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クラウディ  作者: 蕃茉莉
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第一章 ニッポン 五:重なりあう世界(二)

 十二月半ば、ハルトは病院へ足を運んだ。年末のせいなのか、交通機関も病院の待合室も、いつもより人が多い。予約時間を過ぎてもなかなか順番が来ず、かなり時間がたってからようやく番号を呼ばれたとき、待合室にいたのはハルトだけだった。

 診察室に入ると、いつものサカタ医師の隣にもう一人、白衣を着て、ビジターカードを下げた若い男性が、立ったままサカタ医師の肩越しにカルテ画面をのぞいていた。

「カンナヅキさん、こちらが記憶の専門家。タサキ先生」

「はじめまして」

 タサキと呼ばれた医師は、ハルトににこりと笑いかけた。専門家というから老人かと思っていたハルトは、医師の若さに少し驚いた。サカタ医師と同じ年くらいに見える。

「彼はふだんノースアメリカ行政区の大学で教えているんだけど、ニッポンに戻って来ると聞いたので、この病院に来てもらったの」

「ハルト君だね。リョウと言います。話はミサキからある程度聞いているよ」

 リョウは、屈託のない表情でハルトを見た。

「ちょうど一年くらいになるんだって?最近はいろんな夢を見るとか」

「はい」

「よかったら、その夢や、おぼろでいいから何か思い出せそうなことを話してくれないか」

 ハルトは少し迷った。また疲れてると言われて飲まない薬を処方されるだけかもしれない。記憶の専門家とは、いったい何をするのか。記憶をいじられたらどうしよう。

「何も怖いことはしないよ」

 ハルトの気持ちを察したかのように、リョウは笑った。

「すみません」

 ハルトは苦笑した。リョウのやわらかな表情に、少し安心する。

「自分でも、どの記憶がほんとうなのかわからなくて」

「なるほど」

「こういう、僕みたいなケースって、あるんですか?現実と違う記憶があったりする」

「結構ある」

 リョウはうなずいた。

「ゲームで言えば異世界系というか、違う世界に迷い込んだような気持ちになっている患者に出会うことは多い。でもそのほとんどは、記憶障害とは異なる。妄想みたいなケースだ」

 だが、とリョウはハルトの目を見た。

「ミサキの記録を見る限り、君の症状はそういうケースとは異なるような気がする。ミサキの見立ては一面正しいと思うが」

「一面?」

「何かの理由で記憶の再生に障害が出ている、というのは間違いないだろう。でもハルト君の場合は、どうやらそれだけじゃなさそうだ」

 リョウはリモコンを手にすると診察室の照明をすこし暗くした。

「君の記憶には、現実と異なる部分が色々あるみたいだね」

「そうみたいです」

 ハルトはすなおにうなずいた。リョウはゆっくりとハルトの背後に歩いていく。

「なにか、覚えている言葉や風景があったら、話してみてくれないか。ああ、もし嫌じゃなかったら、録音をさせてもらえるとありがたい」

 ハルトは少しとまどったが、うなずいた。サカタ医師が、机の上に置かれたちいさな録音機のスイッチを入れた。

「最近は」

 瞑想のガイドのような、ゆっくりした、やわらかな声。

「どんなことを思い出したりするのかな」

「最近は」

 自然に、意識が記憶に集中していく。

「太陽の光を。光そのものよりも、肌の感覚や空気感や」

「うん」

「五感が覚えてるというか」

「太陽の感覚は、どんなふうなんだろうか」

 リョウに誘導されるまま、ハルトは脳裏をかすめては消える記憶を言語化していった。リョウの質問に答えていくと、曖昧さが少しずつ消えて、記憶の輪郭が見えてくる。季節は夏から秋へ、そして冬へ。空気のぴりりとした冷たさ。自転車にのって旅をしたような気がする。

「最後に旅をしたのは、いつ?」

 ふいに、脳裏へ灰色の海が浮かんだ。

「三陸」

 唐突に、いまとは異なる言葉が口から出て、ハルトは自分でも驚いた。

「続けて」

 背後から、リョウのやわらかく、だが毅然とした声がした。


 隣にいるのは、茜。大学で美術史を専攻していた僕たちは、スケッチブックを持ってしょっちゅう一緒に旅をした。自転車や、各駅停車を使った貧乏旅行。卒業後、僕は美術展の手配を請け負うイベント会社に就職し、茜は大学の研究室に残って平安時代の色の研究に従事した。

