第14話 突然の帰宅
間が空いてしまい、申し訳ないです。
インフルエンザにかかったこともあり、半月ほど筆が進みませんでした。
明人が北海道へロケに出かけて一人家に残された薫は、生活のリズムを明人に狂わされる事もなく、快適に日々を過ごしていた。
薫が焼き出されたオンボロアパートよりも明人の自宅は何倍も快適だった。もっとも、それは明人が変なちょっかいを掛けてこなければの話だが――。
アパートでは壁と床の厚みがなくて、日常生活で極力音を立てないように気を使わなければならなかったが、ここではそんな事もない。空調も各部屋にエアコンが完備されている。台所は調理する人の動きやすさを配慮したシステムキッチンが取り入れられているし、お風呂も手足を十分伸ばせるほど大きい。
あと一週間で明人さんが帰って来るけど、平穏な生活もそこまでか。
日課となっている自主トレーニングの走り込みを終えた薫はシャワーを浴びながら、そう思った。
走る邪魔になるからと短く切っている髪の水分をタオルでぞんざいに拭っていると、薫の耳がドアの開く微かな音を拾った。
時間は夜更け。戸締りはしたはずだけど、どこか開いていたのかしら? 風呂場と廊下以外は節電の為に殆ど電気を消していたから、留守宅だと思われて泥棒が入ってきているのかも!?
薫は慌てて持って来ていたパジャマに袖を通すと、風呂場から手桶を持ちだした。音がした方に忍び足で近づいていく。
居間の灯りがついている事に薫は気づく。ドアのガラス部分に自分の影が入らないように、薫はそっとノブを回してドアをほんの少し開け、僅かに生じた隙間から中を覗き見た。左手には、しっかり手桶を構えて。
薫が見えたのは、明人が重そうなボストンバックをラグの上に置いて、お土産らしき品物をローテーブルの上に並べている光景だった。
そっと音を立てずに居間のドアを閉めて、薫は空いている右手で瞼を数回擦った。
私は幻を見ているんだろうか。予定ではロケは継続中のはずなのに――。
いくら考えても薫に回答が見つけ出せるはずもない。
ロケが早く終わったなら、連絡の一つもあって良いはずなのに……。
薫は自室に置いてきた携帯電話で聡に一体どうなっているのか尋ねるべく、抜き足差し足で居間に通じる扉の前をこっそり通り抜けようとした。
そっと足を一歩踏み出そうとしたところで、不意に傍のドアが開けられ、明人が姿を現した。薫は咄嗟に持っていた手桶を背中に隠した。
「お、お帰りなさい」
薫はやや引き攣った笑顔を作りながら、じりじりと明人から後ずさった。
薫の勘が今の明人には近づかない方が良いと警鐘を鳴らしていた。何だか明人の雰囲気が違っている。
いつもは大人の余裕を見せつけて、上から目線で薫の事を見下しているのだが、今は、お気に入りの宝物を見つけた子供のように無邪気な笑みを湛えて薫を見つめていた。
「風呂に入っていたのか……。道理で部屋の方に居なかったはずだ。一人で寂しくなかったか?」
「特に、寂しいとは思わなかったけど。大学には友人がいるし、時々、社長さんが様子を見に来てくれたもの」
薫の素直な感想を聞いて、明人は切なげに眉をしかめた。
「俺は、とても寂しかったよ。撮影をしていても、北海道に居るはずのない薫の姿を探してしまった。夢の中で求める程、薫に飢えていた。だから、可能な限り撮影が早く終わるように働きまくって、一週間も早く帰る事ができたんだ。やっと、愛しい薫の顔が見れて嬉しい」
薫は明人の言葉に面食らっていた。一途で甘やかな明人の視線に耐え切れずに、薫は俯いて明人の顔を視界から外した。
何なのですか、ロケから帰って来た途端に明人さんの口から溢れ出す熱い思慕の想いは。あなたは、マリさんに長年想いを寄せてきたんでしょう? それが、私が居なくて寂しかったなんて、何の冗談なのか。
あ、これって、もしかして聡さんが言っていた「役に嵌って抜け出せない」状態かな? 人柄が普段と全然違って見えるんですけど? いつもの俺様はどこへ行ったんだ!?
