白豹の襲来とパキパキのユキ
父さんは、春を愛する人だった。
俺がまだほんの子供だった頃に死んでしまったから、父さんの記憶は酷く断片的だけれど。
でも、毎年春の始まる時期に、近くの川によく一緒に遊びに行っていたのは覚えている。
いつも穏やかで理知的な父が、その時だけは子供のようにはしゃいでいたから。
「ほら、耳をすませてごらん。氷の溶ける音が聞こえるよ。」
こう見えても子供のころは素直だった俺が、父さんの言うとおりに耳をすませると確かに微かな音が聞こえた。
…パキパキパキ
「氷がくだける音なんだ。もうすぐ春がやってくるよ。…春が来たら、一緒に外で魔法の練習をしよう。お前ももう10歳になるんだから、そろそろ練習を始めてもいいだろう。」
父さんは微笑みを浮かべながら俺に未来の話をした。
これは全くの私見だが、春を愛する人は前向きな人が多い。
父も母も、それに姉も。
うちの家族はみんな春を愛していたのに、どうして俺には遺伝しなかったのだろう。
「…それにな、お前には黙っていたけど…。もしかしたら父さんたち、王都に帰れるかもしれない。なにしろ、白豹を討伐したんだ。まだ子供の白豹だけど、王様の欲しがっていた毛皮を手に入れたことには変わりない。きっと王様はすごくお喜びになるぞ。ああ、すごく名誉なことだ…。」
普段はあまり喋らずに、母さんや姉さんの話に耳を傾けていることが多い父が、目を輝かせて喋り続ける。
父は元来城で宮廷魔導士として働いていて、それをなによりの誇りと思っていた。
王様の物欲を満たす為、こんな山奥でモンスター討伐の命を下されて、さぞや面食らったことだろう。
俺の生まれる前の話だから、姉さんからの又聞きだけど。
「王都に戻ったら、父さんは元通り王宮魔導士として迎え入れられるだろう。何しろ幻と言われるあの白豹を討伐したんだ。多分昇進するよ。…だからお前も、その息子に相応しい振る舞いを覚えなくてはいけないよ。…そう、お姉ちゃんみたいにね。」
頬を赤くして喋り続ける父が、なんだか知らない人に見えた。
こんなによく喋る人だったっけ?
「ここに来て、ちょうど10年くらいかな。…本当に、長かった…。ようやくうちにも、春が来るよ。」
パキパキパキ
耳をすませれば、音が聞こえる。
春の始まりの音だ。
そして、冬が死ぬ音。
ドアを開けたら、白豹がいた。
一面に降り積もった美しい白い背景の中にあってなお、その白い毛皮は圧倒的な存在感を放っていた。
冷たいけれどどこか温かい雪の輝きとは違う、底冷えするような銀の輝き。
筋骨隆々としたその体躯は、俺のゆうに5倍は超える。
その白豹が、父さんたちの墓に張った結界をなんとか剥がそうと、鋭い爪でむちゃくちゃに攻撃を仕掛けている。
奴が興奮して息を吐くたび、氷のつぶがパラパラと俺の顔を叩いた。
「…え、え、なに?なに?なにあのデカブツ。何してんの?姉さんが強化した結界が壊されちゃうよ!すごい馬鹿力…。」
キラキラが、信じられないと首を振った。
「ほんまや。大型ケルベロスの全力タックルでもびくともせんはずやのに…。マスター、やばいですよ。こんな所でぼやぼやせんと、逃げた方がいいんやないかな…。」
カチカチが真剣な表情で俺の目を見る。
その真っ直ぐとした眼差しから、思わず視線を逸らしてしまう。
手の震えが止まらない。
歯の根が合わない。
俺は恐れているのだ。
あの獰猛な魔物を。
そして、過去の自分の幻影を。
「マスター!?はやく、逃げてください!はっきり言います。勝てません!」
フワフワが、目を怒らせて大声を出す。
その言葉に、俺は不思議と胸をなでおろした。
…そうだ、勝てるはずがないのだ。
姉さんは、父と母を殺したのは、父さんが討伐した子供の白豹の親の仕業だろうと言っていた。そして、あの大型の白豹には宮廷魔導士だった父さんも、父さんが天才と褒め称えた姉さんも勝てなかったのだ。
あの鋭く光る牙に、爪に。
引き裂かれ、真っ赤になって死んでいった。
落ちこぼれである俺がいくら頑張ったって、勝てる道理がどこにもない。
ドアの外は恐ろしい。
何が起こるか分からない。
家に戻ろう。
そこなら身の安全と、家族との思い出がある。
金が無くても。食糧がなくても。
1人がどんなに寂しくても。
俺はそっと踵を返し、震える手でドアノブに手を掛けた。
「逃げるのかい、マスター?」
挑発的な低い声。
振り返ると、ショートカットの男勝りな顔をしたユキ…パキパキが、拳を固めて俺の方を睨んでいた。
「…に。」
何も言い返す言葉を思いつかない。
目頭に熱がこもる。
俺はまた、逃げようとしている。
姉さんが殺された、あの時のように。
でもしょうがないじゃないか。
逃げなければ、殺されるんだ。
「ちょっと~、パキパキ。何言ってんの~。下手に向かって行ったら殺されるんだから、逃げるのはいい判断でしょ~。」
キンキンが、甲高い声で俺をフォローする。
「…そうです。マスター、逃げるのは…、恥じゃ、ないです。」
フワフワが、たどたどしく俺を励ます。
そうだ。逃げるのは、恥じゃない。
俺なんかじゃ、どうせ勝てっこないんだから。
―本当に?
果たして本当にそうだろうか。
3年前のあの日、父さんと母さんの墓を守ろうとして死んだ姉の死体をそのままに、俺は一目散に逃げ出した。
…後に残ったのは、深い後悔と毎晩の悪夢だけだ。
穏やかで、生真面目な魔導士だった父。
明るくて、いつも皆を笑顔にしてくれた母。
そして、勝気だけど面倒見がよくて誰よりも優しかった姉。
劣等感を抱いて憎んだりした時期もあったけど、それでも心の奥底では尊敬していた。
…そうだ。
もう2度とあんな思いはしたくないと、決心したじゃないか。
この3年間、必死の思いで魔法の研究をしてきたじゃないか。
「大丈夫だよ、マスター。あんた1人じゃ無理だろうけど、あたしたちがついてるじゃないか。」
パキパキが、はっきりとした口調で言った。
その声は、姉さんにそっくりだった。
手の震えが、止まる。
「…そうだな。…俺は、逃げない。ここで、やる。」
囁くように呟いた。
だがユキ達の様子を窺うと、宙に浮いたまま、ぽかんとした顔をしている。
もしかしたら、声が小さすぎて耳に届かなかったのかもしれない。
姉さんもよく言っていた。こもって聞き取り辛いって。
―ああ、もう聞こえないって。ほら、お腹に力をいれて声を出すのよ―
姉の声が頭に響く。
「ここで、やる。」
今度は腹から声が出た。
自分でも、この声はちゃんとこの場の空気を震わせたと確信できるような声だ。
ユキ達は顔を見合わせて、笑いをこらえているように口元を震わせた。
「聞こえてるよ、マスター。了解だ。」
パキパキがにかっと白い歯を見せた。
戦闘、開始だ。