 あれは、三月。その年大学院を卒業する茜と僕は、月末に入籍することになっていた。僕が大きな美術展の準備を担当するため、ロシアの支店に二年間出向することが決まり、それが茜の卒業と重なっていたことから、一気に結婚話が進んだのだ

 栃木に住む茜の両親に挨拶を済ませ、そのまま二人で東北に行った。冬の海を描きたいと誘ったのは僕だ。リアス海岸の磯浜で、かじかむ手をカイロで温めながらスケッチをしていた時。

突然の地鳴り、天地が瓶の中でゆすられているかと思うような揺れとともに、ごろごろとすさまじい音を立てて、磯浜を引きずるように海が遠ざかり――

「津波が!」

 ハルトは大声をあげ、そして、我に返った。


 白衣の女医が目をみはっている。その顔立ちが、茜に重なった。おかっぱ頭。切れ長の、黒目がちの目。

 記憶が、まさに津波のように脳裏に押し寄せ、そしてあふれた。


 茜と僕は、手をつないで海岸から走って逃げた。茜の足がもつれ、小石に足を取られて転んだのを引きずり起こして走った。振り返ると、巨大な黒い壁が海の上にせり上がり、こちらに迫ってくる。僕の恐怖の表情を見て振り返った茜が悲鳴を上げた。夢中で崖をよじ登り、線路に登る。頼むから来ないでくれと必死で願ったのに、黒い壁は楽々とその手前の土手を乗り越えてきた。あっという間に水の壁が押し寄せ、抱き合った茜の身体が引きはがされ、夢中でそれを掴もうとしたが、波にもみくちゃにされて何が何だかわからなくなり。

 気がついたらひとり、ずぶ濡れになって木の幹にしがみついていた。


「僕は」

 自分がどの言葉を話しているのか、もうわからなかったが、医師たちの存在を思い出し、ふたりに理解できる言葉を必死で探した。それは、ひどくぎこちなかった。

「僕は、地震と津波――大きな波に婚約者をさらわれて」

 ひどい疲労感。

「それで、いったんはひとりでワカヤマ――僕の実家に戻ったけど」

 ひとりで生きる気持ちに、どうしてもなれなかった。


 茜の両親は、茜が海にさらわれたのは、お前が旅に連れて行ったからだと泣き叫びながら責めた。自分でもそのとおりだと思った。ひとりアパートで呆然と座り続ける僕は、電話にも出ることができなくなり、連絡が取れなくなったことを心配した両親が、和歌山から迎えに来た。ロシア赴任が延期となったこともあり、魂が抜けたような姿で、アパートの荷物もそのまま和歌山の実家に帰省した。

 帰省してからは、死ぬことばかり考え続けた。そして五月の末。両親の目を逃れるため、「ボランティアに行く」と告げて、だが旅行鞄にはなにも入れず。片道切符だけを持って東に向かう新幹線に乗った。茜のふるさとで死のうと思った。山のふもとに広がる湿原が、茜はとても好きだった。

「新幹線――レールウェイを乗り継ごうとして」

 記憶はホームのエスカレーターに乗ったところまで。そして。


 気がついたらこの世界に来ていた。


「どうして」

 頬を、涙がつたった。

 なぜ、ここなのか。

 どうせなら。どうせ時のはざまを往来することができるなら、茜のいる世界に行きたかった。せめて、茜と見た青空のもとで暮らせたらよかった。

 両手で顔を覆って、ハルトは泣いた。医師二人は、黙ってそれを見守っていたが、ハルトの嗚咽が落ち着くと、リョウがゆっくりと口を開いた。

「辛かったね」

 涙をかくさず、ハルトはうなずいた。

「でも、みんな辛かったから」

「そうか」

 一万八千人が、死亡もしくは行方不明となる大災害だった。ハルトと茜のような思いをした人も、多くいたにちがいない。現にハルトの見ている前でも、抱き合ったひとの群れが、ホースで水をかけられた働きアリのように、あっけなく波にのまれていった。それだって、もしかするとオゾン層が破壊されたときの人類に降りかかった悲劇に比べたら、軽い災害なのかもしれない。人類の歴史はさまざまな慟哭に満ちている。自分の体験は、そのひとつに過ぎない。

