第三章 雲と太陽 五:逃走(三)
翌日、精神科の医師が診察に訪れ、型通りの問診ののち、明日の午前中に退院を許可すると告げた。
「警察の人が来てるから、このあと病室に来てもらうね」
若い男性医師が立ち去るのとほとんど入れ替わりに、刑事が二人、病室に入ってきた。
「仮カードとタブレットを返却する。タブレットは傍受されていることを承知しておいてほしい」
「はい」
「どこかに出かけるときはこちらに連絡するように。また聞きたいことが出てくるかもしれないからな」
「わかりました」
そして翌日、ハルトは二週間ぶりに病棟を出た。ずっと狭い部屋にいたので、空間の広さに身体が戸惑うのか、まっすぐに歩くのが難しかった。LRTとレールウェイを乗り継いでササヤマ農場に戻ると、タカシとアカリがいつも通りの笑顔で、お帰り、と迎えてくれた。ナツミはハルトに飛びつき、その日一日ハルトにまとわりついて離れなかった。アパートからはヨウコがやってきて、ハルトをねぎらう。皆の態度に、ハルトは心から安堵を覚えた。
夕方、二週間ぶりの肉体労働でくたくたになった身体を叱りつけるようにして外に出ると、薄暗い夕刻の陰影の中、温かい雨が降っていた。この世界で季節を感じさせるのは、雨。病院に閉じ込められている間に、季節はいつしか春から初夏に移りつつあった。
農場に鍵をかけてアパートに戻ろうと薄暮の庭を歩いていると、二人の人影が近づいてきて、
「カンナヅキさん?」
と声をかけてきた。
「はい」
「少しお話しを伺いたいんですが」
いきなり照明がともる。ハルトは眩しさに目がくらみ、手で顔を覆った。
「あなた、記憶喪失だそうですが、本当ですか」
「えっ」
「記憶をなくしたふりをして、タサキ博士に協力しているんじゃないですか」
ハルトは、何が何だかわからない。黙っていると、
「何とか言ったらどうだ」
相手の口調が乱暴になってきた。
「あなたは、どなたですか」
「報道局の取材班ですよ」
「僕の情報を、どこから聞いたんですか」
「そんなことは、どうだっていいだろう」
ハルトの胸に、怒りがわきあがった。こんな扱いをされる筋合いはどう考えてもない。怒鳴りつけたいのを我慢して、ハルトは無言でアパートに向かう。
「あんた、本当は記憶があるんだろう、やましいから何も言えないんだろう」
男はなおも話しかけてくるが、ハルトは一切口をきかないと決めた。アパートに入り、ドアを閉めようとすると、男がドアに足を挟んで閉められないようにした。
「何とか言ったらどうだ」
ハルトが男の足を蹴っていいものか迷っていると、隣の部屋のドアが乱暴に開いた。
「ちょっと、うるさいよ!曲が書けないじゃないか。静かにしてくれよ」
男が思わず足を引いた瞬間に、ハルトはドアを閉めて鍵をかけた。隣の部屋のドアが、乱暴に閉まる音がした。
「ふざけんなよ。市民の敵が」
捨て台詞を残して取材者が立ち去る気配がして、だがすぐに、入れ替わり誰かが近づいてドアをノックした。
「カンナヅキさん?」
ハルトは答えない。
「カンナヅキさんですよね、ビデオ配信社の者です。少しお話しを伺いたいのですが」
外にどれだけの取材陣がいるのかと思うと、灯をつけることもできない。控えめながら、ドアをノックする音は止まない。ふたたび隣の部屋のドアが乱暴に開く音がした。
「あんたたち、毎日毎日うろつき回ってうるさいよ!いい加減にしてくれよ」
すみません、と言って、訪問者はドアを叩くのをやめたが、立ち去った気配はない。暗がりの中、ハルトはじっと息を殺して外の気配を伺った。
いったいどこから自分の情報が伝わっているんだろう。公安から記者たちに情報を流しているんだろうか、それとも、公安の動きを細かく追っている取材者がいるんだろうか。
幸い、それ以上声をかけてくる者はいないようだ。ほっとしたら、疲労感が戻って来た。ハルトは暗がりの中で最低限の身じまいをしてベッドに横になると、空腹を覚える暇もなく眠りの中に落ちていった。
翌日もまた、アパートを出るなり取材者に声をかけられた。
「カンナヅキさんですよね。記憶喪失と伺いましたが、本当ですか」
ハルトは一切反応せず農場に行き、鍵を開けると素早く中に入ってドアを閉めた。
「少しは何とか言ったらどうなんだ」
ドアの外から悪態をつく声がする。
その後も取材者は次々に現れた。タカシが、普段は明け放したままのゲートを閉じて、敷地への立ち入りを禁止する手書きの看板を設置してくれた。
「すみません」
恐縮するハルトを、タカシは大丈夫さ、と慰めたが、ハルトは落ち着かなかった。自分がここにいる限り、取材者は入れかわり立ちかわりやって来る。このままでは、ササヤマ家の人々だけでなく、アパートの住人にも迷惑をかけてしまう。
――ハルトに、助けてほしい。
ヤマダ医師の言葉が脳裏によみがえった。
自分は、ここを離れたほうがいいのだろうか。スーリア党。太陽を地上に取り戻すと言っていた。この空に太陽が輝く。自分に、青空をとり戻す手伝いができるだろうか。もしできるなら、そのほうがいいのだろうか。
もう少し、ヤマダ医師の話を聞きたい、と、ハルトは思い始めていた。
終日、立ち入り禁止の張り紙を無視して敷地に入り込む記者が後を絶たなかった。ハルトは作業を終えると、待ち構えていた取材者から逃げるようにアパートへ戻った。灯を点けず、窓からさしこむ街灯の光を頼りにアカリが持たせてくれた夕食を摂ると、ハルトはササヤマ夫妻とナツミにあてて、二通の手紙を書いた。
夫妻には、しばらく病院に戻ることにしたと書き、仕事を放り出して迷惑をかけてしまうことを詫びた。ナツミには、信じてくれていることに感謝していること、自分はやましいことはしていないことを綴り、最後に、必ず戻るから信じて待っていてほしいと書き添えた。
どうするのかが正しいのかは、まだわからない。だが、ここでほとぼりが冷めるのを待つ間に自分にできることがあるのなら、それを試してみたかった。
翌日の早朝、ハルトはこっそりとアパートを出た。雨が強いこともあってか、さいわい周囲に人影はない。
農場とアパートの鍵、それに二通の手紙を添えてササヤマ家のポストに入れる。そしてハルトは始発のレイルウェイに乗った。
ライト駅のカフェで少し時間をつぶし、病院の受付開始時間ちょうどに入れるようLRTに乗る。病院の前をうろうろしている取材陣をそ知らぬ顔でやり過ごし、有人窓口に向かうと、受付係に相談した。
「昨日から頭痛がやまなくて。入院中に検査でお世話になったヤマダ先生の診察をお願いしたいのですが」




