第十五話 初めてのキス
戻らなくては、今すぐに、そう思うのに。
怒らせてしまった事に身がすくむ。
幻滅させてしまったかもしれない。
そう思うと何も口に出して言う事が出来なかった。
彼はお構いなしにずんずんと歩く。
私は下を向いたまま、彼に引っ張られるように歩く。
ベンチにたどり着くと、ジェイコブ様は優雅な手つきでポケットチーフを広げてから視線で私に座れと促した。
戸惑いつつも腰掛ける。
人いきれから離れたのもあって、夜の空気の冷たさを直に感じることが出来る。
二人とも無言で、時間だけが過ぎていく。
どれくらい時間が過ぎたのだろうか。
ベンチの前で彼は立ったままだ。
漏れてくる喧騒、音楽だけが二人を取り巻く。
座らないのかしら?と不思議に思い顔を上げると、ジェイコブ様が困ったような顔をして私を見ていた。
「…お酒、そんな強くなかったんだね…」
「え?いえ、そんな事はないのですが…」
実際外の風に当たると、少しずつだが酔いがさめていくのが分かった。
その意味では外に連れ出してもらったのは有難い事だった。
だが心配されるほどお酒に弱い訳ではない、と思うけどふらついたのは事実なので違うとも言い切れない。
「足元がふらつくまで飲ませたのは、僕の責任だ」
そう言ってうんうんと頷くジェイコブ様。
飲み過ぎた自覚はあったが、緊張もしていたし、人に酔ったせいもある。
いや、それ以上に。
本音を言えばあの場所に居たくなかったから。
だって、あそこは嫌でも現実を見てしまう。
彼と、踊る。
ファーストダンスを。
周囲の目を、どうしても気にしてしまう。
弱い私が囁く。
踊りたくない、と。
そんな私を誤魔化すように口に運んだワイン。
だから、お酒に酔ったのは私の心が弱いせいだ。
断じて彼のせいではない。
「そんな事はありません。
私の不徳の致すところでした。
もう少し、自重すべきでした」
先程の失言とあわせ謝罪する。
あれは単なる八つ当たりだった。
ジェイコブ様が肩の力を抜いたのが分かる。
「落ち着いたみたいだね、良かった」
ホッとした顔で微笑むジェイコブ様を見上げる。
私は自分でも自分がどんな顔をして彼を見上げているのか分からない。
きっと情けない顔をしているだろう。
「いや、気にしないでいいよ、アリシアのせいではない。
うん、頬の赤みも、目元が潤んでいるのも大分収まったかな。
そろそろ戻ろうか」
先ほどまでの強引さが影を潜め、穏やかに手を取ってテラスに向かう。
そのテラスの階段で、彼が急に立ち止まった。
「え」
顔を上げようとしたら、目の前にあるのは彼の胸で。
そして彼の胸の筋肉の柔らかな衝撃に驚く間もなく、いきなりきつく抱きしめられた。
苦しいくらい、強く。
彼の左手が、私の背中を抱く。
彼の右手が、私の後頭部を支えて。
身動きしようとした私の行動を止める。
ドレス越しに伝わる彼の手の温盛。
鼻腔をくすぐる、爽やかな男らしい彼の香り。
真剣な目をした彼が、私の顔を覗き込む。
こんな至近距離では目すら逸らせられない。
心臓が痛いくらいにドキドキし始めた。
抱きしめている彼にも伝わっているだろう。
彼の真剣な目は、熱を持ったような、初めて見る瞳で、
私はその瞳に怖気づく。
「アリシア」
掠れるような熱っぽい声で私の名前を呼ぶ。
私が返事をする前に、私の口は彼に塞がれた。
唇と唇が触れ合うような、軽いキスではなくて。
押し付けられるような、強引なキス。
力強く、全てを奪うようなキスだった。
長い長いキスの後、私の吐息が漏れた。
彼はそのまま私を抱きしめたままで。
彼の息が私の耳にかかる。
彼の手が、私の髪に触れる。
それを心地よいと思ってしまう。
それを嬉しいと思ってしまう。
どうしてだか、涙が出てきそうになる。
彼が、再度抱きしめてキスをしてきた。
下におろしていた手を彼の背中におずおずと回して、ぎゅっと、私も抱きしめ返した。
どれくらい、そうしていただろう。
「…本当、格好つかないね…」
ボソリ、と小さな声で彼が呟いた。
「…僕の身長は、変えられそうにないから…
こんな段差を利用しないと、君に自分からキスも出来ない。
決まらないよね…」
「そ」
そんな事はない、と言おうとしたけれど、また彼の唇が私の唇に重なった。
「確かに僕たちは政略結婚だ。
初めて会ったのだって、つい最近で。
だけど、僕はアリシアが表情をクルクル変えて笑ったり、瞳を輝かせて、馬の話をする君をとても好ましいと思っているんだ。
そして、なによりも。
僕は君と話していて、一緒にいて、とても楽しかった。
ついうっかり、執務の時間に遅れそうになってしまうくらいに、ね。
だから、正直言って僕はとても幸運だと思ったよ。
僕の花嫁になる人は、とても格好良くて綺麗で、素晴らしく可愛い女の子だったから」
私は目を伏せた。
とても格好良くて綺麗で、素晴らしく可愛い女の子。
一体誰の事を言っているの?
可愛い?私が?
私が可愛い?本当に?
視線を上げて、ジェイコブ様と目を合わせる。
彼は頷きながら優しく微笑んだ。
「可愛いよ、アリシアは」
その言葉は魔法のように私を包む。
だけど。
超えられない身長の壁。
どう頑張っても、私は彼よりも背が高くて。
お似合いな二人には、なれない。
ダンスは身長差があると、どうしてもうまく踊れないのだ。
躊躇する私に彼は言葉を続ける。
「僕はね、アリシア。
他の誰でもない、君と、踊りたいんだ、
僕の花嫁になる、アリシアと」
囁くように言われて、私は頷いた。
良く出来ました、というように、彼は私の両肩をポンポンと励ますように叩いた。
「ごめん、アリシア、唇が少し剥げてる…
一旦あっちに回って化粧直しをしてもらおう」
そういう彼の唇にも、私の口紅が少しついていた。
この人と、本当にキスをしたんだ、と恥ずかしさと嬉しさで胸が一杯になる。
「ジェイコブ様にも口紅の色が移って…」
ユックリと手を動かして、彼の唇の端についた紅をチーフでふき取る。
拭き終わると、ぎゅっと再度抱きしめられて、そしてゆっくりと彼の手が背中から離れていった。
それを寂しいと思ってしまった自分にも驚く。
もう一度だけ顔を上げると、優し気な顔だと思っていた彼の顔が、凛々しい男の顔だという事に気が付く。
あぁ、そうか。
背が高いとか低いとか、そんな事よりもずっと大事な事があったんだ。
何で私は彼に惹かれた?
彼が私の事を考えて行動してくれていたから。
私が笑った時、ジェイコブ様も嬉しそうに笑ったから。
二人で話す時間が楽しかったから。
支えようとしてくれる、その姿勢が嬉しかったから。
彼も、同じ様に感じていてくれたら嬉しい。
目が合った。
それが、何かの合図のように。
私は静かに目を閉じた。
ゆっくりと、彼の唇が私の唇に触れる。
先ほどとは違う、愛おしむ様な、啄ばむ様な優しいキスだった。
目を開けると、彼は照れくさそうに微笑んだ。
私のつられて微笑む。
どちらからともなく、手をつないで侍女が待つ控えの間に向かう。
繋いだ手から、勇気を貰う。
そう、もう、逃げない。




