後日談:平原のグラウンドルール
2月15日(金曜日)
プロジェクトの最終クローズが承認された翌週。
聡は、人事部長とプロジェクトマネージャーの寺崎が同席する、小さな会議室の机の前に座っていた。
彼の手元には、この2週間で推敲を重ね、何度も書き直した一通の書面が置かれていた。
「――以上が、今回の事案に関する始末書になります」
聡は、静かに書面をスライドさせ、人事部長の前に差し出した。
書面に踊る「始末書」の文字。そこには、言い訳の余地を一切排除した事実のみが、客観的な時系列とともに整然と記されていた。
金曜深夜の状況: タスク完了に伴う精神的安堵と、極度の疲労による判断力喪失。
土日の行動: 事前のルート変更連絡および緊急連絡先の周知を怠った、無謀な単独冬山登
山の強行。
月曜朝の不通: 携帯電話の破損および救急搬送、処置に伴う意識喪失。結果として、最重要会議のプレゼン直前までプロジェクトメンバーおよび上司への連絡を途絶させ、重大な不利益のリスクを与えた事実。
人事部長は眼鏡をかけ直し、数分間、一言も発せずにその文書に目を通した。静まり返った会議室に、紙をめくる音だけが小さく響く。
「……非常に客観的で、非の打ち所がない始末書だね、志賀君」
人事部長は顔を上げ、手元の書面をトントンと指先で叩いた。
「世間一般の始末書は、得てして『過労だった』『突発的な天候悪化だった』という言い 訳や自己弁護が混ざるものだが、これにはそれがない。自分の非と、それによって会社が被ったリスクが極めて論理的に整理されている」
「事実だからです。私の判断ミスがすべての起点です」
聡はまっすぐに人事部長を見つめて、答えた。
「よろしい。では、事前に寺崎君から聞いていると思うが、今回の社内処分を言い渡す」
人事部長は手元の別の資料に目を落とした。
「今回の君の独断専行は、一歩間違えればクライアントとの契約解除、および億単位の賠償請求に発展しかねない重大な服務規律違反だった。本来なら減給や出勤停止処分に相当する。だが、その後の君自身の主体的なリカバリー――病床からのQ&Aシート作成、復帰直後の追加要件における命懸けの交渉、そして何より今回のプロジェクトを過去最低の不具合率で完結させた実績――を考慮し、役員会で慎重に審議した結果、処分を以下に留めることとした」
けん責処分(始末書の受理と厳重注意)
今年度冬期賞与の査定を「25%減額」
今後一カ月間、産業医による週一回の定期メンタル面談の義務化
「異議はあるかね」
「いえ、ありません。寛大なご処置に感謝いたします」
聡は深く頭を下げた。
25%のボーナスカットは、金銭的には痛烈な痛手だった。しかし、それは「自分が冒したリスク」に対して支払うべき、極めて正当で、むしろ安いとさえ言える対価だった。曖昧に許されるよりも、こうして明確な「数値」としてペナルティを課される方が、今の聡にとってははるかに救いだった。
同日、午後6時。オフィス近くの居酒屋
「――というわけで、今年の俺のボーナスはすっ飛んだよ」
聡がビールジョッキを傾けながら言うと、向かいに座る木村が「ぶっ」と吹き出した。
「マジですか。25%カットって、結構な額ですよね。まあ、自業自得ですけど」
「ああ、完全に自業自得だ。だから、これで少しは罪滅ぼしにさせてくれ」
聡は、メニュー表を木村に差し出した。
「他メンバーへの補償」として、聡は復帰直後、寺崎と木村に「プロジェクトが無事に終
わったら、自分のポケットマネーでチーム全員に美味いものを奢らせてほしい」と願い出ていた。今回の炎上を最も現場で支えたのは、土日を潰して聡のバックアップに回った木村と山下、そして後輩たちだったからだ。
「じゃあ、遠慮なく一番高い肉、頼みますね」 そう言って笑う木村の顔には、もう2週間前の冷徹な壁はなかった。
プロジェクトの後半戦、2人は毎日のように仕様のバグを潰し合い、クライアントの無理難題を一緒に跳ね返してきた。共通の「過酷な現実」を乗り越えたことで、一度失われた信頼は、以前よりも頑丈なプロとしての絆となって結び直されていた。
「山下さんも、今回の件で『志賀さん、復帰してから仕事がめちゃくちゃ速くて正確になった』って驚いてましたよ。以前の志賀さんって、何でも一人で抱え込んで、いつも締切間際にパンクしてましたから」
木村が肉を焼きながら、ふと思い出したように言った。
「そうだったな」
聡は自分のジョッキを見つめた。
「あの時は、自分の『限界値』が見えていなかったんだ。100しか入らないザックに、無理やり200の荷物を詰め込んで、勝手に自滅しかけていた。自分の体力が、時間が、精神が、今どれだけ残っているか。それを正しく数値化して見極めないと、山でも仕事でも、あっという間に滑落する」
「……なんか、説得力ありますね。実際に崖から落ちた人の言葉は重い」
「笑えないジョークだよ」
聡は苦笑しながら、冷えたビールを喉に流し込んだ。
会社からの評価、ボーナスの額、同僚たちへの負い目。
失ったものは小さくなかったが、彼が手に入れた「自分の現在地を正しく見極める地図」は、この先の長い会社員人生において、何物にも代えがたい羅針盤になる。
泥臭く、しかし確実な足取りで、志賀聡は再び、平原という名の日常を歩き始めていた。




