第一章 ニッポン 二:ハルト(一)
「ただいまぁ」
リュックサックを左右に揺らし、軽やかな足音を立ててナツミが農場に駆け込んできた。
「おかえり」
サニーレタスを籠に並べる手を止めて顔を上げるのと、ナツミがサングラスをしたまま腰にまとわりついてくるのが同時。
「ハルト、勉強しよう」
「少し待って。レタスを片付けるから。ナツミちゃんは光を浴びて」
「うん」
サングラスをはずして、ナツミはふう、と息を吐いた。
「雨が止んだから、急いで帰って来たの」
「紫外線注意報が出ていたね」
「うん」
紫外線は、晴れた日を十とすると、曇りの日は六、雨の日は二、地上に降り注ぐ。
基本的に天候は年間を通して雨だが、季節によっては降水量が減り、曇りの日が多くなる。この地域では、夏から冬に切り替わる「シュウブン」と呼ばれる時期を過ぎると、雨の降らない日が続くことが多かった。そうすると紫外線量が多くなるので、人々はなるべく外出をせず家の中で過ごす。学校の授業も自宅学習で行われるが、この日は朝から雨だったので、子どもたちの登校日となったのだ。
「久しぶりに友達と会えて楽しかったけど、帰りは少し肌がぴりぴりしたわ」
「それは大変だ」
「アフターローションを塗ったから大丈夫」
疑似太陽光の下で、ナツミは自分の腕をさすった。
カンナヅキ ハルト。
そう呼ばれるようになって、一年が過ぎた。
見知らぬ駅のロータリーで太陽祭に遭遇して昏倒。運ばれた病院で様々な検査を受けたが、外傷も疾患もなく、どこにも異常は見つからなかったのに、過去の記憶が取り出せず、言葉もわからない。
断片的に口から出る単語を翻訳機にかけたが、どの国の言葉でもない。そしてその言葉は、数日で霞の中に消えてしまった。
食事、歩行、排せつ行為など、ひととして基本的な動作は問題なくできる。
最初に診察してくれたおかっぱ頭のサカタ医師がそのまま主治医となり、出した診断は「一過性健忘の疑い」。外的要因がないのに突然記憶を失う症状だそうだ。きっかけがあると戻ることが多いが、中には記憶を取り戻すまでに何年もかかるケースもあるので、気長に待つしかないとのことだった。
身元不明者として病院から警察に報告が行き、険しい顔つきの刑事が二人で病室を訪れた。指紋や全身写真を採取され、失踪届(や、おそらく未解決事件)と照合が行われたが、いまに至るまで該当はない。
病院での暮らしはなんの不自由もなく、医師も看護師も親切に接してくれた。
カップ、スプーン、ハシ、トレー。スープ、シリアル、ソイミート。
指さしで覚えた単語を、聞き覚えたニーズを表現する単語でつなげると、いつのまにか言葉になった。「一過性健忘の疑い」という診断は、言語の習得の速さが決め手になったようだ。元々使っていた言葉を一時的に忘れ、錯乱していたのだろうという結論になったわけだ。
検査や捜査が進められた一か月ほどを病院で過ごしたのち、入院して治療する病気もない、ということで、退院調整が進められることになった。担当の支援員はヤマキと言い、うなずくとポニーテールが左右に揺れる、明るい声の女性だった。
十月中旬、そのヤマキと役場に行き、仮の戸籍を申請した。戸籍係の男性は、ヤマキの話を無感動に聞いたのち、
「じゃあ、苗字はカンナヅキ」
と、そっけなく言った。
「カンアツキ?」
「カンナヅキ。十月に作る仮戸籍はそういう決まりです」
へぇ。と、鼻と口から同時に出たような声がヤマキの口から漏れた。
「そんな決まりがあるんですね。下の名前は?」
「名前は好きにつけていいです」
「そうか」
ポニーテールを揺らして、ヤマキはこちらを向いた。
「あなたの名前、カンナヅキ。わたしのヤマキ」
「はい」
「下の名前、わたしのサヤカ、あなたは何にしますか?」
意味は分かったが、何も思いつかなかった。
「わかりません」
まだたどたどしい発音でそう言うと、うーん、とヤマキは腕組みをした。
「ハルト、はどうですか?」
「ハルト」
「太陽の人、という意味です。あなたハレマの日に来たから」
「わかりました」
「生年月日は?」
係の男性がパソコンにデータを入力しながら、これまた無感動に尋ねる。
