第一話:名前は?
目を開くと、そこには世界があった。
「……」
上体を起こすと網膜を灼くような夕映えの中に一本の山道が伸びている。
土の匂いと、腐葉土が発酵するような濃い緑の香りが鼻腔をくすぐる。
手のひらに落ち葉の感触があった。
焦点の定まらない視界のまま、しばらくその静寂を眺めた。
次になんとなく空を見上げると、
ちょうど真上には赤い電柱のようなものが視界を遮る。
綺麗な夕焼けが、何かのゲームのようなバグに見えたがすぐにその無機質さを認識する。
表面の塗装は剥げ、風雨に晒された痕跡が、木目に深く刻まれていた。
立ち上がり、少し距離を取ってみるとその正体がわかった。
鳥居だ。
振り返る。
境内には賽銭箱の奥に何かを祀っているのだろう。
おみくじや絵馬は見当たらない、山の中の場末の神社と言ったところか。
「……」
思考が巡る。
いつものクセで胸ポケットに入っているラッキーストライクを取り出そうと手を伸ばすと、それは空を切った。
舌打ちをする間もなく、そしてまた新しいことに気付く。
自分の、惚れ惚れするような、張りのある若い手に。
(これは――)
「こんにちは。名は?」
女の声。
それは四方八方に置かれたスピーカーから届いたような、場所が特定できない。
声が特殊なのか、それともオレの三半規管が狂っているのか。
左に右に振り返ってみるが、その姿はない。
――と、正面に"ソレ"は居た。
腰まで届く長く綺麗な髪を纏う白装束。
参拝客が見込めないであろうこんな神社に巫女の姿をした大学生ぐらいの女性が立っていた。
吊り目には、他者を値踏みするような自信が宿っている。
その一方で、覗き込む視線には妙な柔らかさもあり、不快さと安心感が同時に滲んでいた。
何もかもがわからない現状の中、質問を繰り返してみる。
「名か」
名は名字を含まない。
フルネームではなく、下の名前だけを指す言葉だ。
冷静に考えた。
自分の瑞々しい綺麗な手を眺め、答えを確信する。
「申し訳ないが、今は名乗ることはできない」
答えを言い切ると、白装束の女は消えていた。
風もないのに、空気だけが動いた気がした。
何気なく足元に視線を落とすが、落ち葉には人が立っていたような痕跡は見えない。
とは言え専門家でもないので、マジマジと見たところでわかるまい。
「ふむ」
夕映えの赤が紫に溶け、太陽も仕事を終え、夜が来る。
その間も思考が止まる事はない。
ここは何処だ?
何故ここにいる?
今の女はなんだ?
「しかしオレは誰なのか」
改めて二十代の手を眺めながら呟く。
記憶喪失というのは少し違うだろう。
オレは日之影凛太郎。
41歳で、"先程死んだ"のだから。