 リョウはゆっくりとミサキの隣に腰をおろすと、静かに尋ねた。

「君の名前は?」

 問いかけられて、ハルトは涙にぬれた顔を上げた。

「今の名前は、仮の名だろう。本当の名前は、なんていうのかな」

 ハルトはぽかんと口を開けた。

「僕は――」

 なんという偶然。太陽の陽、人間の人、文字が自然に脳裏に浮かぶ。

「僕は、陽人ハルトです。出井イデイ、陽人」

 サヤカちゃんすごいわ、と震える声でミサキがつぶやいた。

「シンクロだね」

 迷信めいた言い方をして、リョウは口元に笑みを浮かべた。

「君の記憶がほんとうなら、君はおそらくAD時代から来たことになる」

「まさか」

「そう言うと架空小説じみているが、全く例がないわけではない。とはいえその大方は、記憶のすり替えだ」

 録音機を止めて、医師は足を組みなおした。

「人間の記憶のメカニズムは、わかっているようでわかっていなくてね。君のケースも、もしかしたら人類の古い記憶がリアルに再現されているだけかもしれない。だが」

 リョウはじっとハルトを見た。

「君は本当に身体ごと過去からここへ来たのかもしれないな。細胞年齢や、君の見た目からすると、そう考えるほうが納得できる」

「そんなこと、あるんですか」

「類似のケースは、僕の見た中では一つしかない」

 その言葉に、ハルトのほうが驚いた。

「あるんですね」

 リョウは、そのケースについてはそれ以上語らなかった。

「人間は、この世の仕組みをすべて知っているわけではないからな」

 沈黙。

「本当にそうだとしたら」

 ハルトは、低い声で問うた。

「僕は、帰れますか」

「わからない」

 わからないが、とリョウはハルトの視線を受け止めた。

「君はおそらく、非常に稀有な偶然によってここに来た」

「はい」

「時間を往来する方法を、人間は手にしていない。つまり人為的に時空を超える方法は、今のところ誰も知らない。もう一度その稀有な偶然が起きる確率を考えると」

「帰れる可能性は低い、と」

「そういうことになるな」

「そうか」

 茜の手を離した、これが、罰か。

「なんで、こんなことが起きたんでしょうか」

「それも、僕にはわからない」

 リョウは、首を振った。

「その意味を探すより、ここで生きる意味を探したほうがいいんじゃないか、と、僕は思う」

「ここで、生きる意味」

 今のハルトは、死にたい、とは思わない。だが、太陽のないこの世界に来てよかった、とも思えない。もし、この記憶が本物で、自分がオゾン層崩壊前の世界――過去――から来たというのなら、なぜ、こんなことが起きるのか。むしろそれが知りたかった。

「定期通院は続けたほうがいい。記憶が戻る時は不安定になりがちだから、通院頻度を少し上げて、頓服薬があったほうがいいかもしれないな」

「わかりました」

 リョウの提言に、ミサキがうなずいた。

「僕はめったにここに来られないけど、ミサキによく話をするんだね。ミサキは、一見そっけないけど、君のことをとても気にかけているよ」

「ちょっと、余計なこと言わないでください」

 ミサキが顔を赤らめた。

「患者の心配をするのは、当たり前でしょ」

「昔から、ミサキは情が見えにくいんだよ。ああ、僕たち、医大の同級生でね。専攻が一緒だったから、付き合いが長いのさ」

「やめて」

「そうでしたか」

 ハルトの頬に笑みが浮かぶ。茜もそうだった。特に女子から「冷たい」と思われがちだったが、感情の表出が苦手なだけ。ほんとはひどく不器用で。怖がりで、優しくて、子供向けのアニメを見てさえ感動して泣いていた。

 茜に、会いたい。

 茜を知るハルトの全身が、寂寥でいっぱいになった。

 ここで生きる意味とは。茜のいない世界で、太陽のない世界で生きる意味とは。

 なんだろう。


 リョウが生活上の注意点をいくつか告げ、ミサキが処方箋を出して、診察は終了した。ハルトが診察室を出ると、会計窓口はもう閉まりかけていた。

 病院の外には、細かな雪が舞っていた。ハルト――陽人――は灰色の空を見上げる。もういちど恋人を喪ったような寂寥感が、まだ胸をふさいでいる。同時に大きな宿題を出されたような心地がして、ハルトは軽い眩暈を覚えた。

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