薫の脳は異常事態に直面したパニックに現実逃避を図ろうとするが、長くは続かなかった。明人の両手が柔らかく薫の両頬を包み込んで、強制的に顔を上へと向けさせられたからだ。
「ほら。もっとよく顔を見せて」
明人に蕩けるような笑顔を向けられ、額と額がくっつきそうなほど顔を寄せられて、顔を真っ赤にして薫は狼狽えた。この状況から脱出する方法を頭の中で探しあぐねてくる内に、勝手に体の方が先に動いた。
薫は思わず手桶を明人の側頭部へ叩きつける。パカーンと小気味良い音が廊下に響いた。
頭を抱えて蹲る明人の横に手桶を放り出して、薫は無我夢中で階段を駆け上がり自室に飛び込んだ。
鍵を内側から掛け、夏用の薄い上掛けを頭から被ってベッドの上に座り込む。ストレートに好意を向けられた事のない薫にとっては、明人の行動は刺激が強すぎた。
な、なんなの、あの色気だだ漏れの顔は。君しか眼中にないって目で訴えてくるなんて、好きだと言葉で呟かれるよりも心臓に悪い。心が明人の想いに絡め取られそうになるから。
役に嵌ってあんな顔できるなんて、一体どんな映画を撮っているのよ。純愛物って聞いたはずなんだけど……。
明人の言葉も態度も映画の撮影が終わるまでの幻なんだ。どんなに甘い言葉や熱い想いを流し込まれても、本気にしちゃ駄目。いつかは婚約偽装も終わって、関わりの無い人になるんだから。
自己暗示をかける様に薫は自分に言い聞かせる。
ああ、でも、明人は俳優なのに思いっきり頭を殴っちゃった。手桶はプラスチック製だから、大きな怪我にはならないと思うけど。それでも、青痣や腫れができていたら、どうしよう。
次のお仕事に支障が出る様な事になったら、ごめんなさいじゃ済まないかもしれない。
セクハラ一歩手前までの事をされた相手の事を気遣うあたり、薫はどこまでもお人好しだった。
少し冷静さを取り戻した頃、ベット脇に設置されているサイドテーブルに置いてある携帯電話に着信があった事を示すランプが点灯しているのに薫は気づいた。携帯電話を開けてみると、聡からの電話だった。
何度も着信があったようで、着信履歴の画面が聡の携帯電話番号で埋められていた。
手に取った携帯電話が着信音と共に震え始めた。聡からの電話だった。薫は通話ボタンを押して電話に出た。
「もしもし、立山です」
「薫さん、明人そっちに居ないか?あいつ、携帯の電源切ってとんずらしやがった」
は? えっ? もしかしてロケを抜け出してきたの?私との婚約を偽装してまで欲しかった仕事なのに?
薫の疑問は口をついて流れ出た。
「明人は少し前に家に戻ってきています。彼はロケの途中で仕事を放り出して帰ってきたんですか?」
「いや、北海道でのロケ自体は終わっているんだ。ロケが思いのほか早く終わったからご褒美という事で、監督主催の慰労会が設けられたんだが、明人は断りもなく欠席したんだ」
聡は随分とお怒りの様子である。それもそうだろう。今後、映画の撮影をするにあたって映画スタッフ、女優、俳優達と良好な人間関係を築いておく事は大事だ。
携帯電話の向こうで、聡が明人の我儘に歯ぎしりして地団駄を踏む姿が薫には想像できた。一方で、明人が仕事自体を放り出したのではない事に薫はほっとしていた。
「慰労会の欠席は私が理由をこじつけてフォローしておいたから、大した事にはなっていない。それよりも、明人に何か変な事されなかったか?」
聡がこう尋ねるって事は、やっぱり明人は役に酔っていたのか。薫は確信を深める。
「明人が変なんです。私に会いたかったとか、私に飢えていたとか。普段の彼からは出ない言葉がポンポン出て来て、びっくりしました」
「それで、薫さんは今どうしている?」
「自室に鍵を掛けて閉じこもっていますけど……」
聡が安堵のため息をついたのが電話越しに聞こえてきた。
そんなに心配されていたのか。ということは、今回の明人の役への嵌り具合も酷いって事なんだ。
「あと一時間ほどで、そちらに着く。それまで部屋を出ないように。いいね?」
「はい」
聡は薫の返事を確認してから電話を切った。薫は携帯電話のアラームを起床時間に設定すると、サイドテーブルへと戻した。