「この人は何も覚えていないので。たぶん二十歳前後だと思うんですが」
「じゃあ、発見された日に二十歳だったことにしよう」
年齢早見表を指でたどりながら、生年月日を入力する男性の向かいで、いや、と言いかけて口を閉ざした。二十歳という年齢に違和感を覚えたが、じゃあ何歳だ、と聞かれたら答えられなかったから。
こうして、カンナヅキ ハルトが誕生した。
仮戸籍を作るのと並行して、ヤマキがあちこち行き場所を打診してくれたが、なかなか身元引受人は現れなかった。
それはそうだろう、とハルト自身も思う。
素性のわからない、それどころか、自分の名前も年齢も覚えていないような人間を受け入れてくれるところなど、むしろ見つからないのではないかと思った。記憶もなく、身分を証明するものも一切ない、というのは、どう考えてもポジティブな状況には思えない。理由はわからないが、自分の存在を消さなくてはと思うなにかがあった、ということだ。もしかしたら、とんでもない罪を犯して逃げている最中だったのかもしれないのだ。
役場に行ってから一か月あまりで、住民カードとタブレットが病院に送られてきた。この二つが、ここで暮らすためには必要だと教えられた。タブレットの使い方は、ヤマキや病棟の看護師が教えてくれた。そして、もうじき年が改まろうかというころになってようやく、引き受けてくれそうな人が現れた。
ササヤマ タカシ。農場経営者。妻と孫娘の三人で暮らしているそうだ。
「ササヤマさんもまだ六十代だから働けないことはないけど、そろそろ一人ではきついから、若い年代の人手が欲しいんですって。敷地にアパートがあって、部屋も空いているから、そこに住んで働いたらどうかって」
「ありがとうございます」
「一度話を聞きに行きましょう。ハルトにも、仕事の内容や住まいを確認してもらわないといけないから。よかったわ。行き先が見つかりそうで」
心底ほっとした表情で、ヤマキはため息をついた。
ヤマキに連れられてササヤマ農場に向かったのは、あと十日で新年祭が来ようという、暮の押し迫った時期だった。病院から出るのは戸籍を作りに役場に行ったとき以来だったから、外の風景は広々として、とても新鮮だった。
灰色の建物群を抜けると検問所がある。車は減速しながらゲートを抜ける。ぴっ、と運転席の近くから機械音がして、「T五ゲート、通過しました」と人工音声が告げた。空は相変わらず分厚い雲に覆われている。
「雪になりそうね」
ヤマキがつぶやいた。
「ユキ」
「雨が白い結晶――白いふわふわになって降ることよ」
ハルトは、その風景を知っているような気がした。
しばらく荒れ地を走ったのち、TF十二地区と表示されたゲートを入ると、車はすぐに細い道へ入り、四角い灰色の建物が並んで建っている敷地の中で停車した。
サングラスと帽子をつけて二人で車を降り、中央の建物についていたインターフォンを押すと、左の建物から痩せた老人が出てきて手招きをした。
中に入ると、ふわりとあたたかい、しっとりとした空気につつまれた。人工太陽光に照らされた棚に、さまざまな野菜が育っている。初めて見る光景にハルトが目を丸くしていると、ヤマキがポニーテールを揺らして挨拶をした。
「こんにちは。先日ご連絡させていただいたヤマキです。こちらが、カンナヅキさんです」
「こんにちは」
ハルトが頭を下げると、老人も、ササヤマです、と小声で名乗り、同じく頭を下げた。六十代にしては老けているな、と思う。そして、そう思ったことにはっとした。
自分の知っている風景とは、微妙に違う。
野菜は、棚で育てるものではない。六十代の男性は、もう少し皺が少ない。そう思ったのは、何か異なる記憶があるからではないのか。
ハルトは、記憶と現実の差異を、慎重に記憶にとどめた。しっかり違いを覚えておかないと。でないと、現実の風景に飲み込まれて、過去の記憶が消えてしまう。
住まいとなるアパートを見せてもらったのち、主にヤマキとササヤマ氏が話し合い、ハルトがそれにうなずく形で話がまとまり、ハルトはNC四七三年の一月から、ササヤマ農場で働きながら暮らすこととなった。




