しか知らない「素人の宰相」は完全にフリーズしてしまったのである。
涙を流して懇願する黄崇の叫びを無視し、諸葛瞻が涪で貴重な時間を浪費している間に、鄧艾の決死隊は危険な山岳地帯を抜け、ついに平地へと降り立ってしまった。
この瞬間に、勝敗は完全に決した。地形の利を自ら手放し、百戦錬磨の魏軍に「彼らが最も得意とする平野部への展開」を許してしまったのである。諸葛瞻のこの涪での無作為は、単なる戦術的ミスではない。「軍事を知らないポピュリストが軍の全権を握る」という、蜀漢の腐敗した政治構造そのものが引き起こした、必然的かつ致命的な国家への裏切りであった。