暫くは、明人の言葉は役から抜け出せない俳優の寝言として聞き流すしかないか、と薫は思った。
手桶で殴ったショックで、元に戻っていれば良いけど、元に戻ったら戻ったで、殴った事に対する嫌味をちくちくと言われるのだろう。
考えても、思い悩んでも、明日という日は必ず来る。睡眠不足で陸上の練習に支障をきたすような事があってはならない。
薫は無理矢理にでも眠ろうと体をベッドの上に横たえた。
* * * * * * * * * *
明人の自宅の合鍵を取出し、聡は玄関ドアにある鍵穴にもどかしげに差し込む。カチリという音と同時に聡はドアノブを回し、滑り込む様に明人の自宅へと入った。
「おい、明人居るんだろ?」
玄関に靴をぞんざいに脱ぎ捨て、スリッパを取らずに聡は明人の姿を探した。灯りがついている部屋を探すだけで、聡は明人の姿を見つける事ができた。
明人は居間のソファーに座って頭を垂れ、強かに落ち込んでいた。
「マネージャーの私に断りもなく、勝手に東京に帰ってしまうなんて、らしくないな、明人」
「一時間でも早く薫に会いたかったんだ。薫を愛しているって気づいてから、薫に俺の想いを知って欲しくて気が早ってしまった」
あーあ、こいつは恋を覚えたての青少年かよ。
明人が慰労会をすっぽかした理由を聞いた聡は内心げんなりしていたが、それを表情に出すようなへまはしなかった。
「まさか、薫さんに手を出したのか?」
「手を出しそうになったが、薫に逃げられた。好きだと告げる前に、キスしようとしたんだから、当然か。初めてだよ、迫って逃げられたのは」
自嘲気味に語る明人に、聡は明人の薫への執着度が強まったのを感じた。
「未成年相手にがっつき過ぎだ。薫さん、まだ19歳だろ? ずっと陸上一筋の生活で、ロクに恋愛経験もないだろうに、いきなり濃厚な大人の恋愛の駆け引きを仕掛けてどうするんだよ?戸惑うだけだ」
「未成年と言っても、あと1ヶ月足らずで薫は20歳になるじゃないか。大人とほとんど変わらないさ」
それに、と明人は付け加える。
「どんな形でも好きだと相手に伝えようとしないと、伝わらない」
「まあ、それはそうなんだが……。映画の撮影が終わるまでは、薫さんは明人の言葉を信じてくれないと思うぞ」
明人は、きょとんとした顔で聡を見上げた。
「何故だ?」
「役から抜け出せない明人の特性を、私が説明しているからな」
「ちっ。余計な事を」
明人は舌打ちをし、両眉を寄せて聡を忌々しげに見遣った。聡は平然と明人の視線を受け止めて、懇々と明人に言い聞かせた。
「余計な事などあるもんか。何度もそれで共演した女優とトラブルを引き起こしている癖に。その度に、事態の収拾に大変な苦労したのは、この私だ」
暫くの間、明人と聡は無言で対峙し、視線の先で火花を散らしていたが、聡の方が諦めのため息をついて視線を外した。
『恋は人を盲目にする』その実例を目の前にして、八百万の神々に聡はクレームをつけたくなった。よりによってこの時期に、明人に自分の気持ちを気づかせるなんて、神様は何とも意地悪だ。
好きだという気持ちを抑えきれずに、明人がモーション掛け過ぎて、薫さんに逃げられないように聡は祈るばかりである。
お願いだから、映画公開まで穏便に行動してくれよ。
額に右手を当てて、苦悩のポーズを取りながら聡は明人にお願いする。
「取り敢えず、明日から薫さんには普通に振る舞ってくれ」
「普通か……、難しいな」
薫が好きだと自覚してから彼女に触れたくて堪らない。少しでも俺を男として意識して、俺の頭の中が薫の事で溢れているように、薫も俺の事しか考えられないようになればいいと、明人は思った。
こんな状態で、普通に薫に接する事なんて、できるわけがない。
「それ位はやってもらうよ。明人は俳優だろう?」
聡は決定事項だと言わんばかりに、明人に詰め寄った。何せ、芸能事務所の存続がかかっているため聡は必死である。
「わかった。普通を演じてみよう」
明人はソファーに座ったまま目を伏せ頷いた。
2014.02.11 初出




