第1話:薄明の車窓
ドアが開くたび、湿った朝の空気が車内へ流入し、吊革がわずかに軋んだ。
高瀬悠一は、三角の持ち手と窓の隙間に肩を斜めに差し込み、全身で車体の揺れを受け止める。
中吊り広告が額の近くで揺れていた。〈統合型リゾート特集/週刊時潮・臨時増刷〉。自身の勤務先の名称が、艶のあるフォントで、覚醒しきらない頭部に定着した。
スマートフォンが震えた。
〈速報:外資系投資ファンド幹部、与党若手と会食〉
「誰の景気が良くなるのだろうな」
小さく呟く。吐息がガラスに白く残り、揺れる電灯に合わせて歪んだ。
物価は上昇し、通勤定期の更新通知、電気代の引き落とし、保険料改定のメールが届く。財布の残高は減少する。
ホームに到着すると、溢れた人の帯が一斉にほどけ、改札の磁気音が連打のように鳴り響いた。ICカードの残高は、昨日の居酒屋での支出分、現実的な数字を示している。
地上に出ると、曇天の色は低く、ビルの壁面広告だけが際立って鮮やかに見えた。
〈夢は現実に。IRでこの国を動かせ〉
――誰の夢であり、誰の現実か。
編集部のフロアは、空調の風とコーヒーの匂い、コピー機の発熱が混ざり合い、いつもの朝の温度だった。ロッカーに鞄を押し込み、PCを起動する。メールの受信トレイは広告代理店とPR会社のリリースで埋まり、社内のチャットには「スポンサー確認済み」のスタンプが連続している。
椅子に着席し、マグカップにお湯を注ぐ。粉末コーヒーは、匂いだけが一流で、味は常に同一だ。今日行うことのみを、メモ帳の左上に箇条書きする。
余計なことを記さないのは、余計な感情を抱かないことと同様に、仕事を早期に終結させるための行動だった。
車内広告の文言が、不意に頭に戻る。臨時増刷。部数が伸びれば、誰かのボーナスが向上するのだろう。自身の評価は、おそらく変わらない。
スマートフォンの速報を再度開く。外資の幹部と与党若手。昨夜、国会クラブのホワイトボードに貼られていた面会予定の紙切れを思い出す。名前の横に赤いチェックが入っていた。誰が記入したかは、常に曖昧だ。
エレベーターの到着音。デスクの村田が先に降りてきて、無言で腕時計を叩く仕草をする。朝会の時間が迫っていた。
「おはようございます」
「おう。……顔がむくんでるぞ」
「まあ、寝不足で」
挨拶は形式的なものでしかなく、心配は手順に含まれない。自身も他者に対して同様に行動する。そのような温度で機能する場所だった。
執務フロアの端に置かれたテレビは、BGMのようにニュースを垂れ流している。映像が切り替わり、昨夜の会食らしい店の外観が映る。テロップに、店名と区名が表示された。
「外資が来れば景気が良くなる、って話だってさ」
斜向かいの席の経済担当が、画面に合わせて言った。
「それ、誰の景気?」と高瀬。
彼は軽く笑って肩をすくめた。
「そこまでは、言ってなかった」
コーヒーを一口。苦味は早くも冷めていた。
ここでは、正義感は推進力とならない。好奇心も、時に余計な熱である。与えられた割り当てを、滞りなく処理する。そのためなら早起きも残業もする。給料は徐々に上がり、税と物価はそれよりもやや速い速度で上昇する。
それでも、働く。理由は単純だった。働かなければ、生活が欠けていく。
窓の外は、薄い光がようやくビルの隙間に差し始めたところだった。スーツの群れが横断歩道を渡り、信号が赤に変わるたび、歩道の端で短く滞留する。
――この世をば、わが世とぞ思ふ。
昔の誰かが言ったらしい言葉が、どこかの広告のコピーのように、頭の内側の壁を撫でていった。自身の世、という言葉は、このフロアには似合わない。ここにあるのは、「今週号」と「来週の台割」のみだった。
背後でプリンターが紙を吐き出し始め、朝会の資料が束で配られる。今日も、行うべきことのみを遂行する。
高瀬はメモ帳の一行目に、細い字で書き足した。
〈国会常勤・小ネタ拾い〉。
そしてもう一行。
〈外資・会食リスト確認〉。
気持ちは入れない。手だけを動かす。そうして、今日を終結させる。
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